特別表彰で野球殿堂入り
2010年度の野球殿堂表彰者が1月12日発表された。特別表彰には、アマチュア野球一筋に、学生、社会人で選手、監督として活躍した故・古田昌幸氏(1999年死去)が選ばれた。競技者表彰のプレーヤー部門には、西鉄や西武のエースとして通算251勝をあげた東尾修氏(59)が選ばれ、エキスパート部門では、中日とロッテで史上初の両リーグ首位打者を獲得した故・江藤慎一氏(2008年死去)が選出された。
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古田昌幸はプロ野球には入らなかったが、170センチ60キロと小柄ながら、華麗な守備と勝負強い打撃で「プロ以上の二塁手」と言われた。1933年熊本県出身。九州学院から立教大学、熊谷組とアマ野球一筋で活躍した。『ミスター都市対抗』の異名もあり、都市対抗には16回(うち監督兼任で10回)出場している。とくに監督兼二塁手として出場した1966年は準々決勝の延長13回にサヨナラ3ランを放ち、準決勝、決勝でもサヨナラ勝ちを収め優勝し、橋戸賞に輝いた。42歳までプレーした。
草野の記憶に留めたいのは、立教大時代のことである。1955年(昭和30年)古田が4年生のとき、後に六大学野球記録の通算8ホーマーを記録した長嶋茂雄(読売入団)は2年生だった。『ミスタープロ野球』は『ミスターアマ野球』の2年後輩だった。
古田の同期の4年生には大沢啓二(南海入団)がいた。長嶋の同期の2年生には、投手に杉浦忠(南海)、遊撃手に本屋敷錦吾(阪急)の立大三羽ガラス、さらに投手の拝藤宣雄(広島)がいて、3年生には外野手の矢頭高雄(大映)、投手の堀本律雄(読売)、さらに1年生には捕手の片岡宏雄(中日)と、懐かしい多士済々が顔を揃えていたのだった。
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大沢啓二:神奈川県出身。頭脳的な守備で鳴らした外野手。南海―東京でプレーし、東京、ロッテ、日本ハムで監督コーチ。1981年日本ハムで指揮、リーグ優勝を果たす。
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杉浦 忠:愛知県出身。球威のある下手投げ投手。南海で13年間プレーし187勝を記録。1959年の日本シリーズ4連投4連勝は語り草になっている。最多勝・最高勝率・最優秀防御率を各1回、最優秀選手1回を獲得。近鉄、南海、ダイエーでコーチ、監督を務める。1995年殿堂入り。
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本屋敷錦吾:兵庫県出身。巧手の内野手。阪急、阪神でプレー。阪神、阪急でコーチを務める。
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拝藤宣雄:鳥取県出身。投手。広島で4年間プレーし、12勝を稼ぐ。
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矢頭高雄:山梨県出身。外野手。大映、大毎、東京で11年間プレー。ロッテ、日本ハムでコーチを務める。
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堀本律雄:大阪府出身。投手。読売、大毎、東京で6年間在籍、1960年に29勝を記録し新人王・最多勝・沢村賞に輝く。大洋、日本ハムでコーチを務める。
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片岡宏雄:岡山出身。捕手。浪商・立大を経て中日入団。国鉄でもプレー。ヤクルトのスカウトを永らく務める。
昭和30年春季リーグ、立教大の監督は砂押邦信だったが、秋季には辻猛に代わっている。スパルタ式猛練習で長嶋らを鍛え上げ、黄金期の基礎を作った『鬼の砂押』だったが、厳しすぎる反動からか夏に大沢啓二ら上級生から排斥運動が起り、当時の立教大総長の松下正寿まで巻き込む騒動となり、退任を余議なくされた。砂押は後に国鉄、サンケイで監督、コーチを務めている。
上記の多彩なメンバーにあって古田昌幸は率先垂範のリーダーであった。