2008年10月30日木曜日

世界一になったマニエル

34歳の赤鬼

 男は頬に肉がたっぷりついて、垂れ下がっていた。老けたなぁ。それでも、笑顔に昔の面差しがうかがえる。30年前、男は34歳で、「赤鬼」と異名をとっていた。

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 米大リーグ球団フィラデルフィア・フィリーズを率いる監督、チャリー・マニエルCharles Manuelは、2008年10月29日(日本時間30日)ワールド・シリーズでタンパベイ・レイズを破り、世界一に輝いた。1883年創設の古豪球団に、28年ぶり2回目の頂点をもたらした。男は64歳になっていた。

 日本球界を去り、1982年ミネソタ・ツインズのスカウトの後、マイナーリーグで9年間の監督修行を積み、1994年にクリーブランド・インディアンズの打撃コーチに就任した。そこで、日本式の早出特打を実践し打線強化を図った。打撃コーチの功績が認められ、2000年に監督昇格した。
 2003年からはフィリーズのGM特別補佐となり、2005年から監督として指揮を執っていた。その指導の下、ハワード、アットリーがMLB屈指の打者に成長、今季は救援投手陣を整備し、投打のバランスがとれたチームを作り上げた。
 ワールド・シリーズ中に母親ジューンを亡くしている。

 「練習、練習」が口癖だという。ほとんど練習を休まなかったという。新聞やネットを斜め読みしていると、日本流をMLBに生かしての栄冠という、評価が多い。

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 1978年(昭和53年)。30年前、男はヤクルト・スワローズに在籍していた。練習を休まない、当時の監督、広岡達朗の方針を嫌っていた。
 また、守備力を重視する広岡の下では、守備と走塁に難がある男の評価は、非凡な打撃は認めるものの、かんばしくなかった。
 とにかく練習漬けだった。移動日も練習場を探して行った。レギュラーシーズン中に完全休養日はほとんどなかった。外国人選手である男とデイヴ・ヒルトンは、特別免除の措置もあったが、それでも他球団の外国人選手に比べ練習拘束時間は長かったろう。
 ヤクルトは球団史上初めてセ・リーグ制覇を果たし、大方の下馬評を裏切って、日本シリーズでは阪急ブレーブスを破り日本一に輝いた。
 優勝の余韻の醒めぬ中、男は近鉄にトレード移籍が決まった。
 男は広岡体制でのプレーを望まなかった。永尾泰憲と男と、近鉄の神部年男、佐藤竹彦、寺田吉孝との交換が成立したのだ。
 その年の活躍はすばらしかった。130試合中127試合に出場し、39本塁打、103打点、3割1分2厘の打率を残した。若松勉、大杉勝男(1945年―1992年)、ヒルトン、松岡弘、安田猛、鈴木康二朗など投打が噛み合ったが、この男なくして優勝はなかったのではないか。
 翌1979年、ヤクルトは日本一から最下位に転落する。ヘッドコーチの森昌彦はシーズン途中で解任され、広岡は途中休養(指揮権放棄)のまま、監督は武上四郎(1941年―2002年)が執ることになった。

 男の存在は大きかったといえる。

 一方、男は移籍の新天地で奮闘した。97試合で37本塁打、打率は94打点、3割2分4厘で、近鉄バファローズの初優勝に貢献し、本塁打王とMVPに輝いた。6月のロッテ・オリオンズ戦で八木沢壮六から死球をくらい、14試合欠場したが、顔を防御するフェイスカバー付きの特殊ヘルメットで登場した。
 翌1980年も近鉄はリーグ優勝した。男は打棒を振るい、本塁打と打点の2冠を手にした。
 近鉄を指揮した西本幸雄との関係は良好だった。

 男の日本在籍時の打撃成績をみてみよう。
1976年ヤクルト 84試合 11本塁打 32打点 打率.243
1977年ヤクルト 114試合 42本塁打 97打点 打率.316
1978年ヤクルト 127試合 39本塁打 103打点 打率.312
1979年近鉄 97試合 37本塁打 94打点 打率.324
1980年近鉄 118試合 48本塁打 129打点 打率.325
1981年ヤクルト 81試合 12本塁打 36打点 打率.260
 日本での6年間の打撃通算は、621試合に出場、189本塁打、491打点、打率3割3厘だった。リーグ優勝3回、日本一1回、本塁打王2回、打点王1回の成績を誇る。

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 MLBでの現役成績は、通算6年で242試合に出場、384打数76安打、4本塁打、43打点、打率1割9分8厘と二流だった。

