藤沢周平の「長門守の陰謀」(文春文庫)を読む。初期の短編5作を収録。表題作は「長門守事件」といわれる庄内藩のお家騒動を描いた歴史小説。
*「夢ぞ見し」
昌江の夫、小寺甚兵衛は背が低く、肩幅だけある蟹のような風采である。最近、下城が遅い。二十五石の俸禄のくせになんで忙しいのか不思議でならない。
ある日、溝江啓四郎と名乗る若い武士が小寺家に転がり込む。長身にして目もと涼しい白皙(はくせき)だが、口ぶりは横柄だった。
啓四郎が来て半月。遣いから帰宅した昌江は、家の前で啓四郎が四、五人の男を相手に斬り合いしているのを目撃する。
*「春の雪」
みさは父・安蔵の見舞いにいくと、母・おたねから縁談があることを聞かされる。相手は三笠屋の若旦那の徳蔵だった。みさは徳蔵を好かない。
みさには幼なじみが二人いる。機転が利き男っぷりのいい作次郎とのろまでへまばかりする茂太。みさと作次郎は恋中だったが……。
*「夕べの光」
おりんは倅の幸助と二人暮らし。幸助は実の子ではない。死んだ亭主の栄作と先妻の子だったが、乳飲み子から育ててきた。
おりんに縁談が舞い込んだ。相手は小間物屋をしている柳吉だった。
*「遠い少女」
小間物屋の鶴蔵はコツコツ働き店を繁昌させてきた。四十を過ぎて、別の生き方といいたものに心をとらわれるようになっていた。
そんなある日、鶴蔵はおこんという幼なじみの消息を耳にした。裾継(深川の岡場所)で働いているという。
*「長門守の陰謀」
庄内藩家老、高力喜兵衛の家に千賀主水が訪ねてきた。千賀は、長門守忠重が藩主忠勝の世子摂津守忠当を廃してして、後嗣に自分の子九八郎忠広を据えようとの謀りごとがあると告げるのだった。
目次
・夢ぞ見し
・春の雪
・夕べの光
・遠い少女
・長門守の陰謀
× × ×
一番好みの短編は「夢ぞ見し」ですな。東映時代劇にでもありそうな筋書きです。さしずめ溝江啓四郎役は大川橋蔵かな。ラストシーンにニヤリとさせられます。
2011年3月30日読了
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2011年3月31日木曜日
2011年3月29日火曜日
美しい宮沢りえ・茶々:「江」
*大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」(第11回=猿の人質)
なにゆえ、われらが従兄弟である信孝さまを、
その実の兄たる信雄さまに殺させたのでありまするか。
その上、天下を取るおつもりとか。
宮沢りえの茶々が岸谷五朗の羽柴秀吉にこう詰問した。
天正11年(1583年)4月。賤ヶ岳の戦いに敗れ、柴田勝家の越前・北庄城は落城し、勝家ともに市は自害した。茶々・初・江の三姉妹は秀吉の人質として安土城に引き取られた。そんなとき、勝家に与した信孝が秀吉の工作により、信雄から切腹を命じられ果てたという知らせに、茶々は秀吉への憎悪を募らせる。
「秀吉は、織田家を根絶やしにしようとしているのではないか」
一方、秀吉は茶々の美しさの魅せられ邪心を抱くのだった。
× × ×
京極龍子の鈴木砂羽さんが初登場しました。あのテレビドラマ「相棒」の亀山薫(寺脇康文)さんちの奥さんです。
京極龍子は浅井長政のお姉さん(京極マリア)の娘ですから、三姉妹の従姉妹にあたります。
「わたくし、秀吉さまの側室ですの」と気品ある笑顔を見せていましたな。
ちなみに秀吉の側室は300人ほどいたそうです。それでも男児の子宝に恵まれず、3人儲けただけで、うち2人は茶々(淀殿)が産み、成人したのは秀頼だけでした。
以前から気になることがあります。秀吉は家康より6歳年上なんですが、どうみても岸谷五朗さんの秀吉は北大路欣也さんの家康より若いよね。
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なにゆえ、われらが従兄弟である信孝さまを、
その実の兄たる信雄さまに殺させたのでありまするか。
その上、天下を取るおつもりとか。
宮沢りえの茶々が岸谷五朗の羽柴秀吉にこう詰問した。
天正11年(1583年)4月。賤ヶ岳の戦いに敗れ、柴田勝家の越前・北庄城は落城し、勝家ともに市は自害した。茶々・初・江の三姉妹は秀吉の人質として安土城に引き取られた。そんなとき、勝家に与した信孝が秀吉の工作により、信雄から切腹を命じられ果てたという知らせに、茶々は秀吉への憎悪を募らせる。
「秀吉は、織田家を根絶やしにしようとしているのではないか」
一方、秀吉は茶々の美しさの魅せられ邪心を抱くのだった。
× × ×
京極龍子の鈴木砂羽さんが初登場しました。あのテレビドラマ「相棒」の亀山薫(寺脇康文)さんちの奥さんです。
京極龍子は浅井長政のお姉さん(京極マリア)の娘ですから、三姉妹の従姉妹にあたります。
「わたくし、秀吉さまの側室ですの」と気品ある笑顔を見せていましたな。
