2010年8月31日火曜日

江戸絵画への視線:山種美術館

浮世絵の開祖・岩佐又兵衛の人生は反乱万丈だった
 東京・広尾の山種美術館で「江戸絵画への視線」展(2010年7月17日~9月5日)を観る。岩佐又兵衛の『官女観菊図』が重要文化財に指定を受けたことを記念して開かれた展覧会で、同時に山種美術館所蔵の江戸絵画を紹介している。
 浮世絵の開祖といわれる岩佐又兵衛はじめ土佐派の伝 土佐光吉、琳派の俵屋宗達や酒井抱一、狩野派の狩野常信、円山・四条派の伝 長沢芦雪(ろせつ)、文人画の池大雅(いけの・たいが)、復古やまと絵の冷泉為恭(れいぜい・ためちか)などの作品を通じて、江戸絵画の流れをたどる。

×  ×  ×

 岩佐又兵衛の人生が波乱万丈なので、ウィキペディアから引用する――。

摂津国河辺郡伊丹(現在の兵庫県伊丹市伊丹)の有岡城主荒木村重の子として生まれる。誕生の翌年、村重は織田信長に反逆を企て(有岡城の戦い)、失敗。落城に際して荒木一族はそのほとんどが斬殺されるが、数え年2歳の又兵衛は乳母に救い出され、石山本願寺に保護される。

成人した又兵衛は母方の「岩佐」姓を名乗り、信長の息子織田信雄に近習小姓役として仕えたという。文芸や画業などの諸芸をもって主君に仕える御伽衆のような存在だったと考えられる。信雄が改易後、浪人となった又兵衛は、「勝以」を名乗り、京都で絵師として活動を始めたようだ。

大坂の陣の直後、40歳のころ松平忠直に招かれて北庄(現福井市)に移住し、忠直配流後、松平忠昌の代になっても同地に留まり、20余年をこの地ですごす。寛永14年(1637年)、三代将軍徳川家光の娘千代姫が尾張徳川家に嫁ぐ際の婚礼調度制作を命じられ、江戸に移り住み、そこで波乱に満ちた生涯を終える。

×  ×  ×

 石山本願寺といえば織田信長と抗争した浄土真宗のお寺さんだよね。又兵衛は親の敵の息子信雄に仕えたのだ。その斡旋をしたのが豊臣秀吉らしい。最後は徳川家光から仕事を請ける。戦国から江戸へドラマチックな人生だった。

×  ×  ×

出品絵画
・作者不詳:竹垣紅白梅椿図
・伝 長沢芦雪:唐子遊び図
・酒井抱一:菊小禽図/秋草鶉図
・椿椿山:久能山真景図
・鈴木其一:四季花鳥図

 また近代絵画の今村紫紅「富士川」、速水御舟の「名樹散椿」なども鑑賞できる。
2010年8月31日観覧

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2010年8月29日日曜日

ちょいmemo:T・グラバー

 テレビ東京の美術系教養番組「美の巨人たち」(8月28日放送)で「旧グラバー住宅」を扱っていたので、邸主のトーマス・B・グラバー(1838年―1911年)についてメモランダム――。


×  ×  ×

 安政6年9月9日(1959年10月4日)、スコットランド出身の貿易商が開港したばかりの長崎の地を踏んだ。弱冠二十歳の男だった。

 1858年大老に就いたばかりの井伊直弼が米はじめ英・仏・露・蘭の5カ国と通商修好条約を結んだ。締結を受け横浜、長崎、函館が開港した。
 通商修好条約が勅許を経なかったため、日本国内には尊王攘夷の嵐が吹き荒れていた。大老の井伊は過激な取り締まりを行った。安政の大獄である。橋本左内や吉田松陰が投獄され断首された。
 そんな政情不安のなか、上海を経由して極東にやって来た男こそトーマス・ブレーク・グラバーだった。

 彼は2年後に「グラバー商会」を設立した。当初は生糸や茶の輸出を商売していたが、政治の混乱に目をつけ、より儲かる武器や弾薬を販売しだした。薩摩、長州を支援し倒幕に協力した。

