2009年8月30日日曜日

蛇足ながら…Wけんじ

「やんなっ」「バカだなぁ」

 「柴田が噛んだ」と林家三平がギャグれば、あの当時1960年代の人気漫才のWけんじにも伊東ゆかりの「小指」ネタがあった。蛇足ながら書く。
 ロイド眼鏡をかけた東けんじが、
 ♪あなたがたが 噛んだ
と、何回歌っても「あなた」でなく複数形の「あなたがた」になってしまう。そこで、細身の宮城けんじが東の頭をド突く。叩かれた東は「やんなっ」と得意のギャグを飛ばす。しばらく話が続き、間があって東が「いてーなー」と痛がる。「遅いよ」と宮城がツッコむのだった。
 字で書くと、面白さが伝わらない気がするが、これが結構笑えたのだった。
×  ×  ×
 眼鏡の東がボケ、ツッコミは痩せた方の宮城だった。「やんなっ」のほかに「バカだなぁ」なんてギャグがあった。テンポのいい喋くりで人気があった。東のその場で走っているように見せるパントマイムも面白かったなぁ。これも、書いただけでは伝わらない(筆力不足を棚にあげて…)。実際に見ないと、ね。

2009年8月29日土曜日

ちょいmemo:LocoM

伊東ゆかりが歌った

 CMにおやっと思う。SMAPが登場しているソフトバンクのヤツだ。聞き覚えのある曲に乗って5人が踊っている。
 ♪Come on,come on, Do the locomotion with me
 そうだ。あの曲は伊東ゆかりが歌っていたっけ。「ロコ・モーション」だ。
 ♪さァ さァ ダンスのニューモード
  だれでも一度で 好きになる
 1962年(昭和37年)にリトル・エヴァLittle Evaの歌唱でヒットしたポップスで、作詞はジェリー・ゴーフィンGerry Goffin 、作曲はキャロル・キングCarole King、編曲はラリー・ノレッドLarry Norredだそうだ。
 その日本語カバー曲を訳詞あらかわひろしで、伊東ゆかりが歌ったのだ。当時彼女は15,6歳だったと思う。「小指の思い出」をリリースしたのが1967年だから、メジャーになる前の出来事だった。
×  ×  ×
「locomotion」を手元の電子辞書〈ユースプログレッシブ英和辞典〉で引くと、「移動、移行、移動力、歩行力」とあります。「locomotive 」といえば機関車のことです。
×  ×  ×
「小指の思い出」は作詞・有馬三恵子、作曲・鈴木淳の作品。
 ♪あなたが噛んだ 小指が痛い
  きのうの夜の 小指が痛い  
 そういえば、今は亡き先代の林家三平が、
 ♪柴田が噛んだ 小指が痛い
と歌い、笑いを誘っていましたな。巨人Ⅴ9の核弾頭・柴田勲と伊東ゆかり、ってロマンスの噂がありましたよね。昔の話です。
小指の思い出/恋のしずく/知らなかったの

2009年8月25日火曜日

刑事・鳴沢了「久遠」

東映並みオールスター

 堂場瞬一の「刑事・鳴沢了シリーズ」最終章「久遠(上)(下)」(中公文庫)を読む。
 前夜会っていた情報屋の岩隈が殺される。鳴沢に容疑がかかる。疑いが晴れぬまま、警視庁公安部の刑事、山口が殺される。山口は同僚刑事、山口美鈴の父親で、過去の事件で関わりがあり、鳴沢の指紋のついたダンベルが現場から発見された。2つの殺人事件の疑惑に晒される。
 自宅謹慎を命じられた鳴沢だが、命令を無視して立ち上がる。独自の捜査が進むなか、事件の奥行は深く、警視庁の内部抗争、アメリカの政界、中国マフィアが絡み、すべては鳴沢に結びついていた。そして殺された岩隈と山口はともに同じ事件を追っていたのだった。



・雪虫 2008/11/15記
・破弾 2008/11/29記
・熱欲 2008/12/13記
・孤狼 2008/12/18記
・帰郷 2008/12/30 記
・讐雨 2009/2/10記
・血烙 2009/3/22記
・被匿 2009/4/18記
・疑装 2009/5/31記
・久遠(上・下) 2009/8/25記
と、シリーズ最終の第10弾は上下巻で構成されている。
 完結編らしくオールスター勢ぞろい。さしずめ「任侠清水港」(1957年)や「赤穂浪士」(1961年)の東映オールスター映画のようだった(笑)。
・元同僚で私立探偵の小野寺冴
・元同僚で万念寺住職の今敬一郎
・最愛の女性、内藤優美とその息子の勇樹
・優美の兄でニューヨーク市警刑事の内藤七海
・新潟県警時代の後輩刑事、大西海
・元東日新聞記者で小説家の長瀬龍一郎
・西新宿署署長の水城
・八王子市内の病院の医師、荒尾
と、お馴染みの鳴沢ファミリーともいえる常連が登場するのも楽しみである。
 下巻の終盤で、長瀬が鳴沢をモデルに小説を書きたいという件はニヤリとさせられる。そのタイトルも「雪虫」だという。楽屋落ちっぽいが、筆者のサービス精神の表れと受け流す。
 そして、最後のシーン。優美と鳴沢――久々の再会は‥‥。
2009年8月24日読了

