2012年12月22日土曜日

再興院展:そごう美術館

秋の大作88点ズラリ―秋野太作(あきのたいさく)――。

 横浜駅東口のそごう美術館で「再興第97回院展」を観る。同人作家作品、受賞作など大作88点が展示されている。開催=20121212日~28日。

×  ×  ×

「お前、こんなことも知らずに観ていたのか」
 『トリ頭』こと戸坂健作にバカにされた。

草野は真の美術愛好家というのではなく、美術館の静かな空間を好む。
 よってアート素人だ。
 「院展」は何度か観ているが、「院展」とはどんなものか知らなかったのだ。

――以下トリ頭のひとくさり。
いいか、よく聴け。
・院展とは日本美術院の日本画を対象にした公募展である。
・院展とは春と秋の2回あり、春は小品、復興展といわれる秋は大作が出品される。
だから、観てみろ。大ぶりな作品ばかりだろ?

秋の大作、秋野太作(あきの・たいさく)なんちゃってな。
昔は津坂匡章(つさか・まさあき)っていってたな。

再興展は1914年の大正3年から続き、今回で97回目だ。
お前みたいの奴を『インテン』ジェンスがないというのだ。

 ハイハイ、わかりました。
 なにが「秋野太作」だ。それにしても渋い俳優が出てきたものだ。あきれたぞ。
 余りにも下手くそなダジャレに話をさえぎったのだった。
 どうせネットかなにかで得た知識だろう。
 でも、奴の言うのも正論だ。
 院展の基礎知識は知っておきたい。

20121220日観覧
美博の館#49


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2012年12月13日木曜日

小沢昭一さんのヘンテコリンな中国人

日活アクション映画ではお笑い担当だった――。


俳優の小沢昭一さんが20121210日亡くなった。83歳だった。※以下、敬称略。

×  ×  ×

小沢昭一といえば、中国人役だな。

石原裕次郎や小林旭、赤木圭一郎の日活アクション映画によく出ていたっけ。
第三国人(注:太平洋戦争後の米国占領下にいた朝鮮人や中国人)の役は笑った。
麻薬組織のボスなんかが役どころだった。
実際の朝鮮人や中国人とは違う荒唐無稽な設定の筋だが、
いかにも怪しいヘンテコリンな言葉を操ってバカに面白かった。

強烈なインパクトのある演技。
主役を喰いそうな勢いがあった。

藤村有弘も同じような役柄が多かった。
あくまでカッコいい主役をお笑いでひきたてていた。
日活に欠かせぬ存在だった。
赤木圭一郎主演の「紅の拳銃」では両雄の揃い踏み作品。

アクション映画ではないが、
石坂洋次郎原作の「あいつと私」では裕次郎の親友の大学生役も印象に残る。
見た目からも裕次郎と比べ老けている小沢昭一。
(注:小沢は昭和4年=1929年、裕次郎は昭和9年=1934年生まれ)
どう見ても同じ歳ごろには見えない。
ありえないキャスト(笑)。

訃報記事ではラジオ番組「小沢昭一の小沢昭一的こころ」に関する記述が多かったが、
聴いたことがないのだよね。
思い出すのは、日活の黄金期、昭和30年代の話である。


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2012年12月8日土曜日

鉄ちゃんの聖地―原鉄道模型博物館

「世界の鉄ちゃん」原信太郎さんは御年93歳――。

 世界的な鉄道模型の製作と蒐集家で知られる原信太郎さんのコレクションと170mの巨大ジオラマを横浜駅東口の三井ビル内の原鉄道模型博物館を観る。

★原信太郎(はら・のぶたろう)
1919年(大正8年)44日生まれの93歳。
一代で築いたコレクションは鉄道模型約6000両。
どれもこれも模型の精緻さに圧倒される。
横浜の博物館展示は2500両とか。
撮影したスティール約10万、フィルム約440時間。
その蒐集はまだまだ続いている。
とんでもないシニアである。

東京芝の資産家の子息。
幼稚舎から慶応で、おもちゃ屋にツケがきいたとか。
4歳のとき鉄道模型で遊んでいて関東大震災に遭った。
その時の模型が展示されていてビックリ。
小学5年で、燕の乗って大阪まで一人旅をした。
東海道新幹線開通時に一番切符をゲットした。

さぞや金と暇があったから成ったコレクションと思いきや、
事務用品メーカーのコクヨの元専務を務めた。
実業の世界でも一流なのだよね。

てなわけで、ガキのころから鉄道にあまり興味のない当方は、
原さんの人となりに興味を持ちました。
未就学時から高齢者まで愉しめる鉄ちゃんの聖地ですな。

2012126日観覧
美博の館#48

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2012年12月4日火曜日

スモッグの下で「真澄に仰ぎ」

見よ東に
 寄する暁潮(あけしお)
 富士の姿を
 真澄(ますみ)に仰ぎ 

なぜか突然、ガキのころ歌った川崎市歌を思い出しました。
歌詞は文語調でよく解らなかったけど、愛着があります。
団塊世代の当方が育った川崎は京浜工業地帯の中心に位置し、
公害のスモッグで「真澄」なんて空じゃなかったなぁ。

