2008年5月29日木曜日

トワンテ山に薔薇の香

 ぶらり散歩に出る。
 港の見える丘公園(横浜市中区山手)のローズガーデンで薔薇(バラ)を愛でる。ポカポカ陽気の中(5月27日)、優美に咲き誇り、見事だった。

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 港の見える丘公園あたりは、幕末期にイギリスフランスが軍を駐屯させた場所である。

 嘉永6年(1853年)の黒船来航。翌年の和親条約締結による鎖国の終焉。そして安政5年(1958年)のアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ロシアとの五カ国条約(修好通商条約)締結で、世界との交流・貿易への道が開かれた――。
 文久2年(1862年)生麦事件が起こった。江戸から京都に上る薩摩藩主島津忠義(当時の茂久)の父、島津久光の行列が武蔵国生麦村に差し掛かったとき、行列の前を横浜在住のイギリス人4人が乗馬で横切った。このイギリス人一行を薩摩藩士が殺傷し、これが因で薩英戦争にまで発展した事件である。
 イギリスやフランスは生麦事件から、日本国内の強い攘夷思想を憂慮し、自国民の保護を目的に軍隊を横浜居留地に駐屯させることを決断する。まずフランスが文久3年に、続きイギリスが翌年の文久4年に駐屯を始めた。現在の港の見える丘公園であった。
 公園のほぼ中央に、現在、横浜市イギリス館が佇んでいる。このあたりが幕末から明治初期にかけてイギリスが駐屯した場所で、横浜の港を見下ろす丘を、人々は「トワンテ山」と呼んだという。駐留したイギリス第20連隊の英語「twenty」(トゥエンティ)の発音から由来したという。
 一方、フランスが駐留したあたりを「フランス山」といい、今も地名として残る。

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 薔薇の香漂うトワンテ山に、幕末の風がそよいでいた。

2008年5月25日日曜日

泰平の眠りを覚ますⅡ

黒船通詞・堀達之助

 “I can speak Dutch”(拙者はオランダ語を話せる)
小船から羽織袴姿の武士が、上を見上げ渾身から大声を振り絞って、英語で叫んだ。その先には、日本人が初めてみる黒塗りの巨大な外輪船がそびえていた。

 嘉永6年(1853年)6月3日、司令官マシュー・カルブレース・ペリー(1794年―1858年)率いるアメリカ合衆国の東インド艦隊4隻が江戸湾の浦賀沖に現れた。旗艦のサスケハナとミッシッピーは外輪を持つ蒸気船、サラトガとプリマスは帆船で、世に言う黒船来航である。
 小船には武士がふたり乗っていた。浦賀奉行所与力の中島三郎助(1821年―1869年)と、蘭(オランダ)語の通詞(つうじ=通訳)の堀達之助(ほり・たつのすけ1823年―1894年)である。堀はアメリカ国旗を掲げたサスケハナ号に向かい、日本人で公式に初めて英語を発した。

 日米外交史はここから始まった。

 何故、“I can speak English”とは言わなかったのだろうか? 当時の堀は英語より蘭語、蘭学一般に通暁していたと推測される。
 ペリー艦隊には、幸いポートマンというオランダ語通訳がいた。以後、主にオランダ語を介して会話は行われたという話を、どこぞで読んだことがある。

 とにもかくにも、彼の発した英語が、鎖国をこじ開ける第一声となったのである。日本の外国学習をオランダ語から、世界語の英語主体に転換させる切っ掛けとなった。また日本における英語研究の基礎をなした人物として、黒船通詞・堀達之助の名を、記憶に留めたい。

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 堀達之助は1823年長崎でオランダ語通詞、中山作三郎武徳の五男として生まれた。同役の堀儀左衛門の養子となり、後を継いだ。
 黒船来航時に、捕鯨船の薪水、食料などの補給基地として開港を求める米国フィルモア大統領国書を徳川幕府に取り次ぐ役目を主席通詞の堀は担った。将軍・家慶が病床のため交渉は1年先送りとなったが、翌嘉永7年(1854年)には、日米和親条約の締結時に、その和解(和訳)にあたっている。その後、下田詰めとなるが、ドイツ通商要求書簡独断没収(リュードルフ事件)の罪に問われ入牢する。4年余の獄中生活を経て赦免され、公職復帰し、初の英和辞典『英和対訳袖珍(しゅうちん)辞書』を編んでいる。
 その後、箱館裁判所通詞に招かれるが、英語を読む・書く能力は秀でているが、聞く・話すに難があり、裁判で満足な活躍が出来なかったことがあったという話を、読んだことがある。
 だが、しかし‥‥。
 彼の評価をいささかも下げるものではないのではないか。英会話を実践する機会が極端に少ない時代である。鎖国という環境で英語を学ぶことがどんなに難しかったか。英語を学び、熟達の域にほど遠い草野球音は、自らの自戒と反省を込めて痛感するのである。

