2008年1月31日木曜日

瞼の裏で咲いている1964

昭和39年編

 これほどの青空があるだろうか。
 秋天は高く澄みわたっていた。
 晴れ舞台――。
 1964年・昭和39年10月10日。東京国立霞ヶ丘陸上競技場。第18回夏季オリンピック大会が東京で開催された。

 「第18回近代オリンピアードを祝い、ここにオリンピック東京大会の開会を宣言します」と昭和天皇は開会を宣した。

 最終聖火ランナーは坂井義則(早稲田大―フジテレビ)だった。広島に原爆が投下された1945年8月6日、広島県三次市に生まれた。敗戦から復興した日本が「世界のJAPAN」になった日。五輪開催と平和を世界に知らしめる人選ではなかったか。彼が163段の階段を駆け上がった。聖火台に灯を点した。
 選手宣誓は体操の小野喬だった。
 自衛隊のアクロバット飛行チーム、ブルーインパルスのF-86Fが国立競技場の上空に5つの輪を描いた。青い空に五輪が浮かび上がった。

 開会式のテレビ中継を担当したNHKアナウンサー北出清五郎(1922年―2003年)は「世界中の青空を全部東京に持ってきてしまったような、素晴らしい秋日和でございます」と第一声を発した。
 
 テレビに映し出される光景に、興奮と感動で身震いした。

×  ×  ×

 1964年・昭和39年は東京オリンピックの年である。

 東京オリンピックは10月10日の開会式から24日の閉会式の15日間、日本列島を熱狂の渦に巻き込んだ。最高潮は、「東洋の魔女」と異名をとった大松博文監督(1921年―1978年)率いる日本女子バレーチームがソ連を破って金メダルを獲得したときだった。

 「金メダルポイント」の実況アナウンサーが絶叫を繰り返していたなぁ。恐らく、日本人の大多数が同じ時間を共有したのではないか。
 この日本―ソ連戦のテレビ視聴率(関東地区)は66.8%で、スポーツ中継視聴率の歴代最高記録だそうだ。ちなみに第2位は2002年のサッカーW杯の日本―ロシア戦で66.1%、第3位は1963年のプロレスの力道山―デストロイヤー戦で64.0%。どこぞの大衆かわら版で読んだことがある。

 その瞬間は意外とあっけなく、ソ連のオバーネットで決着したと記憶している。魔女たちは、宮本恵美子も、松村勝美も、半田百合子も、谷田絹子も、磯部サダも小躍りして喜び、涙した。ただひとりを除いて。冷静な立ち振る舞いをみせたのは河西昌枝だった。
 河西は喜びの輪をとき、メンバーにゲーム後の整列をうながした。コートの端に、ソ連と対面し礼をすると、ソ連チームの歩み寄り健闘を称えた。大松のしごきに耐え、世界一のチームをまとめたキャプテンシーといえたが、もっと喜べ、喜んでいいはずの快挙だ、とテレビ中継を観ながら感じた。
 「俺についてこい」「回転レシーブ」「東洋の魔女」などが流行語となった。

 続いてのハイライトは円谷幸吉(1940年―1968年)のマラソンだろう。10,000mで6位入賞を果たして臨んだ。期待の君原健二(次のメキシコ五輪マラソンで銀メダル)、寺沢徹が脱落するなか、国立競技場に2位で入ってきた。その後方には英国のベイジル・ヒートリーが追走していた。「円谷がんばれ」。競技場内、茶の間のテレビからの大声援のなか、惜しくも抜かれ3位となったが、日本中が銅メダルを祝福した。
 メキシコ五輪では金メダルを目指したが、体調不良と重圧のためか、自刃した。遺書は哀切迫る。「父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました」。名文である。
 マラソンは靴を履いたアベベ・ビキラ(1932年―1973年)がローマ大会に続き五輪2連覇した。

 日本中が悔しがったのは、柔道の神永昭夫(1936年―1993年)の敗戦だった。軽量級の中谷雄英、中量級の岡野功、重量級の猪熊功と期待通りの金メダルを獲得して迎えた無差別級。五輪競技として初めて採用された東京大会は柔道ニッポンの威信を世界に示す舞台であった。
 それが‥‥。
 決勝でオランダの2mの巨漢アントン・ヘーシンクの前に袈裟固めで押さえ込まれ、身動きできなくなり完敗した。
 女子バレーの金メダルと同じ日、閉会式の前日、10月23日の明暗だった。

 日本が獲得したメダル数は、金16個・銀5個・銅8個の合計29個だった。
 東京オリンピックの金メダルを羅列すると、
「女子バレー」:河西昌枝・磯部サダ・近藤雅子・佐々木範子・篠崎洋子・渋木綾乃・谷田絹子・半田百合子・藤本祐子・松村勝美・松村好子・宮本恵美子
「体操男子団体」:小野喬・遠藤幸雄・鶴見修治・早田卓次・三栗崇・山下治広
遠藤幸雄:体操男子個人総合・平行棒
早田卓治:体操男子つり輪
山下治広:体操男子跳馬
中谷雄英:柔道軽量級
岡野功
:柔道中量級
猪熊功:柔道重量級
桜井孝雄:ボクシング/バンタム級
三宅義信:ウェートリフティング/フェザー級
花原勉
:レスリンググレコローマン/フライ級
市口政光:レスリンググレコローマン/バンタム級
吉田義勝:レスリンググレフリースタイル/フライ級
上武洋次郎:レスリンググレフリースタイル/バンタム級
渡辺長武:レスリンググレフリースタイル/フェザー級
と懐かしい顔が並ぶ。