 武器商人ながら、大浦海岸で蒸気機関車を日本で初めて試走させた。また、ドック建設、高島炭鉱も開発など日本の近代化に貢献している。
 明治に入り武器が売れなくなり、グラバー商会は倒産するが、岩崎弥太郎に経営手腕を認められ三菱財閥の相談役に就いている。

 日本人の妻、談川ツルをめとり1男1女をもうけ、グラバーはツルとともに長崎市内の坂本国際墓地に眠る。

×  ×  ×

 坂本龍馬はグラバー相手に武器の買い付け交渉した、それは取りも直さず徳川幕府が倒し明治政権樹立にひと役買った場所が現在、長崎の観光名所となっている。
 長崎港を望む丘に、四季の花々に囲まれグラバー邸は佇む。この木造洋風建築は、天草出身の棟梁・小山秀(秀之進)よって建てられた。

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2010年8月28日土曜日

真田太平記と真田十勇士

 この項は「真田太平記」と「真田十勇士」を整理するメモランダム。
 池波正太郎の戦国歴史小説「真田太平記」第2巻秘密(新潮文庫)を読んでいる。真田モノに興味を持ったのは、嶋津義忠の「真田疾風録 信之と幸村」(PHP文庫)を読んだのがきっかけだが、猿飛佐助が大活躍するマンガの「真田十勇士」に興奮したガキのころの記憶が甦ったともいえる。昭和30年代前半だろうか。
「真田太平記」には消えたり飛んだりする荒唐無稽な忍者は登場しない。諜報活動をする忍びが、真田家を支える。池波正太郎が史実と創作を巧みに織り交ぜ書いた長編歴史小説。1974年(昭和49年)から1982年(昭和57年)足かけ9年週刊朝日に連載した。
 一方「真田十勇士」は明治末期から大正にかけて一般大衆に読まれた「立川文庫」がベースになっている。

「真田太平記」全12巻
・第1巻 天魔の夏
・第2巻 秘密
・第3巻 上田攻め
・第4巻 甲賀問答
・第5巻 秀頼誕生
・第7巻 関ヶ原
・第8巻 紀州九度山
・第9巻 二条城
・第10巻 大坂入城
・第11巻 大坂夏の陣
・第12巻 雲の峰
巻のテーマタイトルを眺めると長い物語を辿ることができそうだ。

「真田十勇士」メンバー
・猿飛佐助
・霧隠才蔵
・三好清海入道
・三好伊三入道
・穴山小介(小助)
・由利鎌之助
・筧十蔵
・海野六郎
・根津甚八
・望月六郎

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2010年8月27日金曜日

松田翔太が若尾文子と結婚!?

白戸家の新メンバー
 TBSの昼の情報番組「ひるおび」(8月27日放送)で紹介していましたので、書いておきます。賢く可愛い白い犬が登場する例のソフトバンクの携帯電話の新CMの話です。

 ざっとこんな内容です。

 箱根の温泉でくつろぐ白戸家のみなさん。おなじみの上戸彩や樋口可南子、カイ君が揃っています。おばあさんの若尾文子が「みなさんに話があります」と切り出します。それが、なんと再婚するという衝撃の発表。『かんたん携帯』をかけると、浴衣の松田翔太が颯爽と登場します。あっけにとられる家族。おばあさんから「息子の次郎です」とおとうさんのカイ君が紹介されます。「次郎君、いい名前だ」と余裕の松田翔太に茫然とするカイ君なのでした。

 どうです? 文字通りシロイヌでしょう。

×  ×  ×

 このCMはとにかく面白い。過去にも、おとうさんの行きつけのバーのママで松坂慶子、坂本龍馬かぶれの男で武田鉄矢が登場したりしています。

 それにしても、若尾文子さんっていくつ? 松田翔太との年齢差は50歳超えていますよ。シュールさが堪らないのですよね、このCMは。とにかく、白戸家に新メンバーが加わった話題でした。8月28日から新CMが放送されます。