ちなみに秀吉の側室は300人ほどいたそうです。それでも男児の子宝に恵まれず、3人儲けただけで、うち2人は茶々(淀殿)が産み、成人したのは秀頼だけでした。
以前から気になることがあります。秀吉は家康より6歳年上なんですが、どうみても岸谷五朗さんの秀吉は北大路欣也さんの家康より若いよね。
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2011年3月26日土曜日
藤沢周平「逆軍の旗」
*信長は光秀を「てろ頭め」と叱責した
藤沢周平の「逆軍の旗」(文春文庫)を読む。歴史上の人物や事件をもとにした歴史小説が4編収められている。
表題作「逆軍の旗」は織田信長を討つ明智光秀を描いている。
「われらとは貴様がことか。吐(ぬ)かせ、今度の戦で貴様がどう働いた?」
光秀はあっと思った。「われら織田の軍勢、多年骨折った甲斐がござっった」。天正10年。織田、徳川軍が甲斐攻めで武田勝頼を討った。上諏訪の法華寺での酒宴の席で、武将たちが口ぐちに嫡男・信忠の戦功を称えたが、光秀は信忠の働きを直線的に褒めることをためらい、「われら織田の軍勢」といった。それが信長の勘に障った。
「目ざわりな、てろ頭め。消えろ」
比叡山の焼き討ちから信長との乖離を感じていた光秀が、坐して滅びるかあるいは叛(そむ)くか、決断する。
「幻にあらず」は藩政改革を行う上杉鷹山(治憲)の話。
……(竹俣)当綱は十二という年から、別のことを考えていた。
――間に合うか。
間に合うまい、と当綱は心の中で自答する。米沢藩は、寛文四年に藩主綱勝が急死して、領地は従来の三十万石から十五万石に半減されたが、そうでなくとも豊かではない藩財政は、その後悪化の一途をたどって、いまは破産の寸前にあった。その建て直しとなると、当綱は人にこそ言わね、ほとんど絶望的な見通しを持っている――本文からの引用。
家老の竹俣当綱の力を借り、若い藩主・治憲が逼迫した藩財政を再建へ着手する。
目次
・逆軍の旗
・上意改まる
・二人の失踪人
・幻にあらず
× × ×
信長が光秀を叱責するシーン、NHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」でも扱っていました。豊川悦司の信長が、市村正親の光秀に「キンカン頭が」と殴っていましたな。
また、羽柴秀吉の備中への援軍を信長に命じられた光秀が連歌の発句を――「時は今あめが下しる五月哉」と詠んでいますが、この句に天下取りの思惑は隠されているのでしょうか。
*光秀の関連記事
・加藤廣「明智左馬助の恋(上)」2011/1/30
・加藤廣「明智左馬助の恋(下)」2011/2/05
2011年3月26日読了
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藤沢周平の「逆軍の旗」(文春文庫)を読む。歴史上の人物や事件をもとにした歴史小説が4編収められている。
表題作「逆軍の旗」は織田信長を討つ明智光秀を描いている。
「われらとは貴様がことか。吐(ぬ)かせ、今度の戦で貴様がどう働いた?」
光秀はあっと思った。「われら織田の軍勢、多年骨折った甲斐がござっった」。天正10年。織田、徳川軍が甲斐攻めで武田勝頼を討った。上諏訪の法華寺での酒宴の席で、武将たちが口ぐちに嫡男・信忠の戦功を称えたが、光秀は信忠の働きを直線的に褒めることをためらい、「われら織田の軍勢」といった。それが信長の勘に障った。
「目ざわりな、てろ頭め。消えろ」
比叡山の焼き討ちから信長との乖離を感じていた光秀が、坐して滅びるかあるいは叛(そむ)くか、決断する。
「幻にあらず」は藩政改革を行う上杉鷹山(治憲)の話。
……(竹俣)当綱は十二という年から、別のことを考えていた。
――間に合うか。
間に合うまい、と当綱は心の中で自答する。米沢藩は、寛文四年に藩主綱勝が急死して、領地は従来の三十万石から十五万石に半減されたが、そうでなくとも豊かではない藩財政は、その後悪化の一途をたどって、いまは破産の寸前にあった。その建て直しとなると、当綱は人にこそ言わね、ほとんど絶望的な見通しを持っている――本文からの引用。
家老の竹俣当綱の力を借り、若い藩主・治憲が逼迫した藩財政を再建へ着手する。
目次
・逆軍の旗
・上意改まる
・二人の失踪人
・幻にあらず
× × ×
信長が光秀を叱責するシーン、NHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」でも扱っていました。豊川悦司の信長が、市村正親の光秀に「キンカン頭が」と殴っていましたな。
また、羽柴秀吉の備中への援軍を信長に命じられた光秀が連歌の発句を――「時は今あめが下しる五月哉」と詠んでいますが、この句に天下取りの思惑は隠されているのでしょうか。
*光秀の関連記事
・加藤廣「明智左馬助の恋(上)」2011/1/30