2009年8月22日土曜日

温故“痴”新:藤間哲郎

ざんざら真菰

 いやぁ歳には勝てませんや。このところ眼は白内障予備軍、歯は歯槽膿漏、そして耳は老人性難聴気味と、加齢化の荒波が男五尺の身体に押し寄せます。アンチエージングなどと力んでみても、所詮は時の流れには身を任せるしかなさそうです。
 そんなハマの隠居にして覆面雑文屋の、遠くなった耳に時折聴こえてくる歌があります。あの懐かしのメロディです。「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」といいますが、「温故知新」いや「温故“痴”新」の旅へ出てみましょうか。
 ♪嬉しがらせて 泣かせて消えた
  憎いあの夜の 旅の風
 あの三橋美智也の歌謡曲デビューとなった「おんな船頭唄」三橋美智也 1。山口俊郎作曲で、作詞は藤間哲郎です。1955年(昭和30年)民謡を歌っていた三橋を歌謡曲のスターに押し上げた出世作です。
 三橋は売れない時分、横浜・綱島温泉で働いていたそうです。亡くなったおふくろは「綱島で三助(さんすけ)をしていた」と言っていたが、雑誌などを読むと「ボイラーマン」と書いてあったっけ。
 ところで「サンスケ」って、わかりますか?
 デジタル大辞泉を引くと「銭湯で、風呂を沸かしたり、客の背中を流したりした男」とある。銭湯に半股引に腹巻のみ着用した男の従業員がいたことを、草野は記憶している。現在では存在しないし、三助って「差別語」っぽい響きがありますなぁ。
 話を戻しましょう。
 高音の歌い出しに、あの三橋の美声が伸びやかに響いた。ガキのころ、続く「思い出すさえ ざんざら真菰(まこも)」という意味がわからなかった。
 「ざんざら」は「ざわざわ音がする」という意味だそうで、真菰は沼、川、湖などの水辺に生育するイネ科の多年草だそうだ。
 ♪利根で生まれて 十三七つ
 二十歳のおんな船頭が恋をします。逢瀬は利根の河原。真菰が風にざわざわ鳴っていました。男は去ります。悲恋です。消えない男の面影――。
 意味を解釈してしまうと、なんでもないことですが、このフレーズを生んだ作詞は只者ではないぞと、成人になってから思い知った次第なのです。
 その作詞家の名は藤間哲郎(ふじま・てつろう)。調べてみると、名曲があります。
 大津美子の「東京アンナ」(渡久地政信作曲=1955年)や、松山恵子の「お別れ公衆電話」(袴田宗孝作曲=1959年)もヒットしました。
 「男のブルース」(山口俊郎作曲=1956年)男のブルース/夜霧の滑走路は三船浩の低音の魅力を引き出しました。ちなみに芸名の三船は、彼自身が柔道有段者で講道館の三船久蔵十段から命名したそうです。フランク永井、神戸一郎、石原裕次郎とともに低音ブームを巻き起こしました。
 ♪ネオンが巷(まち)に まぶしかろうと
  胸は谷間だ 風も吹く
 1964年の新川二郎の「東京の灯よいつまでも」(佐伯としを作曲)東京の灯よいつまでも/君を慕いて/おれの日本海もいいですな。
 ♪雨の外苑 夜霧の日比谷
  今日もこの目に やさしく浮かぶ
「おんな船頭唄」から作詞家・藤間哲郎への温故“痴”新サーフィンでした。