昭和9年(1934年)に市制10年を記念し制作され、
作詞は公募で選ばれた小林俊三さん、作曲は高階哲夫さんだそうな。
時代に沿い歌詞は2度改訂されているとか。

ハマっ子の我が娘たちは森林太郎(鴎外)作詞の横浜市歌なんだよね。
♪わが日の本は島国よ
 朝日輝ふ海に

作曲は南能衛さん。
こちらは明治42年(1909年)の作られ、連綿として歌い継がれています。
文豪の威光が歌詞の改訂を阻んでいるのでしょうか。

歌がときどき降りてきます。
無意識に口ずさでいます。
遠い記憶が甦ります。
なんとも不思議な感覚です。
みなさんもこんな瞬間、ありませんか?

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2012年12月2日日曜日

「やまてせん」から「やまのてせん」

「恋の山手線」「あの娘たずねて」から「鈴木ちなみ」――

 「やまてせん」が「やまのてせん」に名称が改まったのは1971年(昭和46年)とか。 いや、ね、列車好きの2歳の孫が初めて「やまのてせん」と言ったのだよね。成長ぶりにちょっぴり感激した。

×
  ×  ×

 「やまて」と「やまのて」の話を草野の友、「トリ頭」こと戸坂健作にしたら、
――
以下、トリ頭のひとくさり。
あーあ、コイのやまてせん~
小林旭の「恋の山手線」では「やまてせん」と歌っていたぞ。
上野オフィスの 可愛い娘
 声は鶯 谷わたり
懐かしいダジャレソング。
・デト誘いに池袋 ところが男が目白押し
・渋谷顔ではいやですわ 顔は恵比寿にかぎります

あれって柳亭痴楽(4代目)が出典だな。
「柳亭痴楽はいい男。鶴田浩二や錦之助、それよりぐんといい男」なんて、
ガキのころ、一緒に覚えたな。
忘れちゃいまい、おい草野。

佐々木新一の「あの娘たずねて」なんてえのもあった。
花の東京の ど真ん中
 ぐるり回るは 山手線
あれも「やまてせん」と歌っていた。

もともと、戦前は「やまのてせん」と言ったんだ。
太平洋戦争後、進駐軍がローマ字で鉄道施設に併記を入れた際、
YAMATESEN
 って書いたのが一般化したのだ。
それが1971年に改称というか元に戻ったのさ。

「やまのて(山手)」の対語は「したまち(下町)」。
東京で「やまのて」といえば、四谷・青山・小石川・本郷……
「したまち」は下谷・浅草・日本橋・深川……
「やまのて」は高台、「したまち」は海より。


ちなみに横浜じゃ「山手」と書いて「やまて」さ。

ちなみといえば、鈴木ちなみちゃん。
今、注目のタレントだ。
知ってるか?
スレンダーの可愛い子だぞ。
ウィヒッヒ……

 なにが「ウィヒッヒ」だ。とんでもない方向に話がむかいそうなので、これ以上は無視した。
 相変わらずネットかなにかで得た知識を曝け出したに違いない。

 なにせ3歩歩けば、モノ忘れするニワトリ並みの健忘症。例によって明日にはケロッと忘れることだろう。戸坂は「鶏冠」(とさか)に通じ、付いたあだ名が「トリ頭」だから、ね……。でも、根は善人。これは60年付き合いのある草野が保証するところである。


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2012年11月22日木曜日

加賀赤絵展:日本橋高島屋

赤絵・加賀藩・九谷焼・青木木米・永楽和全・フィラデルフィア万博――。

 赤絵ってなぁに?――やきもの素人が「魅惑の赤、きらめく金彩 加賀赤絵展」を東京・日本橋の日本橋高島屋で観る。開催2012118日~1126日。

 まず赤絵とは、デジタル大辞泉の解説では「赤色を主として彩色した陶磁器」とある。伝来の中国では五彩というそうな。

 本展では、中国明代の景徳鎮窯の万暦赤絵から、江戸時代の再興九谷諸窯、万博などに出品されたジャパン・クタニ、そして現代まで、加賀赤絵の名品約150点を集め、その系譜をたどっている。

 加賀藩では、18世紀初め江戸時代後期に京都の名工・青木木米(あおき・もくべい)を招き、中国赤絵の写しを作らせた。その技術と意匠が受け継がれ細描化し、独特の作風を生み出した。幕末に京都の永楽和全(えいらく・わぜん)が金彩の技術を伝え、赤絵金彩が出現した。明治に入り、赤と金で彩られた九谷焼は主力輸出品のひとつとなり、フィラデルフィアやパリ万国博覧会に出品され一代ブームが起った。
――以上、パンフレットの受け売り(笑)。

・加賀藩
・赤絵
・九谷焼
・青木木米
・永楽和全
・フィラデルフィア万博
など、あらためて自宅で言葉や人名などネット検索しながら、
本展をふりかえると赤絵の魅力がより実感できました。

