2007年10月21日日曜日

ラッパが聞こえる東京球場Ⅳ

 「パリーグを愛してやってください」。永田ラッパが高らかに響きわたった1962年6月2日。東京球場開設ゲームは大毎オリオンズ対南海ホークスだった。始球式は永田の盟友で総理大臣へと自ら画策した当時農相の河野一郎がアメリカ式に一塁側ダッグアウトから行っている。これも永田の演出である。河野の実弟が河野謙三、次男が河野洋平、河野太郎は孫にあたる。
 ゲームは南海の主砲・野村克也に記念すべき東京球場開設第1号を献上したものの、9-5で快勝した。永田はご満悦だった。

 デジタル大辞泉で「喇叭(らっぱ)を吹く」を引くと、「大きな事を言う。ほらを吹く。大言壮語する」と出てくる。永田には確かに大言壮語の癖はあったが、その話にはユーモアがあり言行一致を目指す真摯さがあった。映画記者や野球記者は「ラッパさん」と親しみを込めて影で呼んでいた。

 東京球場に本拠を構えた大毎オリオンズだったが、最初の1962年こそ73万人の観客を動員したが、その後はジリ貧となった。後楽園や神宮と比べ南千住というアクセスの悪さと成績不振が原因だった。
 東京球場設立の1962年から本拠地撤退の1972年までの11年間のオリオンズの観客動員数は、
 1962年 736,300人
 1963年 483,950人
 1964年 465,500人
 1965年 436,800人
 1966年 295,000人
 1967年 285,800人
 1968年 360,500人
 1969年 415,300人
 1970年 509,500人
 1971年 459,300人
 1972年 310,000人
となっている。
 
 映画産業の斜陽化と球団経営難が加速度的に重なっていった。

 1971年(昭和46)永田はついに大映が持つ球団経営権をロッテに譲渡する苦渋の決断を下した。映画は自分自身であり、野球は分身とまでいっていたが、背に腹は代えられず、まず球団を手放したのだった。東京球場の経営も思わしくなく累積赤字は15億円を超えていた。
 1969年永田の盟友である元総理大臣の岸信介が仲介の労をとりロッテを冠スポンサーに充てた。これは現在で言うネーミングライツだった。さらに経営悪化に苦しむ永田は、1971年球団経営の全権をロッテに譲った。同年の正月2日の出来事だった。
 数日後、東京球場の選手・関係者食堂に全選手、球団職員を集合させた永田は涙を流し、「小山、木樽。。。」と選手の名をあげながら、心からの叫びをあげた。
 「オレは去るが、優勝して日本一になってくれよ」。
 
 「永田ラッパ」の悲しい調べだった。(つづく)

0 件のコメント: