2007年10月18日木曜日

ラッパが聞こえる東京球場Ⅱ

 1970年改称2年目のロッテ・オリオンズは、どんなチームだったろうか。
 改称の1969年はリーグ3位だったが、1970年は10年ぶりの優勝へ戦力は整っていた。強力打線をバックに大量点を奪い投手陣が守り切る試合運びで勝ち進んだ。シーズン試合数130試合を闘い80勝47敗3分、勝率.630で2位の南海ホークスを10.5ゲームの大差をつけてのパ・リーグ独走優勝だった。
 チーム打率は.263、チーム本塁打数166本でいずれもリーグ1位で、チーム防御率は3.23でリーグ2位の成績だった。
 個人打撃成績を見るとアルトマン3位(.319、30本塁打)、ロペス4位(.313、21本塁打)、有藤6位(.306、25本塁打)に10傑に3人が並び、江藤慎一、榎本喜八、山崎裕之、池辺巌の強打者を揃えていて、日本プロ野球史上初となるチーム5人が20本塁打を記録、打線のどこからでも得点できた。投手陣では最優秀選手賞を獲得した木樽正明が21勝10敗で防御率2.53、最多勝投手の成田文男が25勝8敗で防御率3.21、小山正明が16勝11敗で防御率2.30と、3本柱が奮闘した。
 監督は濃人渉、打撃コーチ矢頭高雄、投手コーチ近藤貞雄、守備コーチ土屋弘光、二軍監督に大沢啓二がいた。
 
 日本シリーズでは読売ジャイアンツに1勝4敗と敗れている。日本一9連覇へ驀進中の川上哲治率いる巨人は長嶋茂雄、王貞治が全盛期を誇っており、V6を果たしている。

 ちなみに「10年ぶりのリーグ優勝」だが、先の優勝は西本幸雄が指揮をとっていた大毎オリオンズで1960年(昭和35)のことだった。大毎は山内和弘、田宮謙次郎、葛城隆雄、榎本喜八のミサイル打線が売り物で、新監督に迎えた三原脩の采配・起用の妙で前年の最下位から優勝に漕ぎつけた大洋ホエールズとの日本シリーズとなった。大方の下馬評では大毎の優位は動かなかった。しかし蓋(ふた)を開けると予想外の展開で、大毎はまさかの4連敗を喫した。秋山登・土井淳のバッテリーや近藤昭仁の大洋勢は三原魔術に踊り大活躍した。日本シリーズ後、敗戦の悔しさからか永田が西本の采配に口を出し悶着が起き、その結果、永田は優勝監督の西本の首を切ったのである。

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 本日2007年10月18日、この「ラッパの聞える東京球場」に登場を予定していた人物の訃報が飛び込んできた。ニュースをお知らせする。
 元ロッテ・オリオンズ、太平洋クラブ・ライオンズのオーナーで元岸信介首相秘書官の中村長芳(なかむら・ながよし)さんが18日、急性硬膜下血腫のため死去した。享年83歳だった。岸信介元首相の秘書官を務めた後、1971年にプロ野球ロッテのオーナーに就任。72年に太平洋クラブ(76年10月にクラウンライターに変更)のオーナーに就き、78年秋に西武へ売却するまで務めた。

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  球音は中村長芳さんが1972年(昭和47)オフシーズン、ロッテから太平洋クラブへ移籍するまで、東京・赤坂の中村さんのマンションに朝駆け夜討ちの日々を2ヶ月続けたことがある。最終的に西鉄ライオンズの買収そして太平洋クラブとの業務提携、太平洋クラブ・ライオンズのオーナー就任というニュースは抜けなかったが、貴重な経験を積ませていただいた。中村さんと奥さんは新米記者の球音に親切に接してくれた。冥福をお祈りする。
 
 次回は永田の愛した東京球場の話題を戻す。(つづく)

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