*そこは、大正から昭和初期にかけて少女雑誌の挿絵で一世風靡した画家・蕗谷虹児(ふきや・こうじ)の世界だった。
「魅惑のモダニスト 蕗谷虹児展」(2011年6月11日~7月18日)が、横浜駅東口・そごう美術館で開催されている。初期から晩年まで彼の画業、足跡を、600点を超える原画や資料でたどる展覧会。
*蕗谷虹児(1898年―1979年)
明治31年新潟・新発田生まれ。14歳で日本画家をめざし上京。1920年(大正9年)、竹久夢二の紹介で「少女画報」で挿絵画家としてデビューした。翌年「紅児」から「虹児」に改名。1922年に朝日新聞で吉屋信子の連載小説の挿絵に起用され、全国的に名を知られるようになる。
1925年に挿絵にあきたらず渡仏しパリ留学。フランス画壇で活躍中の藤田嗣治や東郷青児らと親交を深める。春秋のサロンで毎回入選を果たすようになったが、1929年(昭和4年)東京の留守宅の経済破綻により急遽帰国。「令女界」「少女画報」や婦人誌、少年誌、文芸誌に挿絵画家として活動し、人気の絶頂を迎える。
1935年(昭和10年)詩画集「花嫁人形」を出版。やがて戦時色は強くなり、蕗谷虹児の絵は時勢に合わず、製作を中止する。
戦後は童話や絵本、東映動画の設立に参加。晩年は個展を中心に作品を発表。1979年(昭和54年)急性心不全で没した。
目を惹いた作品
・パリ時代に描かれたチラシ表紙に使用されている「柘榴を持つ女」(1927年)
・睡蓮の夢(1924年)
・関東大震災後の一連の被災者を描いた作品
× × ×
不明で恥ずかしいばかりだが、本展で初めて知った。蕗谷虹児は童謡「花嫁人形」の作詞者だった。作曲は杉山長谷夫。
♪金らんどんすの 帯しめながら
花嫁御寮は なぜ泣くのだろう
2011年6月18日観覧
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