・加藤廣「明智左馬助の恋(下)」2011/2/05
2011年3月26日読了
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2011年3月22日火曜日
鈴木保奈美・市の決意:「江」
*大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」(第10回=わかれ)
江:わたしが死んだら、また母上に会えまするか。
市:……ああ、一番に会えるぞ。
市の鈴木保奈美と江の上野樹里の別れのシーン。こう言ってふたりは強く抱き合った。
天正11年(1583年)4月。賤ヶ岳(しずがたけ)の戦さに敗れ、柴田勝家(大地康雄)は越前・北庄城へと敗走する。やがて城は羽柴秀吉(岸谷五朗)の軍勢に包囲される。死を決意した市は三姉妹を呼び、「母は残る。そなたたちは城から離れよ」と告げる。三姉妹は母と一緒に城に残りたいと懇願するが、市の決意は揺るがない。
「母の生きる道はもうどこにもない。生き地獄より死ぬ道を選びたいのじゃ」
秀吉の遣いで石田三成(萩原聖人)が現れる。市の残留を知り戸惑う。やむなく三姉妹を連れ、城を出る。
北庄城は炎に包まれるのだった。
× × ×
*美濃返し=賤ヶ岳の戦いの際、秀吉の軍勢は美濃・大垣から近江・木之本までの13里(52キロ)をわずか5時間で駆け抜けた。岐阜城の織田信孝を倒すため美濃にいた秀吉は、中川清秀が守っていた大岩山砦が佐久間盛政により陥落したことを知り、賤ヶ岳にとって返した。砦を落としたら退けという勝家の命に背き大岩山に野営していた盛政は秀吉迫るの報に浮足立ち、秀吉の追撃に勝家勢は総崩れとなり、北庄城へ退却した。
× × ×
鈴木保奈美は美しく凛々しく市を演じておりましたな。嫁いだ先の浅井長政、柴田勝家と戦さに敗れ、亡くなりました。戦国武将の宿命なのでしょうが、そのたびに辛い別れが待っていました。
さて、三姉妹は秀吉の保護を受けることになります。
三成に言い放った市の台詞にはニヤリとさせられました。
「姫たちに指一本触るでないぞ。秀吉に伝えよ。そのようなことがあれば、信長とこの市が許さんと、な」
茶々はその後に秀吉の側室になるわけですが、これからの秀吉と茶々の葛藤がみどころですぞ。
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江:わたしが死んだら、また母上に会えまするか。
市:……ああ、一番に会えるぞ。
市の鈴木保奈美と江の上野樹里の別れのシーン。こう言ってふたりは強く抱き合った。
天正11年(1583年)4月。賤ヶ岳(しずがたけ)の戦さに敗れ、柴田勝家(大地康雄)は越前・北庄城へと敗走する。やがて城は羽柴秀吉(岸谷五朗)の軍勢に包囲される。死を決意した市は三姉妹を呼び、「母は残る。そなたたちは城から離れよ」と告げる。三姉妹は母と一緒に城に残りたいと懇願するが、市の決意は揺るがない。
「母の生きる道はもうどこにもない。生き地獄より死ぬ道を選びたいのじゃ」
秀吉の遣いで石田三成(萩原聖人)が現れる。市の残留を知り戸惑う。やむなく三姉妹を連れ、城を出る。
北庄城は炎に包まれるのだった。
× × ×
*美濃返し=賤ヶ岳の戦いの際、秀吉の軍勢は美濃・大垣から近江・木之本までの13里(52キロ)をわずか5時間で駆け抜けた。岐阜城の織田信孝を倒すため美濃にいた秀吉は、中川清秀が守っていた大岩山砦が佐久間盛政により陥落したことを知り、賤ヶ岳にとって返した。砦を落としたら退けという勝家の命に背き大岩山に野営していた盛政は秀吉迫るの報に浮足立ち、秀吉の追撃に勝家勢は総崩れとなり、北庄城へ退却した。
× × ×
鈴木保奈美は美しく凛々しく市を演じておりましたな。嫁いだ先の浅井長政、柴田勝家と戦さに敗れ、亡くなりました。戦国武将の宿命なのでしょうが、そのたびに辛い別れが待っていました。
さて、三姉妹は秀吉の保護を受けることになります。
三成に言い放った市の台詞にはニヤリとさせられました。
「姫たちに指一本触るでないぞ。秀吉に伝えよ。そのようなことがあれば、信長とこの市が許さんと、な」
茶々はその後に秀吉の側室になるわけですが、これからの秀吉と茶々の葛藤がみどころですぞ。
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2011年3月19日土曜日
藤沢周平「喜多川歌麿女絵草紙」
*歌麿・写楽・京伝・馬琴に蔦重
藤沢周平の「喜多川歌麿女絵草紙」(文春文庫)を読む。生身の女を描くことに執念を燃やす絵師・歌麿を描いた連作短編集。
老中松平定信による寛政の改革期。風紀取締りが厳しくなり、洒落本が摘発され著者の山東京伝は手鎖50日の処罰、版元の蔦屋重三郎は身代半減の過料を受けた。再起の足がかりに蔦屋は役者絵を出版すること決意する。美人絵などは取締りの対称となる恐れがあり、役者絵は対象外だった。
