広田、ビル西田、エンディ宮本も獲得
日米球界の橋渡し役として活躍したキャピー原田が亡くなった。2010年6月5日のことだった。88歳だった。
彼は米国生まれの日系二世で、太平洋戦争では米陸軍に志願し、敵国語(日本語)情報将校として従軍した。戦後、連合国軍総司令部(GHQ)に配属され、サンフラシスコ・シールズと日本プロ野球との親善試合の実現に貢献した。退役後は読売ジャイアンツの国際担当として与那嶺要など日系人選手を獲得し、サンフランシスコ・ジャイアンツの極東スカウトとして村上雅則の獲得し日本人初のMLBプレーヤー誕生に尽力した。
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C原田とゆかりの野球人たち
・鶴岡一人:1931年鶴岡が広島商業時代、センバツで優勝し米国遠征した際、日系人チームでプレーしていた原田と対戦した。以来の付き合い。今年5月のエンゼルスのジャパニーズデーでも「日本に行って鶴岡さんの墓参りがしたい」と話していた。
・正力松太郎:戦後の日本プロ野球復興策として2リーグ制を正力に進言したという。
・与那嶺要:巨人の国際担当時代に、SF・シールズのウォーリー与那嶺(写真)を獲得した。広田順、ビル西田、エンディ宮本(敏雄)と続々と入団させている。
・村上雅則:1964年に南海の選手として米野球留学したが、秋に大リーグSF・ジャイアンツに昇格し、1勝1Sを記録した。翌年も契約したが、南海とSFとの間で保有権をめぐる争いが起った。内村祐之コミッショナーが仲介し、1965年のシーズン終了後に南海に復帰することで決着している。当時のSF極東スカウトの原田が、日本人初のMLBプレーヤーマッシー村上の誕生に一役買っている。
またプロレスラーの力道山とも親しく、リキ・エンタープライズの副社長を務めたこともある。
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また歴史を語ることのできるご仁の死――。昭和は遠くになりにけり。
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