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※堀達之助の生涯・足跡は吉村昭著の「黒船」(中央文庫)、堀孝彦著「英学と堀達之助」(雄松堂出版)に詳しいそうだ(球音は両著とも残念ながら、読んでいない)。
 

2008年5月17日土曜日

泰平の眠りを覚ます‥

日米修好通商条約

 ぶらり散歩に出る。
 神奈川県立歴史博物館(横浜市中区南仲通5-60=みなとみらい線馬車道駅から徒歩1分)で、特別展の「横浜・東京-明治の輸出陶磁器」(2008年4月26日~同6月22日)を観る。来年が横浜開港150周年にあたり、その記念企画である。

 ところで、「真葛焼」(まくずやき)って知っていますか?
 真葛焼とは、初代宮川香山(1842年―1916年)が横浜で始めた焼き物のことをいうそうで、京都の真葛原出身の彼は、1871年(明治3)横浜に外国への輸出向けの陶磁器を作る工房、真葛釜を開いた。
 特別展では、表面に動物などの盛り上がった細工をほどこした「高浮彫」(たかうきぼり)で作られた宮川香山の作品などが展示されていた。奇抜なデザインや、細緻を極めた絵付けなど、なかなかな見ごたえがあった。

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 神奈川県立歴史博物館の常設展示物を覘(のぞ)くと、その中にアメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダの5カ国と結んだ修好通商条約書があった。安政の五カ国条約(修好通商条約)を締結したのは、1858年(安政5)である。

 堅く鎖国を守っていた日本が、泰平の眠りを覚ましたのは嘉永6年(1853年)6月だった。マシュー・ペリー(1794年―1858年)提督が率いる米国の艦隊4隻、いわゆる黒船が浦賀沖に来航し、江戸の徳川幕府に開港を迫るフィルモア大統領親書を手渡した。
 大慌ての幕府は、将軍・家喜の病気を理由にお引取り願ったが、翌嘉永7年の正月に再度来航したペリーに開国を強く要望された際には、断れ切れず日米和親条約を結んだ。ここに鎖国の門はこじ開けられた。
 米国は薪水供給のために開港した下田と箱館(函館)に領事館を置き、下田にタウンゼント・ハリス(1804年―1878年)を派遣する。真綿で首を絞められるように圧力をかけられ、ついに安政5年6月、日米修好通商条約締結となる。勅許を得ないまま、同年4月に大老職に就いたばかりの井伊直弼(1815年―1860年)が強権的に結んだものだった。
 5月には、紀州藩主の徳川慶福を推す南紀派と、一橋徳川家当主の徳川慶喜(1837年―1913年)を推す一橋派と激しく対立していた将軍継嗣問題は、慶福が14代将軍に就くことで決着した。慶福は家茂(1846年―1866年)と改名し、江戸城に入った。
 将軍継嗣問題で島津斉彬(1809年―1858年)らを退けた井伊直弼は強権をさらに振るい、異を唱えるものを弾圧する安政の大獄へと走る。そして、ついに1960年(万延元年)3月、江戸城へ向かう井伊大老を水戸藩、薩摩藩の浪士が襲い暗殺する桜田門外の変が起きる。
 
 1858年――安政5年。150年前に締結した日米修好通商条約に思いを馳せた。 それは泰平の眠りを覚ますエポック・メーキングな出来事であった。

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幕末年号と将軍在職
嘉永1848年―1854年 家慶(天保8年―嘉永6年)
安政1854年―1860年 家慶―家定(嘉永6年―安政5年)―家茂
万延1860年―1861年 家茂(安政5年―慶応2年)
文久1861年―1864年 家茂
元治1864年―1865年 家茂
慶応1865年―1868年 家茂―慶喜(慶応2年―慶応3年)

2008年5月6日火曜日

球侍の炎1968ドラフトⅣ

飯島秀雄の巻:三

 1968年度(昭和43)ドラフト会議で東京(ロッテ)オリオンズから指名を受け、入団した飯島秀雄は、代走スペシャリストとして現役3年、ランニングコーチとして1年、わずか4年間でプロ野球の世界から足を洗うことになった。