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2010年8月23日月曜日

池波正太郎「真田太平記(一)」

佐平次は女忍びお江に助けられた
 池波正太郎の「真田太平記(一)天魔の夏」(新潮文庫)を読む。全12巻の初巻。















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 戦国の天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍により甲州・信州で覇を唱えていた武田家が滅亡する。武田傘下の真田昌幸は信州でいかにして生き長らえるか、試練を迎える。ここから長い物語は始まる。昌幸には源三郎信幸(のちの信之)と源次郎信繁(幸村)、2人の息子がいた。

 織田との戦さで、武田の長柄足軽の向井佐平次は重傷を負うが、女忍びのお江に助けられ真田の領内に逃げ延びる。温泉で傷を癒していたとき、佐平次は信繁と出会い、彼の家臣となる。

 天下の情勢は武田家が滅び、織田信長の天下統一は目前に迫っていた。その夏、京の本能寺に宿泊していた信長を、家臣の明智光秀は謀反を起こし襲う――。

目次:第1巻天魔の夏
・春の雪崩
・脱出
・岩櫃の城
・草の者
・真田の庄
・天魔の夏

×  ×  ×

 全12巻読破まで道のりは遠い。シロイヌ。今後の展開が楽しみ。
2010年8月22日読了

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2010年8月22日日曜日

清家清:美の巨人たち

「私の家」と方丈記の繋がり
「美の巨人たち」という番組をご存知だろうか。
 何度かこの番組については書いているので重複するが、説明する。テレビ東京の美術系の教養番組で、絵画・彫刻・建築物・写真など紹介している。ナレーターは小林薫で、放送は土曜日の夜10時から。現在、建築シリーズを扱っており、8月21日の放送では「清家清(せいけ・きよし)私の家」と取り上げていた。

 清家清(1918年―2005年)は、日本の代表的な現代建築家である。
主な建築作品
・森博士の家 1951年
・私の家 1954年
・東京オリンピック選手村メーンゲート 1964年
・大阪万博 国連館・スイス館・アメリカ館ディスプレー・虹の塔 1970年
・豊雲記念館 1970年
・軽井沢プリンスホテル 1982年
・横浜・八景島シーパラダイス 1993年
 東京芸術大学名誉教授、日本建築学会名誉会員を務めた。息子は慶応大学塾長の清家篤。

×  ×  ×

 番組では、彼の「私の家」は鴨長明(かもの・ちょうめい)の「方丈記」の思想に繋がっているということでした。
 方丈記はあの冒頭の文章しか知りませんが、
――ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。

 方丈とは一丈四方ということです。一丈は3.03mですから、約10㎡ということですか。わずか一丈四方の庵を結び、そこで執筆したのですね、鴨長明さんは。
 鴨さんの庵と同様に清家さんの「私の家」は最小の住まいで仕切りがない家でした。シンプルで機能的。床がパネルヒーティングになっていました。1954年といえば昭和29年で、住んで数年後に改装したそうですが、先達の英知に驚き、感動したのでした。

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2010年8月17日火曜日

プロ野球ナイター記念日

1948年8月17日ルー・ゲーリッグスタジアム
 今日は何の日? 8月17日はプロ野球のナイター記念日だそうな。1948年(昭和23年)の同日、横浜ゲーリック球場(現・横浜スタジアム)で日本プロ野球初のナイトゲームが行われました。巨人―中日戦で中日が3-2で勝ちました。
 その時代「横浜ゲーリック球場」と日本人は発音していましたが、正しくは「ゲーリッグ」です。太平洋戦争に敗れてから2年、横浜公園球場は占領軍に接収中で「ルー・ゲーリッグスタジアム」と改称されていました。