蔦屋の営む耕書堂の番頭で京伝の居候である滝沢馬琴に役者絵を依頼された歌麿は、それを断る。歌麿は当代一の人気絵師。蔦屋に売り出してもらった恩義はあるが、美人絵こそが己の道と堅く信じる歌麿であった。
以上の時代背景で物語は進む。6つの短編に美人絵のモデルの女が登場し、その素顔をさまざまな出来事を通じて描いている。
「近ごろ、筆が荒れていませんか」
と蔦屋は言った。柔らかい口調だったが、厳しい表情をしている。
「天下の喜多川歌麿にこんなことを言うのは、大変失礼なんだが、若い時分からのつき合いのあたしが言わなきゃ、誰も言わんだろうし」
「言って下さい。構いませんよ」
と歌麿は言った。
「顔は同じなんですよ。どの女も」
歌麿は一瞬、平手で顔を殴られたような感じを受けた。恐ろしい言葉を聞いたという気がした――巻末の「夜に凍えて」から引用――
蔦屋が発見した非凡な才能の写楽。その圧倒的な写実力のある写楽の役者絵を観た直後。自らの絵がマンネリ化していることに気が付いていた歌麿だが、面と向かって暴かれ衝撃を受ける。
そして、生身の女を描く情熱の炎を再び燃やす。
目次
・さくら花散る
・梅雨降る町で
・蜩(ひぐらし)の朝
・赤い鱗雲
・霧にひとり
・夜に凍えて
× × ×
歌麿、写楽、京伝、馬琴に江戸きっての出版プロデューサー蔦重と役者が揃い、田沼意次から松平定信への時代に変革と、歴史好きには面白い読み物ですな。
昨年の暮れ、六本木のサントリー美術館で「歌麿・写楽の仕掛人 その名は蔦屋重三郎」展を観ました。東日本大震災のわずか3カ月前だったのです。巨大地震の前のことは、かなり遠い昔のように思われます。
関連記事
*蔦屋重三郎展:サントリー美術館2010/12/10記
2011年3月17日読了
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藤沢周平の「喜多川歌麿女絵草紙」(文春文庫)を読む。生身の女を描くことに執念を燃やす絵師・歌麿を描いた連作短編集。
老中松平定信による寛政の改革期。風紀取締りが厳しくなり、洒落本が摘発され著者の山東京伝は手鎖50日の処罰、版元の蔦屋重三郎は身代半減の過料を受けた。再起の足がかりに蔦屋は役者絵を出版すること決意する。美人絵などは取締りの対称となる恐れがあり、役者絵は対象外だった。
蔦屋の営む耕書堂の番頭で京伝の居候である滝沢馬琴に役者絵を依頼された歌麿は、それを断る。歌麿は当代一の人気絵師。蔦屋に売り出してもらった恩義はあるが、美人絵こそが己の道と堅く信じる歌麿であった。
以上の時代背景で物語は進む。6つの短編に美人絵のモデルの女が登場し、その素顔をさまざまな出来事を通じて描いている。
「近ごろ、筆が荒れていませんか」
と蔦屋は言った。柔らかい口調だったが、厳しい表情をしている。
「天下の喜多川歌麿にこんなことを言うのは、大変失礼なんだが、若い時分からのつき合いのあたしが言わなきゃ、誰も言わんだろうし」
「言って下さい。構いませんよ」
と歌麿は言った。
「顔は同じなんですよ。どの女も」
歌麿は一瞬、平手で顔を殴られたような感じを受けた。恐ろしい言葉を聞いたという気がした――巻末の「夜に凍えて」から引用――
蔦屋が発見した非凡な才能の写楽。その圧倒的な写実力のある写楽の役者絵を観た直後。自らの絵がマンネリ化していることに気が付いていた歌麿だが、面と向かって暴かれ衝撃を受ける。
そして、生身の女を描く情熱の炎を再び燃やす。
目次
・さくら花散る
・梅雨降る町で
・蜩(ひぐらし)の朝
・赤い鱗雲
・霧にひとり
・夜に凍えて
× × ×
歌麿、写楽、京伝、馬琴に江戸きっての出版プロデューサー蔦重と役者が揃い、田沼意次から松平定信への時代に変革と、歴史好きには面白い読み物ですな。
昨年の暮れ、六本木のサントリー美術館で「歌麿・写楽の仕掛人 その名は蔦屋重三郎」展を観ました。東日本大震災のわずか3カ月前だったのです。巨大地震の前のことは、かなり遠い昔のように思われます。
関連記事
*蔦屋重三郎展:サントリー美術館2010/12/10記
2011年3月17日読了
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2011年3月12日土曜日
池波正太郎「忍者丹波大介」
*「真田太平記」外伝
池波正太郎の「忍者丹波大介」(新潮文庫)を読む。
豊臣秀吉の死後、諸国の大名の勢力は徳川家康と石田三成の二派に分かれた。
三成の家臣、島左近は側近の柴山半蔵と忍者の岩根小五郎を呼び、「家康の命を絶ってくれ」と命じた。が、柴山半蔵は下女の於志津を徳川方に暗殺計画の一報を知らせるため、走らせた。柴山は家康の家臣・本多正信の間者だった。
遣いの途中、於志津は棍棒が足にからみ転倒した。襲ったのは甲賀の忍者、丹波大介だった……。