2009年8月21日金曜日

横浜開港150年記念博

巨大蜘蛛マシン

 ぶらり散歩に出る。横浜・みなとみらい地区で開催されている「横浜開港博Y150―ベイサイドエリア」(4月28日~9月27日)を観る。
 1853年(嘉永6年)の黒船来航、1854年の日米和親条約締結、1858年(安政5年)の修好通商条約締結を受け、1859年に横浜は開港した。以来、2009年の今年が150年目のアニバーサリーとなる。横浜では、未来への「出港」をテーマに「150年目の大博覧会」を開催している。みなとみらい地区のベイサイドエリア、横浜駅周辺から山下・山手地区のマザーポートエリア、ズーラシア近隣のヒルサイドエリアと3地区が会場となっている。
 ベイサイドエリアでは、のっしのっしと歩く巨大蜘蛛(ぐも)のマシンが最大の見どころか。
 草野は地元であり極力愛情を持って観たが、開港150年の記念すべき博覧会としては、残念ながら規模・内容ともに物足りない。ましてや入場料金2400円(大人)は高すぎる。
 草場の陰でペリーも泣いているのではないか。
×  ×  ×
 蛇足ながら‥‥。
 黒船艦隊の提督マシュー・ペリーは1858年3月4日ニューヨークで死去している。よって、横浜の開港は知らないままだった。
2009年8月20日観覧

2009年8月17日月曜日

陰の男 難波昭二郎死す

木次に大橋に岩下

 日向があれば、日陰がある。
 「東の長嶋、西の難波」といわれ、戦後スポーツ界最大のヒーロー長嶋茂雄のライバル難波昭二郎(なんば・しょうじろう)が2009年8月14日亡くなった。74歳だった。
 大阪出身。高槻高校から関西大学に進み、関西六大学では通算7本塁打を記録し強打の三塁手として鳴らした。1958年(昭和33年)長嶋とともに読売ジャイアンツに入団したが、同じポジッションに長嶋がいたところから、出場機会に恵まれず、1962年に西鉄ライオンズに移籍し、その年引退した。
 実動5年。生涯通算成績は179試合に出場、255打数54安打、7本塁打、25打点、打率2割1分2厘と、寂しいものだった。
 引退後、サラリーマンに転じ、ワーナーパイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)で取締役まで出世した。プロ野球でこそ日陰者だったが、彼は努力で日向に花を咲かせた。
 長嶋といえば王となる。王貞治の日陰の存在は木次文夫(きつぎ・ふみお)である。長野・松商学園高校時代に甲子園に出場、早稲田大学では当時としては東京六大学リーグ歴代2位となる通算7本塁打を記録した。豪打の一塁手だった。王の入団2年目、1960年(昭和35年)に巨人入団したが、王との競り合いに敗れた。1962年に国鉄スワローズに移籍したが、その年引退した。
 生涯通算成績は在籍3年、59試合出場、54打数5安打、2打点、打率は9分3厘と1割にも満たず、持ち前の長打力は不発でホームランの記録はない。
 木次は脳溢血で40歳の若さで他界した。
×  ×  ×
 V9の頭脳・森昌彦との正捕手争いに敗れた大橋勲(土佐高校―慶応大学)、不動の4番一塁手・川上哲治の控えを務めた岩下守道(長野・小県農業高校)なんて、日陰の選手もいましたなぁ。常勝巨人軍を陰で支えた人たちです。

2009年8月15日土曜日

白馬童子 山城新伍さん死す

スターの美学

 これは伝聞である。
 山城新伍の入院を知った里見浩太朗が人づてにお見舞いを打診した。山城から返事があった。
 「先輩の顔は見たい。でも、おれの顔は見られたくない」

 俳優の山城新伍(やましろ・しんご、本名・渡辺安治=わたなべ・やすじ)さんが2009年8月12日、東京都町田市の特別養護老人ホームで死去した。70歳だった。
 1960年(昭和35年)テレビドラマ「白馬童子」で主役を演じ人気を博し、映画「仁義なき戦い」や、テレビバラエティ番組などの司会で活躍した。

×  ×  ×

 38歳で亡くなった映画全盛時代を支えた俳優、市川雷蔵は、入院後、病み衰えた顔を見られたくないといって、すべての面会を謝絶した。そればかりか、遺言により、顔に白布をかけたまま火葬場に運ばれたという。