×  ×  ×

 球場名となったルー・ゲーリッグ(1903年―1941年)は米大リーグ史上の残る名選手でした。同時期に活躍したベーブ・ルースと比較して派手さでは劣るものの、実績は超一流で匹敵します。
 MVP2回、首位打者1回、本塁打王3回、打点王5回、1934年には三冠王に輝いています。17年間の通算打率は3割4分ちょうど。満塁本塁打23本は現在でも大リーグ記録です。打率.350以上6回、150打点以上8回、100四球以上11回、200安打以上8回、そして40本塁打以上が5回も記録しているのです。
『鉄の馬』(iron horse)と呼ばれ1925年から1939年まで14年間、当時の世界記録となる2130試合連続出場を果たしましたが、1939年のシーズン途中で体調異変のため欠場しました。その後の診察で筋委縮性側索硬化症と判明し引退を余儀なくされました。1941年37歳の若さで亡くなりました。37歳の誕生日の17日前でした。
 1939年の野球殿堂入りを果たし、背番号『4』は永久欠番になりました。

×  ×  ×

 ちなみに「ナイター」は和製英語だそうで(nighterという英語も存在するという異論もあり)、英語では一般的にnight gameというそうです。
 日本プロ野球初ナイタ―の照明は現在の10分の1ほど明るさで、暗さ故に幾つかのハプニングがありました。巨人の青田昇が球がよく見えず顔面に死球を受け、担架で運ばれ退場となり、川上哲治の打球をめぐりホームランかエンタイトル二塁打でもめたそうです。

 当時の先発メンバーをネットで調べてみましたが、確認できませんでした。代わりといってはなんですが、1948年の巨人軍の開幕戦の先発を記しておきます。
1(遊)白石敏男
2(中)青田 昇
3(二)千葉 茂
4(一)川上哲治
5(左)平山菊二
6(右)中島治康
7(三)山川喜作
8(捕)武宮敏明
9(投)川崎徳次

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2010年8月15日日曜日

山口崇⇒川口浩⇒愛染かつら

お盆の語らいに想う
お盆の墓参りを機に義兄宅に兄弟夫婦3組が集まったときの話題――。
 その義兄がゴルファーの青木功に似ているという話から、「他にも誰かに似てるって言われたことがあるよね?」とふられると、「うん、山口なんとか」との応え。
 山口ナニガシ……なかなか思い出せない。ようやくにして「山口崇じゃないか」ということになり、『山口崇』でひとしきり。「山口崇ってどんな人だっけ?」「ほら、俳優だよ。(テレビの)水戸黄門の(徳川)吉宗の役だよ」。
「そうだ」「そうだ」と一同ナットク。
 しかし、実際には水戸黄門には吉宗は登場しない。吉宗が出ているのは「大岡越前」。TBS時代劇ドラマの勘違い。水戸光圀が幕政に影響力があったのは五代将軍綱吉の時代で、吉宗は八代さまだ。が、一同いっこうに気付かない。
 そうこう話しているうちに、「山口でなくて、川口だ」ということが判明。「あっ、川口浩だ」。
 まるで赤穂浪士の討ち入りの合言葉のようだが、『山』と言ってようやく『川』の正解が思い出したのだった。

 この笑い話のメンバーはいずれも『アラ還』世代、少々ボケ?が入っているのと酒を飲んでいるので、どうぞ寛容の気持ちで読んでいただきたい。

×  ×  ×

 さて、川口浩といえば市川崑の「おとうと」などに出演した大映の二枚目。父は劇作家、小説家の川口松太郎で、母は女優の三益愛子。弟に川口恒と川口厚、妹に川口晶がいる。妻は女優の野添ひとみの芸能一家である。
 浩でなく松太郎について書く。「鶴八鶴次郎」で第1回直木賞を受賞した。代表作は「愛染かつら」「新吾十番勝負」。「新吾―」は大川橋蔵主演で映画化された。橋蔵は凛々しい若武者だった。
「愛染かつら」は1938年(昭和13年)田中絹代、上原謙の主演で映画化されて大人気を博した。監督は野村浩将。
 看護婦の高石かつ枝に田中絹代、医師の津村浩三に上原謙だった。メロドラマが女性の紅涙を絞った。
 映画の主題歌が「旅の夜風」である。作詞は西條八十、作曲は万城目正のコンビで、歌唱は霧島昇とミス・コロムビアだった。大ヒットした。
 ♪花も嵐も 踏み越えて
  行くが男の 生きる道

