2020年1月30日木曜日

日韓に虹を架けた男〜重光武雄4

*日韓で巨大企業を一代で築いたロッテ創業者重光武雄(本名=辛格浩シン・ギョクホ)はいよいよ野球に関わることになる。
(ネット検索書き=敬称略)

その発端を再現ドラマ風に伝えたい(オレは講談師かっf^_^;)
1969年1月のことだった。
親交のある元首相の岸信介から都内某料亭に招かれる。岸は現首相の安倍晋三の祖父、当時の佐藤栄作首相の兄にあたる。『昭和の妖怪』と異名をとった大物で退陣後も隠然たる権力を持つ。

重光が部屋に入ると岸の隣に永田雅一がいた。大映社長であり東京オリオンズ球団オーナーである。当時、テレビの普及台頭により映画産業の斜陽化が著しかった。
永田は座ぷとんを外し頭を下げた。
「あなたにオリオンズを頼みたい。お願いします」
唐突な申し出に重光は戸惑った。
「私は野球のことはわかりません。無理な話です」
固辞したものの永田は引き下がらない。
岸が間に入った。
「永田さんがここまで言っている。重光さん、永田さんに手を貸してやってほしい」
恩義ある岸の仲介には重光も引き受けざるを得なかった。

ガムとチョコレートの原料である砂糖を台湾から輸入するにあたり岸が重光に便宜を図り、これがロッテ急成長の原動力となった__この件についてはロッテ担当記者時代(1972-1973年)に私が聴いた話で裏は取れていない。

かくしてロッテは「東京オリオンズ」のスポンサーとなり、今で言う命名権を得て球団名も「ロッテ・オリオンズ」となった。重光は1971年に経営権の完全譲渡され、1972年球団オーナーに就いた。

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時代背景を永田雅一の視点から観てみたい。
1957年毎日オリオンズと大映ユニオンズが合併し、大毎オリオンズ(正式には「毎日大映」)となった。1960年毎日新聞が球団経営から手を引くと永田が全面的に実権を握る。1962年私財を投じて東京スタジアム(東京都荒川区)に建設する。1964年「東京オリオンズ」と球団名を変更し名実ともにオーナーとなった。野球にかける情熱は並々ならない。


日本映画の状況といえば、1950年代に最盛期を迎えた。「一般社団法人 日本映画製作者連盟」データによると入場者数ピークは1958年で11億2745万人、映画館数は1960年の7457館で最高だった。
1958年日本の総人口は9176万人。赤ちゃんから爺婆まで平均すると国民1人あたり年間12回強も映画館に通ったことになる。映画は娯楽の王様だった。
重光に援助を申し出た1969年には入場者数2億8398万人、映画館数3602館となっていた。11年で観る人が4分の1の大激減したことになる。テレビに客を奪われたと言っていい。
(ちなみに余談だが、2018年統計では入場者数1億6921万人、スクリーン数は3561館(うちシネコン3150)

本業の大映も観客大幅減の直撃を受ける。
「羅生門」(黒澤明監督)「雨月物語」(溝口健二監督)「地獄門」(衣笠貞之助監督)etc名作と、三益愛子の「母もの」勝新太郎の「座頭市」市川雷蔵の「眠狂四郎」シリーズなど大衆路線で安定していた経営を誇り、『永田ラッパ』の異名をとったカツドウ屋が追い込まれていった。真綿で首を絞められるが如く。

1971年ついに経営破綻に陥った。
同年球団からの撤退。
翌1972年には私財を投じた東京スタジアムも手放すことになる。
懇意である右翼運動家でフィクサー児玉誉士夫の仲介で、国際興業の小佐野賢治に売却したのだった。児玉は小佐野とも親交があり、小佐野は今太閤と謳われた元首相の田中角栄と刎頚の友の関係にある。

「映画は自分自身、野球は分身」__二足の草鞋を履いた男永田雅一がどちらも失った時、どんな思いだったろうか。

永田雅一に想いを残しながら、本題の重光武雄に戻ろう。(つづく)

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