 指導者での成功は、日本での経験が大きかったのではないか、と草野は推測する。
 とりわけ30年前、嫌っていた広岡監督の存在があったのではないか。万年Bクラス球団を弛まぬ練習で鍛え上げ、一流に伸し上げた手腕である。
 選手として容認できなかった猛練習を、指導者になって選手に強いる――。

 その男、マニエルにどなたか聞いてほしいのだ。
 「広岡の野球のやり方を、あなたは認めますか?」

2008年10月28日火曜日

芥川文体は端麗だった

「地獄変」など

 
たまには名作も‥‥読書の「口直し」である。芥川龍之介著の「地獄変」(集英社文庫)を読む。
 表題作の「地獄変」など、
・大川の水
・羅生門
・鼻
・芋粥
・地獄変
・蜘蛛の糸
・奉教任の死
・蜜柑
・舞踏会
・秋
・藪の中
・トロッコ
12編が収録されている。難解な言葉・事象には語注が付いていている。

 中学、高校時分に何編かは読んでいる。端麗な文体はさすがだなぁ。北方謙三があとがきを寄せ、「文章修行のために芥川作品を書き写した」と記していたが、うなずける。

 書評は書けない。その能力がない。たまには名作にも触れることにしょうと思う。
 

2008年10月25日土曜日

英語小話:dried bonito

 英語で鰹(カツオ)はbonito、鰹節はdried bonitoという。

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 冷凍カツオの取引価格が急落しているというニュースを、テレビで知った。国内の水揚量6割を扱う静岡・焼津港で2008年10月から下落し、9月に1キロ200円台の価格が、10月には100円台になった、という。大いに業者を悩ませている。
 金融危機による世界的な景気悪化に加え、ユーロ安、ドル安が加速して、外国の缶詰企業が買い控えていることが影響しているらしい。
 海外では冷凍カツオはツナ缶に使用されるが、日本では主に鰹節の原料となる。

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 冷凍カツオのニュースから鰹節の英語小話を思い出した。

 日本人の中年男性と妙齢なイタリア人女性が英語で話をしていた。
 話題は日本料理のことになった。和食の代表的な調味料である鰹節を説明する段になり、日本人男性は「カツオを英語でなんというか」、度忘れした。
 咄嗟に、「ドライド カツオ」といったのである。

 かのイタリア人女性は顔を赤らめ“too big!” と感嘆の声を上げた。

 イタリア語で「カツオ」というと、「男性シンボル」を指すそうだ。お後がよろしいようで‥‥。

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※蜘蛛巣丸太巣での草野球音の記憶違い・事実誤認・赤字などありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。

2008年10月23日木曜日

篤姫の「玉の輿」里帰り

ペリーのミシン

 徳川13代将軍、家定の正室である天璋院篤姫(1836年―1883年)が婚礼時に乗ったとされる駕籠が日本に里帰りする。12月16日から江戸東京博物館の「珠玉(たま)の輿(こし)~江戸と乗物」展で公開される。
――という記事が、2008年10月22日付の朝日新聞に掲載されていた。

 黒漆地に金の蒔絵で、徳川家の家紋の三葉葵(あおい)紋と、篤姫の養家・近衛家牡丹(ぼたん)紋、篤姫の文様の二葉葵をあしらった唐草文が精巧に施してあるそうだ。まさに「玉の輿」だ。現在、米国ワシントンのスミソニアン協会アーサー・M・サックラー・ギャラリーが所蔵している。
 同展では家定の母・本寿院の女乗物と併せて公開するというので、展示の際には実物を拝したい。

 輿(こし)。
 玉の輿。
 デジタル大辞泉によれば、「輿(こし)」は「人を乗せる、屋形の下に2本の轅(ながえ)をつけた乗り物」とある。「玉の輿」は、「①貴人の乗る立派な輿、②女性が婚姻によって手にする富貴な身分」とある。

 篤姫は薩摩藩島津家の一門に生まれ、本家の養女となり、五摂家筆頭の近衛家の娘として徳川家に嫁ぎ、幕末の動乱期から明治期(没年は明治11年)まで生きた女性である。

 さて、家定(1824年―1858年)である。12代将軍、家慶(1873年―1853年)が嘉永6年にペリー来航の騒動の最中(離日の10日後)に没したため、その後継となったが、在位は嘉永6年から安政5年(1858年)と短い。幼少のころから病弱で、脳性麻痺だったといわれる。
 そのため将軍在位中から後継問題が浮上した。井伊直弼(1815年―1860年)の推す紀州藩主の徳川慶福(後の14代家茂=1846年―1866年)の南紀派と、島津斉彬(1809年-1858年)と徳川斉昭(1800年-1860年)が推す一橋慶喜(15代慶喜=1873年ー1913年)の一橋派である。
 家定の在位は足掛け6年と短く、幕政に関与していなかったが、日米和親条約(1854年)、日米修好通商条約(1858年)を締結した。その日本の節目・岐路に家定がいたことを記憶したい。
 安政4年(1857年)10月、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリス(1804年―1878年)と江戸城で引見している。

