2007年10月25日木曜日

ラッパが聞こえる東京球場Ⅵ

 「黒い霧事件」に端を発した暗雲は、リーグ全体に垂れ込めていた。1965年(昭和40)から読売ジャイアンツが9年連続で日本一に輝き、人気面でも後楽園球場の巨人戦は大入りを続けていたが、パリーグは不入りが常態化していた。

 ロッテには永田の大映が撤退しロッテが球団を引き受けたものの東京球場の賃貸契約問題があり、西鉄には球団譲渡先を探さなければならなかった。さらに東映フライヤーズにも火種があった。
 1971年8月、東映の社長であり球団オーナーの大川博が肝硬変で急死した。永田雅一と並ぶ野球好きの名物オーナーだった。1962年水原茂監督のもと張本勲、土橋正幸、尾崎行雄らの活躍で日本一制覇し、背番号100をつけ優勝パレードを行っている。
 後任社長は敏腕プロデューサーとして名高い岡田茂が務めることになった。岡田は本業の映画が経営不振の折、儲からない球団経営には消極的だった。球団存続が囁かれていた。

 1972年秋、西鉄の譲渡先探しに奔走した中村長芳は外資系の飲料メーカーであるペプシコーラと交渉、契約寸前まで漕ぎつけた。ところが東映の球団身売り騒動が持ち上がった。
 ペプシコーラはごたごた続きのパリーグ球団の経営参画は得策でないと判断し、交渉を打ち切った。さらに中村は音響メーカーのパイオニアにも声をかけたが、話はまとまらなかった。
 西鉄の見売り先が見つけられない中村は、私財を投じて金を工面し西鉄を買収し、個人会社福岡野球株式会社を設立した。複数球団の所有はできない協約に従い、ロッテのオーナー職を降りた。1973年からはゴルフ会員権売買の太平洋クラブ(後にクラウンライター)と提携先を開拓しながら、なんとか6年間球団を維持したものの、経営破綻をきたし1978年西武グループの総帥、堤義明に球団経営の引継ぎを要請した。福岡の地から離れ、ライオンズは西武ライオンズとして埼玉県所沢に本拠地を移転する。福岡に球団が戻ったのは、1989年まで待たなければならなかった。ダイエーが南海ホークスを買収し、福岡に本拠を移転した。2005年からはダイエーから経営権はソフトバンクに移っている。
 一方、東映はキャンプが迫った1973年1月、岡田茂と東急グループの五島昇が球団を不動産開発、貸ビル事業、パチンコ業の日拓ホームに売却することを決断した。その日拓ホームは1年で球団を手放し、1974年からは日本ハムが球団経営を行っている。蛇足ながら、この10月8日にタレント神田うのと結婚した西村拓郎(日拓ホーム代表取締役社長)は、球団買収した日拓オーナー西村昭孝(日拓ホーム代表取締役会長)の長男である。

 さて東京球場に話を戻そう。
 
 1972年のシーズンオフ。西鉄の譲渡先は中村が福岡野球株式会社を立ち上げ、なんとか落着した。複数球団のオーナーにはなれない野球協約の縛りがあり、ロッテはオーナー不在となった。後任には表舞台を固辞していた重光武雄がやむなく就いた。重光は旧知の400勝投手、金田正一を監督に迎えることになる。
 「角福代理戦争」の様相を呈していた東京球場問題は中村が去り、障害をひとつ越えたことになったが、新監督のカネやんこと金田が不要論と唱えた。理由は投手出身らしく左中間と右中間が直線的でふくらみがなく本塁打量産しやすく、投手泣かせ球場であることだった。余談だが、東京球場で11年間にセパ合わせて841試合が行われ、1,914本の本塁打が飛び交った。1試合平均2.28本と、なるほど本塁打量産球場だった。
 
 国際興業の社主である東京球場の経営権を握った小佐野賢治は、「このまま貸し球場として持っていても採算はとれない。球団と球場は一体的に経営するが理想」と、新オーナーの重光に買取りを強く求めた。実際に当時のロッテ本社があった東京・西大久保に足を運び直談判している。しかし、ロッテは従来通りの賃貸契約を望み、交渉は平行線を辿ったが、「東京球場を買うくらいなら、その金を補強に回してほしい」という金田の強硬意見もあり、交渉を打ち切っている。以来ロッテは1973年から1977年までの5年間仙台を中心として渡り歩く流浪の球団となった。1978年からは川崎を本拠とし、1992年からは千葉ロッテとして今日に至っている。
 ロッテの断に対し、小佐野は「儲からない球場は廃業し閉鎖する。来シーズン以降は使用させない」とした。

 東京球場のプロ野球常設球場の歴史はわずか11年の使用でここに閉ざされたのだった。

 球場閉鎖から35年の歳月が流れた。ラッパと言われた男が大好きな野球を自前の球場で選手にやらせたい、採算など度外視して作った夢の球場(フィールド・オブ・ドリームス)であった。1985年(昭和60)永眠。死後の1988年、日本の野球の発展に大きな発展と貢献した野球人を永久に讃える野球殿堂入り(特別表彰)を果たしている。
 
 その顕彰文には以下のように記してある。
昭和23年プロ野球大映チームのオーナーとしてリーグに加盟すると、映画制作同様たちまち球団経営にも行動力を発揮し、24年には二リーグ分立の推進役を果たした。パ・リーグの人気高揚を願い、またフランチャイズ制の理想的な確立を求めて東京球場を建設するなど、球界の発展のため誠心誠意の情熱を注いだ(原文のまま)

 東京都荒川区南千住6―45。東京球場跡地には荒川総合スポーツセンター、南千住野球場(グラウンド2面)、南千住警察が存在する。佇めば、そこには永田が奏でるラッパの音が聞えるはずである。(完)

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