目次
第一部
・白い密使
・耳塚屋敷
・伏見騒擾
・甲賀命令
・大谷屋敷
・襲撃
・豪雨
・回復
・決意
第二部
・上田城にて
・忍びの血
・追行
・戦雲
・夏草
・呼応
・戦局(一)
・岐阜・赤坂
・戦局(二)
・関ヶ原
・別離
・氷湖
「おれのは丹波の術だ。おれだけのものだ」。父の柏木甚十郎は生え抜きの甲賀忍びだが、生まれ育った武蔵国・丹波の愛着を持ち、己の信ずる道を生きる一匹狼の忍者・丹波大介を描いている。「真田太平記」(新潮文庫=1巻から12巻)でお馴染みの真田幸村、向井佐助、奥村弥五兵衛らが登場する。
2011年3月10日読了
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池波正太郎の「忍者丹波大介」(新潮文庫)を読む。
豊臣秀吉の死後、諸国の大名の勢力は徳川家康と石田三成の二派に分かれた。
三成の家臣、島左近は側近の柴山半蔵と忍者の岩根小五郎を呼び、「家康の命を絶ってくれ」と命じた。が、柴山半蔵は下女の於志津を徳川方に暗殺計画の一報を知らせるため、走らせた。柴山は家康の家臣・本多正信の間者だった。
遣いの途中、於志津は棍棒が足にからみ転倒した。襲ったのは甲賀の忍者、丹波大介だった……。
目次
第一部
・白い密使
・耳塚屋敷
・伏見騒擾
・甲賀命令
・大谷屋敷
・襲撃
・豪雨
・回復
・決意
第二部
・上田城にて
・忍びの血
・追行
・戦雲
・夏草
・呼応
・戦局(一)
・岐阜・赤坂
・戦局(二)
・関ヶ原
・別離
・氷湖
「おれのは丹波の術だ。おれだけのものだ」。父の柏木甚十郎は生え抜きの甲賀忍びだが、生まれ育った武蔵国・丹波の愛着を持ち、己の信ずる道を生きる一匹狼の忍者・丹波大介を描いている。「真田太平記」(新潮文庫=1巻から12巻)でお馴染みの真田幸村、向井佐助、奥村弥五兵衛らが登場する。
2011年3月10日読了
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巨大地震にエレベーターで遭遇
*密室の恐怖体験だった。
いつものように14階の自宅マンションのエレベーターのボタンを押した。上昇する。そのときだ。グラッグラッと横に揺れた。
コリャなんだ? 地震だ。
地震がエレベーターに乗っているときに起ったのだ。
立っていられず側面を両手で押さえた。今度はガクンと縦揺れが来た。ギィーという不気味な音、激しい揺さぶり……ケーブルが切れるかもしれないと本気で思う。切れたら死ぬのだろうな。死が脳裏をかすめる。エレベーター内にはわたし一人だけ。心細い。ガタガタと揺れながら上昇する。
災害時には自動的に止まる。このまま閉じ込められてしまうかもしれない。
14階。ドアが開いてくれた。この瞬間を逃せば、閉じ込められるに違いない。飛び込むように降りた。間一髪。セーフ。降りたが、フロアはまだ揺れてまっすぐ歩けない。
自宅にたどりつき、ドアを開ける。なんとか生還したのだった。
2011年3月11日午後2時46分。国内観測史上最大のマグニチュード8.8(*13日に気象庁はM9.0と修正)という東日本を襲った巨大地震に、わたしはエレベーター内で遭遇した。60余年の人生で最大の激しい地震だった。密室の恐怖体験だった。
(――案の定わたしが降りた直後にエレベーターは止まり、復旧に6時間余かかった)
× × ×
余震に不安を感じながらテレビを観る。
津波が押し寄せ、街や田畑を飲み込む。車や家屋を押し流す。おぞましい光景が何度となく映し出される。
天災の前に人間はなすスベがなく、いかに無力か。被災地の方々が遭う恐怖はいかばかりか。横浜の自宅マンションのエレベーターとはわけが違う。
被害を最小限度に留めてほしい。祈ることしかできない。
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いつものように14階の自宅マンションのエレベーターのボタンを押した。上昇する。そのときだ。グラッグラッと横に揺れた。
コリャなんだ? 地震だ。
地震がエレベーターに乗っているときに起ったのだ。
立っていられず側面を両手で押さえた。今度はガクンと縦揺れが来た。ギィーという不気味な音、激しい揺さぶり……ケーブルが切れるかもしれないと本気で思う。切れたら死ぬのだろうな。死が脳裏をかすめる。エレベーター内にはわたし一人だけ。心細い。ガタガタと揺れながら上昇する。
災害時には自動的に止まる。このまま閉じ込められてしまうかもしれない。
14階。ドアが開いてくれた。この瞬間を逃せば、閉じ込められるに違いない。飛び込むように降りた。間一髪。セーフ。降りたが、フロアはまだ揺れてまっすぐ歩けない。
自宅にたどりつき、ドアを開ける。なんとか生還したのだった。