 家定と篤姫の間に子宝は恵まれなかった。

 マシュー・カルブレイス・ペリー(1794年―1858年)は来航時にミシンを将軍・家定に献上したといわれる。日本で初めてミシンを扱った女性は、天璋院篤姫だという。

2008年10月16日木曜日

野村胡堂の「銭形平次」

ガラッ八キャスト

 野村胡堂著・末國善己編「奇譚銭形平次」(「銭形平次捕物控」傑作選~PHP文庫)を読む。
・金色の処女
・呪いの銀簪
・人肌地獄
・七人の花嫁
・南蛮秘法箋
・江戸阿呆宮
・火遁の術
・遠眼鏡の殿様
・密室
上記9編が収録されている。どれも一気に読める内容で、シロイヌだった。

 野村胡堂(1882年―1963年)は1931年に銭形平次捕物控の第1作「金色の処女(こんじきのおとめ)」を発表し、太平洋戦争を挟んだ1957年までの26年間に長短編を含めて383編を執筆している。
 結婚前のお静が登場する「金色の処女」は、徳川3代将軍・家光の暗殺計画の陰謀、邪教集団の美女連続誘拐事件など波乱万丈に展開する。

 恥かしながら、「銭形平次」を読むのは、草野は初めてで、子供の頃、長谷川一夫の映画で親しんだクチである。フジテレビで放送した大川橋蔵のモノは、何故かほとんど観ていない。
 というわけで、383編の9編を読んだだけで、書評などするつもりはない。

 銭形平次といえば長谷川一夫(1908年―1984年)となる。平次は長谷川一夫の当り役で17本も撮っている。調べてみると、新東宝で1本と残り16本は大映作品だった。制球力抜群、鮮やかな寛永通宝の投げ銭が見せ場だった。
平次の子分である「ガラッ八」の八五郎役がバラエティーに富んでいる。主だったところを順不同で列記すると、
・花菱アチャコ
・堺駿二
・榎本健一
・船越英二
・三木のり平
・ハナ肇
と、名脇役が並ぶ。ちなみに堺駿二は堺正章の、船越英二は船越栄一郎のオヤジ殿で、船越英二夫人の長谷川裕見子は長谷川一夫の姪にあたる。

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※蜘蛛巣丸太巣「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中での記憶違い・事実誤認・赤字などありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。

2008年10月9日木曜日

「オットセイ将軍」家斉

最長在位50年

 「源氏物語1000年」展からの小ネタ――。その数々の展示品のなかで、草野球音が興味を抱いたのは、徳川11代将軍・家斉の息女、文姫が高松藩主・松平頼胤に嫁いだ際の婚礼調度品、源氏絵を描いた屏風である。

 正確に言えば、興味は屏風ではない。文姫のオヤジ殿の徳川家斉だ。

 佐伯泰英の「居眠り磐音シリーズ」(2008年10月4日の項)に10代将軍の家治、その嫡男で11代候補の家基が登場するが、史実によれば家基は夭逝するので、今後の展開はどのようになるのか、と書いた。

 家基の亡きあと11代将軍は、一橋家から家斉が11代将軍を継ぐ。棚から牡丹餅(ぼたもち)というか、お鉢が回ってきた将軍を務めることになった家斉は、徳川265年の歴史で最長記録となる50年間も在位するのだ。
 文姫は家斉のなんと16女である。家斉は大奥を最も利用した将軍で、特定されるだけで、16人の妻妾を持ち、男子26人・女子27人の子供を儲けたという。大奥経費、養育費がかさみ幕政を逼迫させるほどだった。さらに12代将軍を家慶に譲ってからも、「大御所」として隠然たる権力を揮った。

 精力絶倫の秘密はなにか?
 彼はオットセイのペニスの粉末を愛用していたそうだ。

2008年10月7日火曜日

源氏物語1000年に想う

人口男女比

 ぶらり散歩がてらに横浜美術館に入った。横浜・みなとみらいの当館は自宅から歩いて行ける貴重な文化施設で、7月の大暑の候に寄って以来である。

 特別展は「源氏物語の1000年~憧れの王朝ロマン~」だ。

 紫式部が書いたといわれる「源氏物語」は、平安時代中期に執筆されたとされるが、確かな執筆年は特定されていない。
 紫式部日記には、寛弘5年(1008年)に源氏物語と思われる物語の冊子作りをしたと記述があるそうで、ここを起点にすると、今年が1000年目のアニバーサリーになるという。
 ちょうど1000年に当たるかどうかは別として、世界に誇る日本文学の名作が、世に出て凡そ1000年が経過したことは間違いあるまい。