2009年8月10日月曜日

風太郎「人間臨終図巻」

大原麗子と江利チエミ

 せめて最期は看取られたい。人知れず、ひっそりと逝くのは寂しすぎる。
 映画「網走番外地」や「男はつらいよ」のマドンナ役を演じた女優、大原麗子(おおはら・れいこ)が東京都世田谷区の自宅で死亡しているのを2009年8月6日、警視庁成城署員が見つけた。同署の調べでは病死とみられる。 62歳だった。
 1970年代にはウィスキーのCMで恋女房が旦那を慕い「少し愛して、ながーく愛して」と甘いハスキーボイスで語る台詞が世の男性を虜にした。好感度タレントランキング1位の座に14度就いた。1999年からは運動能力が低下するギラン・バレー症候群を発症し、芸能活動をセーブしていた。
×  ×  ×
 山田風太郎著「人間臨終図巻」(徳間文庫)を読んでいる。古今東西900人ほどの臨終、末期、死に際を記述してある。死亡時の年齢順で、若い人から徐々に高齢化して掲載するように編集されている。
 奇書であり珍書である。よくまぁこれほどの資料を集めたものだ。ただ単に資料の紹介、羅列でなく、それぞれに風太郎の主観を入れた文章に仕上げているのが、『さすが』なのである。文章に長短があり、短いもので10行足らず、長いのは数ページにも及ぶものがある。この長短は風太郎の故人への思い入れの大小と正比例しているのだろうか。
・第1巻:15歳から55歳で死んだ人々
・第2巻:56歳から72歳で死んだ人々
・第3巻:73歳から121歳で死んだ人々
 3巻で構成されている。第1巻の冒頭を飾る(果たして飾る、という表現が妥当か)のは、15歳(数え年16歳)で火あぶりの刑に処せられた八百屋お七、第3巻のトリを務めるのは121歳で大往生した世界一の長寿、泉重千代と多彩だ。
 「人間臨終図巻」3巻は愛蔵書として、折に触れ紐解(ひもと)きたくなる本である。


 
 大原麗子から江利チエミを連想した。「人間臨終図巻」では、『江利チエミ』の項でこう書き出している。
――戦後昭和二十七年、「テネシーワルツ」で売り出し、美空ひばり、雪村いづみと歌の「三人娘」といわれた江利チエミは、昭和四十六年、俳優高倉健と離婚し、四十七年、付人をやっていた異父姉に財産の大部分二億円をだましとられるという災難を受けたころから落ち目になり、キャバレー出演やドサまわりの運命に落ちていった。

 1982年(昭和57年)2月12日、熊本での着物ショーに出演したチエミは、帰京後に芝大門の寿司屋でしたたか飲んだ。酔った彼女をマネジャーはマンションに送った。部屋でも彼女は飲んだ。
 翌日、マンションをマネジャーが訪ねると、ベッドにうつぶせになって死んでいた。解剖の結果、死因は吐いたものが泥酔のため気管につまり窒息したことがわかった。
チエミ45歳だった。

 人間、死ぬときは所詮ひとり――孤独死なんて言葉を軽々しく使うな、との声もあるが、ひっそり逝くのはやはり寂しいと思うのだ。

×  ×  ×

 さらに連想は六本木野獣会へ。1960年ごろ六本木にたむろした10代を中心とした若者たちの集団(裕福な家庭の子弟が多かった)は、ファッション、音楽など時代の最先端を突っ走っていた。田辺靖雄、峰岸徹、加賀まりこ、井上順、そして大原麗子がそこにいた。

2009年8月5日水曜日

B・ビュフェとアナベル展

重要な他人

 横浜駅東口のそごう美術館(そごう横浜店6階)で「ビュフェとアナベル―愛と美の軌跡 展」(7月29日~8月31日開催、会期中無休)を観る。1999年に自殺したビュフェの没後10年を記念して、静岡県長泉町にあるベルナール・ビュフェ美術館の所蔵品から約60点を展覧している。

 1928年パリに生まれたビュフェは、第二次世界大戦後、19歳で若手画家の登竜門アンデバンダン展に出品し、高い評価を得た。硬質で鋭い輪郭線、黒を基調とした色彩、独特な陰鬱な画風が不安感や虚無感を描き出し、人気を呼び、20代でパリ画壇のスターとなった。
 30歳のとき、南仏サン・トロペでアナベルと運命的に出逢う。美しい容貌のアナベルはモデル、歌手として活躍していた。半年後に結婚する。彼らは“重要な他人”siginificanto others として惹かれあった。
 結婚後、彼女をテーマにした作品を数多く手掛けている。また、彼の作風はモノトーンから色彩が付いてくる。
 後年、彼は体調不良に悩む。パーキンソン病を患い、絵筆を握るのに難儀するようになる。描くことが命であった彼は、死にとりつかれるようになる。晩年の作品には骸骨を描いたものが目立つ。
 そして1999年ついに自らの命を断つ。

 個人的には色が乗ってきた作品、「大運河」が好みだった。
 
×  ×  ×

 この蜘蛛巣丸太には、そごう美術館の企画展がたびたび登場しています。どの美術館よりも多いはずです。これは自宅からやたら近いという立地条件が原因です。そごう横浜店に、ぶらり散歩に出ることが多いのです。
 めったに混んでいないので、ゆったり観ることができます。

 蛇足ながら‥‥。
 ビュフェは1928年、日本でいえば昭和3年生まれ。先ごろ亡くなった“フジヤマのトビウオ”古橋広之進も同年の生まれだったことを思い出しました。彼がパリ画壇の新星だったころ、トビウオも世界新を連発していたのです。
2009年8月4日観覧