2011年3月11日午後2時46分。国内観測史上最大のマグニチュード8.8(*13日に気象庁はM9.0と修正)という東日本を襲った巨大地震に、わたしはエレベーター内で遭遇した。60余年の人生で最大の激しい地震だった。密室の恐怖体験だった。
(――案の定わたしが降りた直後にエレベーターは止まり、復旧に6時間余かかった)
× × ×
余震に不安を感じながらテレビを観る。
津波が押し寄せ、街や田畑を飲み込む。車や家屋を押し流す。おぞましい光景が何度となく映し出される。
天災の前に人間はなすスベがなく、いかに無力か。被災地の方々が遭う恐怖はいかばかりか。横浜の自宅マンションのエレベーターとはわけが違う。
被害を最小限度に留めてほしい。祈ることしかできない。
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2011年3月8日火曜日
媚びない石坂浩二・千宗易:「江」
*大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」(第9回=義父の涙)
まるでサルカニ合戦ですな――
千宗易を演じる石坂浩二が羽柴秀吉(岸谷五朗)に面と向かって言った。
サルとは面ざしから来る秀吉のあだ名。カニは柴田勝家(大地康雄)。そういえば、大地さんってカニに似ている(笑)。信長の茶頭から、秀吉に仕える身となった宗易だが、秀吉にまるで媚びない。深まる秀吉と勝家の確執を、表現してみせた。
織田家筆頭家老の勝家や信長の妹・市をさておき、秀吉は京・紫野の大徳寺で「信長の葬儀」を大々的に執り行った。信長の継承者を世に喧伝した。さらに清州会議で勝家のものとなった長浜城を奪い返す。秀吉の挑発に勝家は当初、茶々・初・江の三姉妹の気持ちを思い「父は戦はせぬ」と宣言するが、ついに天正11年(1583年)春、残雪をかき分け出陣するのだった。
サルカニ合戦は世にいう「賤ヶ岳の戦い」と発展する。
× × ×
*千利休=幼名・与四郎。法名は宗易、利休は居士号。侘び茶の完成者であり、茶聖と称せられる。堺の商家(屋号は「魚屋(ととや)」の生まれ。織田信長が堺を直轄地とした時茶頭となり、後に秀吉に仕える。天下人の秀吉の勘気に触れ堺に蟄居を命じられる。古田織部や細川忠興らの助命も叶わず、聚楽屋敷内で切腹を命じられる。天正19年(1591年)2月28日。70歳だった。
利休の生涯は、山本兼一著「利休にたずねよ」(PHP文庫)に詳しい。
× × ×
石坂浩二は渋く、したたかに千宗易を演じています。天下一の茶頭にして、秀吉の政策ブレイン。信長の後継に、三男の信孝を推す勝家に対抗し、本能寺の変で死んだ嫡男・信忠の嫡子・三法師を後継者にするよう秀吉に示唆していましたな(第7回=母の再婚)。秀吉に対して対等のものいいをしています。主人を「サルカニ合戦」と平然とサル呼ばわりしたわけですが、この場面が切腹して果てる後の運命を暗示していると観ました。
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まるでサルカニ合戦ですな――
千宗易を演じる石坂浩二が羽柴秀吉(岸谷五朗)に面と向かって言った。
サルとは面ざしから来る秀吉のあだ名。カニは柴田勝家(大地康雄)。そういえば、大地さんってカニに似ている(笑)。信長の茶頭から、秀吉に仕える身となった宗易だが、秀吉にまるで媚びない。深まる秀吉と勝家の確執を、表現してみせた。
織田家筆頭家老の勝家や信長の妹・市をさておき、秀吉は京・紫野の大徳寺で「信長の葬儀」を大々的に執り行った。信長の継承者を世に喧伝した。さらに清州会議で勝家のものとなった長浜城を奪い返す。秀吉の挑発に勝家は当初、茶々・初・江の三姉妹の気持ちを思い「父は戦はせぬ」と宣言するが、ついに天正11年(1583年)春、残雪をかき分け出陣するのだった。
サルカニ合戦は世にいう「賤ヶ岳の戦い」と発展する。
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*千利休=幼名・与四郎。法名は宗易、利休は居士号。侘び茶の完成者であり、茶聖と称せられる。堺の商家(屋号は「魚屋(ととや)」の生まれ。織田信長が堺を直轄地とした時茶頭となり、後に秀吉に仕える。天下人の秀吉の勘気に触れ堺に蟄居を命じられる。古田織部や細川忠興らの助命も叶わず、聚楽屋敷内で切腹を命じられる。天正19年(1591年)2月28日。70歳だった。
利休の生涯は、山本兼一著「利休にたずねよ」(PHP文庫)に詳しい。
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石坂浩二は渋く、したたかに千宗易を演じています。天下一の茶頭にして、秀吉の政策ブレイン。信長の後継に、三男の信孝を推す勝家に対抗し、本能寺の変で死んだ嫡男・信忠の嫡子・三法師を後継者にするよう秀吉に示唆していましたな(第7回=母の再婚)。秀吉に対して対等のものいいをしています。主人を「サルカニ合戦」と平然とサル呼ばわりしたわけですが、この場面が切腹して果てる後の運命を暗示していると観ました。
