*150年前、開港間もない横浜近郊で事件は起った――。
生麦事件に関する問題です。
薩摩藩島津久光一行の行列に馬上の4人のイギリス人が出くわし、正面から交錯し藩士に無礼討ちに遭い、1人が死亡、2人が重傷を負った事件ですが、負傷したイギリス人を手当てした医師は誰でしょうか?(正解は後ほど)
横浜・みなとみらい線日本通り駅から徒歩5分の横浜開港資料館で企画展「生麦事件 激震、幕末日本―イギリスに遺された資料から」を観る。
生麦事件から150年。幕末日本の外交の転換期となった生麦事件の経緯とその影響をたどるとともに、犠牲者のリチャードソン家に伝わる遺品資料が本邦初公開している展示。開催2012年7月19日~10月21日。
本展構成
1 生麦事件
2 事件の目撃者・証言者たち
3 イギリス・フランス軍の横浜駐屯
4 薩英戦争
5 和平交渉
6 長州藩と下関戦争
7 生麦事件の記憶
8 リチャードソン家の遺品から
× × ×
開港間もない横浜の近郊、生麦で事件は起った。
ちょうど150年前。文久2年8月21日(1862年9月14日)。事件で、横浜に住む2人の商人が重傷を負い、上海の商人チャールズ・L・リチャードソンが殺害された。
リチャードソンは即死状態で、一行の唯一の女性で無傷のボロデール夫人は横浜の居留地に逃げ込み、重傷のクラークとマーシャルというイギリス人は当時アメリカ領事館として使われていた神奈川宿の本覚寺に命からがら馬を疾駆させ飛び込んだ。
さて、そこで冒頭の問題の答えです。
本覚寺で治療に当ったのがアメリカ人のジェームズ・カーティス・ヘボンさん(1815年―1911年)でした。あのヘボン式ローマ字の創始者です。医学博士で宣教師でもありました。当時、神奈川で布教をしながら、医療活動をしていました。
生麦事件は大きな外交問題となり、翌1863年8月にはイギリスと薩摩藩の間で戦端が開かれた。結果は近代兵器の威力の前に屈した薩摩だが、死者数はイギリス63名、薩摩17名。以後、薩摩はイギリスと親交し、維新への流れが加速した。
本展のキモはリチャードソンの書簡。彼は上海で生糸と不動産売買に携わっていた商人だが、父親に宛てて、日本貿易に対する期待を綴っている。
「日本は、黄金から樟脳に至るまで、東洋に関わりのあるあらゆる物が豊富だといわれています。日本が大きな貿易国となることを、私は信じて疑いません」。
× × ×
生麦には親近感がある。
生まれ育った川崎の臨港地区(川崎区小田)と鶴見(横浜)とはお隣さん。小学校のころ、総持寺は「本山」といってお遊び場だったし、中学時代は潮田や岸谷でプール遊びをした。生麦(横浜鶴見区)には自転車を駆って、飼っていた伝書鳩を飛ばしに出掛けた。目印はキリンビールの工場。放ったハトは自転車より早く家に戻っていたっけ。
だから、「生麦事件」は近所で起った日本史の大事件、歴史の授業で「生麦事件」が出てくるたび、なんだか得意な気持ち、高揚感がありました。
近場で生まれ育っただけなのに……(笑)。
2012年8月2日観覧
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