「愛染かつら」は津村浩三の菩提寺のかつらの樹で、この樹の前で愛する二人が愛を誓うと必ず結ばれるという言い伝えがあるそうだ。浩三と高石かつ枝が永遠の愛を誓うシーンがある。
 この曲が縁で、霧島昇とミス・コロムビアと結婚している。

×  ×  ×

 お盆なので亡き母を偲ぶ。霧島昇の歌声が好きだった母は、懐かしのメロディなどの番組で霧島昇が「旅の夜風」を歌っていると、「声が落ちたねえ。昔は鈴(すず)を転がしたようないい声だったよ」と昔を懐かしんだものだ。
「鈴を転がす」という表現がなんともレトロだ。今じゃついぞ聞かれない。

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2010年8月12日木曜日

熊田千佳慕展:横浜高島屋

日本のプチファーブル
 昆虫の細かい毛や植物の葉脈までも生きているように描く細密画の画家、熊田千佳慕(くまだ・ちかぼ)の展覧会が横浜駅西口の横浜高島屋8階ギャラリーで開催(2010年8月4日~8月16日)されている。※敬称略

 熊田は1911年(明治44年)横浜市中区生まれ。徹底した観察から花や虫、動物などリアルに描き『日本のプチファーブル』と呼ばれた。1年前の8月13日、亡くなった。
 昆虫、植物、動物、ファンタジーなど細密画200点が展示されている。

×  ×  ×

 花や虫、猫などの動物はホンマモンでした。2,3カ月をかけて、観察を繰り返し描いた作品からは、真摯な画家・熊田千佳慕の姿が浮かんできます。
2010年8月12日観覧

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2010年8月10日火曜日

誉田哲也「ジウⅢ」

総理大臣拉致そして歌舞伎町封鎖
 誉田哲也のジウシリーズの完結編「ジウⅢ」(中公文庫)を読む。
 西大井の城西信用金庫爆破事件で、警視庁特殊強襲部隊SATの1個小隊が全滅した。新しく組織された小隊の班長に伊崎基子が抜擢され、精鋭メンバーで再編成された。
 新宿東口で街頭演説中の総理大臣、大沼賢次郎を拉致し、歌舞伎町を封鎖、立て籠もる事件が起った。拉致したのは基子率いるSAT小隊だった。基子の弱みを握り計画に加担させたのはジウの黒幕ミヤジだった。首謀者のミヤジは『新世界秩序』を唱え、大沼総理を人質に歌舞伎町一帯の治外法権を要求した。

 総理拉致の事件の裏には、ミヤジに協力する警察幹部の姿が覗いてきた。

 歌舞伎町封鎖事件の捜査本部で、監視カメラに映る基子を見つけた門倉美咲は、説得すべく歌舞伎町に潜入する。

×  ×  ×

 登場事物のキャラクターの多彩さ、スピーディな物語の展開、読ませる筆力と質のよいエンターテインメント。十分楽しめる。
 心根の優しい女っぽい美咲と、激しい気性の男まさリの基子。個性の違う二人のヒロインがそれぞれに魅力的だ。
2010年8月9日読了

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2010年8月8日日曜日

ちょいmemo:内藤多仲

東京タワー&通天閣の設計者
 テレビ東京の美術番組「美の巨人たち」(2010年8月7日放送)で東京タワーの設計者・内藤多仲(ないとう・たちゅう)を扱っていた。

×  ×  ×

 興味深い御仁なので、web-surfing 書きする。
 内藤多仲が建築家として注目されたのは1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災だった。
 神奈川県相模湾北西沖80kmを震源とするマグニチュード7.9の大地震は、関東全域の大地を激しく揺り動かした。千葉、茨城、静岡まで被害はおよぶ日本災害史上最大級の大災害となった。凌雲閣(浅草十二階)は大破し、東京は瓦礫の山と化した。が、そのなかで日本興銀の本店ビルは無事だった。彼の耐震構造理論(耐震壁付き鉄骨鉄筋コンクリート造)が証明されたのだった。