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2011年3月3日木曜日
ウォーリー与那嶺 Forever
*訃報は追憶を運んでくる。
亡くなったウォーリー与那嶺を初めて観たのは1958年(昭和33年)、川崎球場だった。大洋―巨人戦。巨人のリーグ優勝が決まった後の消化試合だった、と記憶している。横浜ベイスターズの前身である大洋ホエールズの本拠地が川崎にあった。※敬称略
球団の愛称「ホエールズ」(鯨)の親会社は大洋漁業(現マルハ)である。オーナーは人情派として知られる中部謙吉社長だった。
鯨は当時の食材の中心だった。貴重なたんぱく源。朝に鯨のベーコンを食べ、給食に鯨の竜田揚げが出ることはしばしばだったなぁ。鯨のカツや、「ゲイテキ」と呼ばれた鯨のステーキなんてご馳走だった。給食では脱脂粉乳を飲んでいたし、戦後の食糧難をまだ引きずっていた時代だった。大洋漁業は捕鯨を生業とし、日本の食卓を支えていた。今ならシーシェパードあたりに、爆弾でも仕掛けられそうなナニをされるかわからない会社だったよね(笑)。
食べなれた鯨と、生まれも育ちも川崎のガキにとって、大洋は愛着のある会社で球団だった。が、野球は並はずれて弱かった。万年最下位(1954年~1959年まで6年連続)だった。
川崎球場のスタメンは覚えてないので、1958年の開幕戦オーダーを記してみる。
1左・与那嶺要
2遊・広岡達朗
3三・長嶋茂雄
4一・川上哲治
5右・宮本敏雄
6中・岩本 尭
7二・土屋正孝
8捕・藤尾 茂
9投・藤田元司
対国鉄戦。長嶋が金田正一の前に4打席4三振を食らった、あのデビューである。
だから、観戦した大洋―巨人も注目は新人の長嶋茂雄だった。『打撃の神様』川上哲治に代わるスパースターの出現に、野球少年は熱狂したものだった。長嶋に次いで人気はエース藤田元司だった。川上の現役最後の年、かつての投手の柱・別所毅彦が晩年を迎えていた。
さて与那嶺である。あの時のプレーは印象にないが、エンディ宮本と英語(だと思う)で話をしている光景が記憶に残っている。彼はナニを話していたのだろうか。
――などと、とりとめもなく思い出したのだった。
× × ×
*それはセーフティバントから始まった。
1951年(昭和26年)6月19日。巨人―中日戦。7回代打で起用されたのが、与那嶺の日本プロ野球デビュー。マウンドはフォークの魔人・エース杉下茂。三塁前に絶妙なセーフティバントを決めた。初打席初安打。日本での活躍の吉兆だった。
ライフタイム成績は、1219試合、4955打席、1337安打、82本塁打、482打点、163盗塁、平均打率3割1分1厘、首位打者のタイトル3回獲得と攻守走に優れたプレーヤーだった。
監督としては、1974年に中日監督として巨人の10連覇を阻んだ。
功績が認められ1994年に野球殿堂入りを果たした。
セーフティバント、スライディング、タックルなど走塁面で日本プロ野球に新風をもたらした与那嶺要(よなみね・かなめ)が2月28日(日本時間3月1日)に亡くなった。85歳だった。
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亡くなったウォーリー与那嶺を初めて観たのは1958年(昭和33年)、川崎球場だった。大洋―巨人戦。巨人のリーグ優勝が決まった後の消化試合だった、と記憶している。横浜ベイスターズの前身である大洋ホエールズの本拠地が川崎にあった。※敬称略
球団の愛称「ホエールズ」(鯨)の親会社は大洋漁業(現マルハ)である。オーナーは人情派として知られる中部謙吉社長だった。
鯨は当時の食材の中心だった。貴重なたんぱく源。朝に鯨のベーコンを食べ、給食に鯨の竜田揚げが出ることはしばしばだったなぁ。鯨のカツや、「ゲイテキ」と呼ばれた鯨のステーキなんてご馳走だった。給食では脱脂粉乳を飲んでいたし、戦後の食糧難をまだ引きずっていた時代だった。大洋漁業は捕鯨を生業とし、日本の食卓を支えていた。今ならシーシェパードあたりに、爆弾でも仕掛けられそうなナニをされるかわからない会社だったよね(笑)。
食べなれた鯨と、生まれも育ちも川崎のガキにとって、大洋は愛着のある会社で球団だった。が、野球は並はずれて弱かった。万年最下位(1954年~1959年まで6年連続)だった。
川崎球場のスタメンは覚えてないので、1958年の開幕戦オーダーを記してみる。
1左・与那嶺要
2遊・広岡達朗
3三・長嶋茂雄
4一・川上哲治
5右・宮本敏雄
6中・岩本 尭
7二・土屋正孝
8捕・藤尾 茂
9投・藤田元司
対国鉄戦。長嶋が金田正一の前に4打席4三振を食らった、あのデビューである。