20121120日観覧
美博の館#47
 
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2012年11月17日土曜日

今野敏「ST 黄の調査ファイル」

曹洞宗⇒鶴見線⇒武蔵白石⇒扇島海水浴場――。

 今野敏の「ST警視庁科学特捜班 黄の調査ファイル」(講談社文庫)を読む。STシリーズ第6弾、「色シリーズ」の第3弾。


 足立区のマンションの一室で4人の死体が発見された。男2人女2人。いずれも二十歳前後。死因は一酸化炭素中毒。4人は新興宗教団体に所属していた。検死した川那部警視は自殺と断定したが、STは他殺の線も捨てなかった。
 実家が曹洞宗の寺で僧侶でもあるSTメンバー山吹才蔵が、宗教団体の人間関係に迫る。

×  ×  ×

曹洞宗の大本山といえば、横浜市鶴見の総持寺が名高い。
石原裕次郎さんのお墓がある。

ガキのころは「本山」と呼んでいた遊び場だった。
山の斜面を滑り降りたり、駆け登ったり、ワイルドな遊びをしていた。
川崎小田の自宅から歩いて20分ほど。
武蔵白石駅から鶴見線に乗って鶴見駅へ行ったっけ。

武蔵白石といえば、思い出は海水浴である。
乗船場があったんだよ。
ポンポン船(渡し船)に乗って扇島海水浴場へ。
昭和30年代前半に廃止され泳げなくなった。
京浜工業地帯の真ん中、海はお世辞にもきれいとはいえなかった()
小学校4年生か5年生が最後の夏だった。

武蔵白石、安善、浅野……。
あの鶴見線に乗ってみたい。
あの扇島の海水浴場って今どうなってるのだろうか。

曹洞宗の僧籍を持つ山吹才蔵が主役の、
ST 黄の調査ファイル」を読みながら、遠い昔を思い出しました。

20121116日読了
 
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2012年11月15日木曜日

はじまりは国芳:横浜美術館

「相馬の古内裏」「近江の国の勇婦於兼」に惹かれました――。

 斬新奇想な作風で知られる江戸末期の浮世絵師・歌川国芳(うたがわ・くによし=1798年(寛政9年)―1861年(文久元年)の作品を中心とした「はじまりは国吉―江戸スピリットのゆくえ」展を横浜・みなとみらいの横浜美術館で観る。開催2012113日~2013114日。

 本展は、国芳の作風がその一門や系統にどのように受け継がれ、新しい展開を見せたかを、江戸末期から昭和初期の日本画、油彩画、水彩画、版画、刊本などの作品や資料、約250点の展示で探る。

 
本展構成
1章:歌川国芳と幕末明治の絵師たち
   (歌川国芳、歌川芳虎、歌川芳艶、歌川芳藤、落合芳幾ほか)
2章:歌川国芳と日本画の系譜
   (河鍋暁斎、月岡芳年、水野年方、鏑木清方、鰭崎英朋ほか)
3章:歌川国芳と洋風表現:五姓田芳柳とその一派
   (五姓田芳柳、五姓田義松、渡辺幽香ほか)
4章:郷土会の画家たちと新版画運動
   (鏑木清方、寺島紫明、伊東深水、川瀬巴水、笠松紫浪ほか)

★相馬の古内裏(そうまのふるだいり)
ドキモを抜かれる巨大な骸骨―この構図が斬新で大胆、躍動感が伝わってきました。
山東京伝の「忠義伝」を題材とした作品で、
源頼信の家老大宅光国と平将門の遺児で妖術を操る滝夜叉姫との対決場面を描いているそうな。
近年評価が高まっている国芳とは初対面。
はやり画力が抜群(素人が知ったかぶり)。
「相馬の古内裏」と★「近江の国の勇婦於兼」に惹かれました。

20121113日観覧
美博の館#46
 
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森光子さんの訃報に雑観

裕ちゃん・錦兄・天狗のおじさんアラカン

偶然っていうのでしょうか。
虫の知らせ?(これは身内じゃないから当てはまらないか)。
訃報が流れた14日。
時間つぶしにiPadで映像を観ていたら、
森光子さんと石原裕次郎さんが「銀座の恋の物語」をデュエットしていました。
お二人に三浦友和さんもいました。
なんで3人がいたのか、不明ですが……。
記念の行事かなにかですな、きっと。
森さん62歳、裕次郎さん48歳、友和さん31歳と字幕にありました。
お宝映像でした。


1965年(昭和40年)東映の作品。
中村錦之助さん主演の「冷飯とおさんとちゃん」というオムニバス映画に、
森さんは出ています。
腕は確かだが呑んだくれの職人(錦之助)を支える、
子だくさんのおかみさんを演じていましたっけ。
1920年生まれですから、あのとき45歳。
40過ぎてから売れた遅咲きの役者さんでした。

★あいつより 上手いはずだが なぜ売れぬ
川柳を詠み下積みに耐え芸を磨いたんですな。

あの鞍馬天狗のおじさん嵐寛寿郎さんは森さんの従兄でしたな。


訃報はいつも追憶を連れてきます。
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