 東京タワーはわずか1年3カ月の工期で1958年に完成した。全高333m、パリのエッフェル塔を凌ぐ当時としては世界最高の塔となった。
 また、東京ばかりか大阪のシンボル通天閣(1956年)の設計者である。名古屋テレビ塔などの設計を手掛け『塔博士』と呼ばれた。
1886年(明治19年)生まれ、1970年(昭和45年)没。

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2010年8月5日木曜日

誉田哲也「ジウⅡ」

闇の老人ミヤジ登場
 誉田哲也の「ジウⅡ 警視庁特殊急襲部隊SAT」(中公文庫)を読む。
 門倉美咲は東弘樹警部補とともに「沙耶華ちゃん事件」の実行犯グループの一人、竹内亮一を取り調べる。連続児童誘拐事件の黒幕・ジウと関係がなかなかつかめないなか、竹内の行動の根に『新世界秩序』という思想があることに気付く。『新世界秩序』とジウとの関係は?
 一方、伊崎基子は「沙耶華ちゃん事件」で実行犯捕縛に手柄をたて、一階級特進して上野署の交通課に異動する。写真週刊誌にSAT隊員・基子の活躍をすっぱ抜いた木原毅というフリーライターと組んで、警察組織とは単独にジウの起こした事件を追う……。
 今巻でジウを支援する闇の老人ミヤジが登場する。
 さて、完結編のⅢで美咲、基子、ジウ、ミヤジがどうかかわるのか。
2010年8月4日読了ジウ〈2〉―警視庁特殊急襲部隊 (中公文庫)

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2010年8月3日火曜日

ちょいmemo:快川紹喜

心頭滅却すれば火もまた涼し
 ンなことはないよね。暑いのはどうやったってえ暑い! この言葉の真の意味は違うらしいのだが、ここでは文字通り受けとりましょう(勝手にナットク)。
 これって快川紹喜(かいせん・じょうき)という安土桃山時代の偉いお坊さんの辞世だそうです。

 快川は武田信玄に迎えられ臨済宗塩山恵林寺に入寺しました。その武田氏が織田信長の甲州攻めで滅亡しました。信長に敵対していた六角義弼をかくまったところ、信長の嫡男・信忠から引き渡し要求があり、快川はそれを拒否しました。そこで寺が焼き討ちに遭ったわけですが、「心頭滅却すれば火もまた涼し」と彼は泰然自若として、座して死を待ったそうです。

 暑中お見舞い申し上げます。

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2010年8月1日日曜日

ゴッホ&ゴーギャン1888

『耳切り事件』⇒別離⇒旅立ち
 テレビ東京の美術番組「美の巨人たち」(2010年7月31日放送)で、ポール・ゴーギャン作『ひまわりを描くゴッホ』を取り上げていた。

×  ×  ×

『ひまわりを描くゴッホ』をゴーギャンが描いたのは1888年のことだ。
 1888年フィンセント・ファン・ゴッホは南フランスのアルルで、画家仲間に共同生活をしながら作品を生み出すことを提唱した。十数人を招いたが、応えてアルルに現れたのはゴーギャンただ一人だった。
 アルルの黄色い家でのふたりの生活は10月23日から12月24日まで2ヶ月間の短いものだった。
 12月にゴーギャンは『ひまわりを描くゴッホ』を描き上げた。絵を観たゴッホは激怒した。「これは確かに私だ。ただ狂ったときの私だ」と叫んだという。ゴッホの内面にある狂気をゴーギャンは見抜いていたのだ。そして同月23日、あの『耳切り事件』が起る。ゴッホ自らが耳を切ったという説が一般的に伝わっているが、近年耳を切ったのはゴーギャンという説もある。
 翌24日ゴーギャンはアルルを離れる。
 1890年7月27日、ゴッホはピストルで自殺する。
 1891年4月、ゴーギャンはタヒチに旅立つ。

 1888年アルルの出来事は、ふたりの偉大な画家のターニング・ポイントだった。

×  ×  ×

 ゴーギャン作『ひまわりを描くゴッホ』――ゴッホの目はうつろだ。絵筆を持つ右手は無力である。

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