 恥かしながら、草野球音は源氏物語を読んでいない。高校時代に古文の授業で、断片的にさわりを勉強したに留まる。よって、詳しい内容は書かない。
 
 平日の午前中だというのに、結構な人出である。スムースに閲覧できないほどだ。見物人の属性は、高齢化社会を実感するほどに、60歳以上が大半。男女比は、約7割が女性というところ。元気なおばさんが実に多い。

 総務省統計局の人口推計のデータを見てみよう。
 2008年(平成20年)9月1日現在(概算値)の「年齢(5歳階級)、男女別人口推計」では、
0歳~4歳 男277・女264(単位=万人)
20歳~24歳 男365歳・女346
30歳~34歳 男458・女445
40歳~44歳 男423・女416
45歳~49歳 男390・女387
50歳~54歳 男391・女392
60歳~64歳 男436・女457
70歳~74歳 男322・女375
80歳~84歳 男156・女248
85歳以上 男94・女250
となっている。
 出生時から4歳までの男女の人口比は、男性277万人に対して264万人と13万人少ない女性だが、40代までその差を3万人と縮め、50代に入り初めて逆転する。50歳~54歳では1万人上回り、60歳~64歳で21万人、70歳~74歳で53万人、80歳~84歳で92万人と年を追うごとに差を広げる。85歳以上となると、男性94万人に対して250万人と、実に146万人の大差となり、「勝負あった」となる。

 高齢化ニッポン、女は男を凌駕する。

 そういえば、平安朝の”おんとき”も、紫式部、清少納言らが健筆を揮った「女性の時代」であった。

2008年10月4日土曜日

佐伯泰英「居眠り磐音」

easy-reading

 佐伯泰英の“居眠り磐音江戸双紙シリーズ第27弾「石榴ノ蠅」”(双葉文庫を読む。いつもながら飽きさせず、気楽に読ませてくれる。

 第1弾の「陽炎ノ辻」から数えて27冊も文庫を読んだことになる。
 陽炎ノ辻/寒雷ノ坂/花芒ノ海/雪華ノ里/龍天ノ門/雨降ノ山/狐火ノ社/朔風ノ岸/遠霞ノ峠/朝虹ノ島/無月ノ橋/探梅ノ家/残花ノ庭/夏燕ノ道/驟雨ノ町/蛍火ノ宿/紅椿ノ谷/捨雛ノ川/梅雨ノ蝶/野分ノ灘/鯖雲ノ城/荒海ノ津/万両ノ雪/朧夜ノ桜/白桐ノ夢/紅花の邨/石榴ノ蠅
 「居眠り磐音江戸双紙」読本にある番外編「跡継ぎ」も含めて、ほぼ完全制覇(?)している。佐伯泰英の他作品では「密命シリーズ」(祥伝社文庫)も「寒月霞斬り」から「残夢」まで11巻読んだところで、現在休止中である。

 登場人物がキャラクターに富み、多彩である。内容については、これから読まれる方もいるので触れないが、主人公の坂崎磐音(後に佐々木家に養子となり佐々木姓となる)、妻となる江戸小町のおこん、磐音の許婚で花魁、白鶴になる奈緒、道場主で磐音の養父となる佐々木玲圓、両替商・今津屋の老分の由蔵、貧乏御家人の友である品川柳次郎、そして徳川10代将軍の嫡男、家基などが生き生きとドラマを展開する。
 奈緒が好みだ。磐音の許婚から苦界に身を沈め、吉原では白鶴と名乗り、松の位の花魁にのぼり詰め、山形の紅花商人に落籍される。数奇な運命に翻弄されるが、ひたむきに磐音を愛す姿が健気で、実によいのだ。

 毎巻のお約束のチャンバラも魅力だ。豪剣・備前包平が冴えわたる。

 剣あり、恋あり、1950年代の東映時代劇を彷彿させるのだ。片岡千恵蔵、市川右太衛門、月形龍之介、大友柳太朗、中村錦之助、東千代之介、大川橋蔵らが颯爽と斬りまくっていた、あのころの時代劇である。肩の凝らない娯楽チャンバラ映画は懐かしい。

 さて、今後の行方はどのような展開になるのだろうか。
 史実によれば、10代将軍の家治の長男である徳川家基は18歳(満16歳)で夭逝している。幼年期から文武両道に長け、将来の名君を期待されていたが、11代将軍は家斉が一橋家から継いでいる。ちなみに、家斉は男子26人・女子27人の子女を儲けた「オットセイ将軍」として知られる。
 家基はどうなるのだろか。