だから、観戦した大洋―巨人も注目は新人の長嶋茂雄だった。『打撃の神様』川上哲治に代わるスパースターの出現に、野球少年は熱狂したものだった。長嶋に次いで人気はエース藤田元司だった。川上の現役最後の年、かつての投手の柱・別所毅彦が晩年を迎えていた。
さて与那嶺である。あの時のプレーは印象にないが、エンディ宮本と英語(だと思う)で話をしている光景が記憶に残っている。彼はナニを話していたのだろうか。
――などと、とりとめもなく思い出したのだった。
× × ×
*それはセーフティバントから始まった。
1951年(昭和26年)6月19日。巨人―中日戦。7回代打で起用されたのが、与那嶺の日本プロ野球デビュー。マウンドはフォークの魔人・エース杉下茂。三塁前に絶妙なセーフティバントを決めた。初打席初安打。日本での活躍の吉兆だった。
ライフタイム成績は、1219試合、4955打席、1337安打、82本塁打、482打点、163盗塁、平均打率3割1分1厘、首位打者のタイトル3回獲得と攻守走に優れたプレーヤーだった。
監督としては、1974年に中日監督として巨人の10連覇を阻んだ。
功績が認められ1994年に野球殿堂入りを果たした。
セーフティバント、スライディング、タックルなど走塁面で日本プロ野球に新風をもたらした与那嶺要(よなみね・かなめ)が2月28日(日本時間3月1日)に亡くなった。85歳だった。
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2011年3月1日火曜日
鏑木清方と東西の美人画:そごう美術館
*いつだって、女にはドラマがある――
小粋なコピーと、いかにも儚なげで美しい鏑木清方の「薄雪」のポスターに誘われて、「鏑木清方と東西の美人画展」を横浜東口・そごう美術館(そごう横浜店6F)で観る。
本展の正式名称は、「福富太郎コレクション 近代日本画にみる女性の美―鏑木清方と東西の美人画―」展(2011年2月24日~3月21日)。古来より描かれてきた「美人画」が、明治・大正・昭和初期にかけて、ひとつのジャンルとして確立され、絶頂期を迎えた。美術蒐集家と知られる福富太郎氏のコレクションから鏑木清方(かぶらき・きよかた)を中心に、東は菊地容斎、富岡永洗、水野年方、梶田半古、伊東深水、西は上村松園、菊池契月、北野恒富、島成園の作品約70点の「美人画」を展示している。
× × ×
鏑木清方、上村松園、伊東深水は知っていますが、他のご仁は失礼ながら初めて聞く名ばかりでした(日本画の知識がなくてスイマセン)。
・鏑木清方「薄雪」=1917年(大正6年)
・鏑木清方「刺青の女」=1913年(大正2年)
・上村松園「よそほい」=1902年(明治35年)頃
・北野恒冨「道行」=1913年(大正2年)頃
・伊東深水「戸外は春雨」
などが、印象に残りました。
福富太郎さんって、あの「キャバレー太郎」の異名をとった方ですよね。「銀座ハリウッド」の経営者。戦後ボーイを振り出しに財を築いた立志伝中の人物。以前はよくテレビで拝見していましたが、最近はご無沙汰ですね。
2011年3月1日観覧
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小粋なコピーと、いかにも儚なげで美しい鏑木清方の「薄雪」のポスターに誘われて、「鏑木清方と東西の美人画展」を横浜東口・そごう美術館(そごう横浜店6F)で観る。
本展の正式名称は、「福富太郎コレクション 近代日本画にみる女性の美―鏑木清方と東西の美人画―」展(2011年2月24日~3月21日)。古来より描かれてきた「美人画」が、明治・大正・昭和初期にかけて、ひとつのジャンルとして確立され、絶頂期を迎えた。美術蒐集家と知られる福富太郎氏のコレクションから鏑木清方(かぶらき・きよかた)を中心に、東は菊地容斎、富岡永洗、水野年方、梶田半古、伊東深水、西は上村松園、菊池契月、北野恒富、島成園の作品約70点の「美人画」を展示している。
× × ×
鏑木清方、上村松園、伊東深水は知っていますが、他のご仁は失礼ながら初めて聞く名ばかりでした(日本画の知識がなくてスイマセン)。
・鏑木清方「薄雪」=1917年(大正6年)
・鏑木清方「刺青の女」=1913年(大正2年)
・上村松園「よそほい」=1902年(明治35年)頃
・北野恒冨「道行」=1913年(大正2年)頃
・伊東深水「戸外は春雨」
などが、印象に残りました。
福富太郎さんって、あの「キャバレー太郎」の異名をとった方ですよね。「銀座ハリウッド」の経営者。戦後ボーイを振り出しに財を築いた立志伝中の人物。以前はよくテレビで拝見していましたが、最近はご無沙汰ですね。
2011年3月1日観覧
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