 プロ野球では成功者とはいえない飯島だが、その陸上競技では輝いていた。日本陸上界に一時代を築いた男である。
 
 プロ野球入団前の飯島を辿る。
 1944年(昭和19)1月1日生まれの茨城県出身。県立水戸農業高で韋駄天ぶりが注目され、才能を買われ東京の私立・目黒高校に転向する。ここで「暁の超特急」と異名をとり、当時の100M走日本記録保持者である吉岡隆徳の指導を受け、本格的に陸上競技者に取り組んだ。

吉岡隆徳(よしおか・たかよし:生年1909年(明治7)―没年1984年(昭和59)。1932年(昭和7)ロサンゼルス五輪の100M走で6位入賞を果たし、1935年6月には2度にわたり10秒3の世界タイ記録を出している伝説の名ランナー。東京五輪に備え、飯島と依田郁子(1938年―1983年)の2人のスプリンターを指導した。

 目黒高から早稲田大学教育学部に入学した飯島は、競争部に入部した。東京五輪を控えた1964年(昭和39)6月26日、西ベルリンで行われた国際陸上競技会の100M走で10秒1の記録を出し、師匠の吉岡の日本記録を29年ぶりに更新した。このとき、日本中に飯島に対する期待が大いに膨らんだ。
 いよいよ東京五輪を迎えた。100M走の第一次予選は予選最高タイムで通過、第二次予算も通過したが、ゴール直後に転倒した。その影響か、世界の壁か、準々決勝は10秒6と振るわず、敗退した。
 ちなみに優勝し金メダルに輝いたのはボブ・ヘイズ(米国)で10秒0、銀メダルはエンリケ・フィゲロア(キューバ)10秒2、銅メダルはハリー・ジェローム(カナダ)だった。
 
 早稲田大学卒業後は、地元の茨城県庁に入庁し、気分も一新、1968年(昭和43)メキシコ五輪をめざしたが、ここでも100M走の準々決勝で敗退した。そのとき電子計時で10秒34の記録を出している。
 二度にわたり五輪で破れたものの、走ることを職業にしたいと思っていた。ツテを頼りにプロ野球にアプローチし、意気に感じた永田雅一の東京(ロッテ)が、その年のドラフトで指名したのである。

 さて、プロ野球を去った飯島はどうなっただろうか。
 いくつかの職を経て、郷里の水戸で運道用具店を営んでいた1983年(昭和58)8月、運転中に新宿で5歳の女児をはね死亡させる事故を起こしてしまう。裁判で実刑判決が下り、服役する。
 その服役中に、メキシコ五輪で出した10秒34が公認日本記録となったことを、また恩師の吉岡隆徳の死去を、知る。

 社会復帰後は陸上競技のスターターを務めている。1991年(平成3)世界陸上選手権(日本開催)男子100M走で、カール・ルイス(米国)が9秒86の世界記録を樹立したときの、スターターであった。

 走ることに拘り続ける飯島秀雄の姿があった。(飯島の項・完)

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 何度かロッテのランニングコーチ時代の飯島の走る姿を、東京球場で観たことがある。助走からスピードをあげ全速となり疾走する姿は、惚れ惚れするほど美しかった。現役を引退した後のことだが、どの選手も並走できぬほど、抜きん出て速かった。
 草野球音は、そこにアスリートの矜持を看破した。

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※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。

2008年5月3日土曜日

気紛れ記:生涯学習

英語再訪

 切っ掛けはひょんなことから始まった。

 テレビ体操をしている。2ヶ月余続いている。ご存知の方も多いことだろうが、NHK教育テレビの午前6時30分から10分間放送している。
 身体を動かす。毎朝の日課となっている。

 体操が終わると、月~土曜日の6日間は英語講座が始まる。何気なく見ていると、なんだかやたらと懐かしくなってきた。
 画面をみつめ、英語を聴きながら、「やってみるか」と思い立ち、本屋で教本textbook)を購(あがな)った。
・リトル・チャロ カラダにしみこむ英会話
・英語が伝わる!100のツボ
・3ヶ月トピック英会話
の3冊である。

 英語に触れることにしたのである。

 草野球音は古い奴である。この蜘蛛巣丸太の中身も昭和を題材とした野球、映画、歌謡曲や、江戸ノベルといわれる時代小説などについて書いてきた。そんな男が、テレビの英語講座かよ、と違和感を持たれるかもしれない。
 大衆かわら版社に就職してから、英語とは無縁の生活をしてきた。大学では英語を専攻したが、モノにはならず、齢60を過ぎた隠居が、37年間のブランクを経て、その「鬼門」に敢えて挑む――そんな大袈裟なことでないか‥‥。

 生涯学習としての英語を、痴呆防止のアンチエージングの一助にしたい。