 外国人選手では、男子100mを制したボブ・ヘイズ(米国)、水泳男子の100mと400mで金メダルに輝いたドン・ショランダー(米国)、体操女子で個人総合優勝したベラ・チャスラフスカ(チェコスロバキア)、ボクシングヘビー級金メダルのジョー・フレージャー(米国)の活躍が目立った。 東京大会で米国が獲得した金は36個と最多で、表彰式でアメリカ国家が頻繁に流れた。

×  ×  ×

 プロ野球はセ・リーグが阪神タイガース、パ・リーグは南海ホークスが優勝した。「御堂筋シリーズ」といわれた日本選手権は、南海がスタンカの熱投で、バッキーと村山を擁する阪神を4勝3敗で破り、日本一に輝いた。シリーズMVPは3勝をあげたスタンカが選出された。
 シリーズ第7戦は10月10日のオリンピック開会式とぶつかり、広い甲子園球場は空席の目立つ観客数15,172人だった。
・昭和39年の日本シリーズ
第1戦 南海2-0阪神 ○スタンカ ●村山
第2戦 南海2-5阪神 ○バッキー ●杉浦
第3戦 阪神5-4南海 ○石川 ●スタンカ HR藤井2発、ローガン、ハドリ
第4戦 阪神3-4南海 ○新山 ●村山 HR山内2発、ハドリ
第5戦 阪神6-3南海 ○バーンサイド ●皆川 HR辻佳、安藤、森下
第6戦 南海4-0阪神 ○スタンカ ●バッキー
第7戦 南海3-0阪神 ○スタンカ ●村山

・昭和39年の主な個人タイトル=セ・パ
最優秀選手=王貞治(巨人)・スタンカ(南海)
新人王=高橋重行(大洋)・該当者なし
首位打者=江藤慎一(中日)・広瀬叔功(南海)
本塁打王=王貞治(巨人)・野村克也(南海)
打点王=王貞治(巨人)・野村克也(南海)
最優秀防御率=バッキー(阪神)・妻島芳郎(東京)
最多勝=バッキー(阪神)・小山正明(東京)
最優秀勝率=石川緑(阪神)・スタンカ(南海)
 王貞治が本塁打55本の日本記録を達成した。

 高校野球は春の選抜大会が徳島海南、夏の選手権は高知が優勝した。選抜大会の決勝では徳島海南の尾崎将司が、尾道商の小川邦和(早稲田大―日本鋼管―巨人)と投げ合い3-2で下し、紫紺の大旗を握った。尾崎は下関商の池永正明らとともに、昭和40年に西鉄入団、投手から野手に転向したが、野球では芽が出ず、プロゴルファーになって「ジャンボ尾崎」として大成したのは、周知の事実である。

 ボクシングでは、カシアス・クレー(後のモハメッド・アリ)がソニー・リストンを勝利し、世界ヘビー級王者に就いた。「蝶のように舞い、蜂のように刺す」―華麗なボクシング・スタイルを披露した。

×  ×  ×

 歌謡界では都はるみ、水前寺清子、西郷輝彦がデビューを飾った年であった。都は同年「困るのことヨ」で世に出たが、一躍有名にしたのは「アンコ椿は恋の花」(星野哲郎作詞・市川昭介作曲)である。独特のうなり節は度肝を抜かれた。
女性歌手では珍しい着流し姿の水前寺は「涙を抱いた渡り鳥」(星野哲郎作詞・市川昭介作曲)でいきなりヒットを飛ばし、西郷は「君だけを」(水島哲作詞・北原じゅん作曲)でデビューすると、勢いに乗り橋幸夫、舟木一夫と「御三家」といわれ肩を並べるようになった。
 
 青山和子の「愛と死をみつめて」(大矢弘子作詞・土田啓四郎作曲)はレコード大賞を獲得した。「愛と死をみつめて」は難病で死んでいくミコと大学生マコの純愛書簡を文にしたもので、ベストセラーになった。これをもとに映画と歌が作られ、ともにヒットしている。
 映画では、日活で同年映画化され、ミコに吉永小百合、マコ役は浜田光夫が演じている。監督は小林旭の「渡り鳥シリーズ」で知られる斎藤武市が撮っている。

 井沢八郎(1937年―2007年)の「ああ上野駅」(関口義明作詞・荒井英一作詞)は集団就職で上京した若者が、上野駅に寄せる特別の想いを歌った曲である。心の駅から「くじけちゃいけない人生」は始まった。当時の若者が今、中高年になってなお歌い続けている。ちなみに女優の工藤夕貴は実娘である。

 ザ・ピーナッツの「ウナ・セラ・ディ東京」(岩谷時子作詞・宮川泰作曲)、岸洋子の「夜明けのうた」(岩谷時子作詞・いずみたく作曲)、和田弘とマヒナスターズ&松尾和子の「お座敷小唄」(作詞者不詳・陸奥明作曲)、フランク永井の「大阪ぐらし」(石濱恒夫作詞・大野正雄作曲)、坂本九の「幸せなら手をたたこう」(アメリカ民謡・木村利人訳詞)などがヒットした。
 洋楽ではアニマルズの「朝日のあたる家」、ボブ・ディランの「風に吹かれて」、ビートルズの「ビートルズがやってくるヤァ!ヤァ!ヤァ!」が流行った。

 昭和39年の日本映画の佳作を挙げると、
「砂の女」(勅使河原プロ=東宝・勅使河原宏監督)=岸田今日子出演
「怪談」(文芸プロにんじんくらぶ=東宝・小林正樹監督)=新珠三千代出演
「香華」(松竹・木下恵介監督)=乙羽信子
「赤い殺意」(日活・今村昌平監督)=西村晃出演
「飢餓海峡」(東映・内田吐夢監督)=三國連太郎出演
などがある。

 東海道新幹線が開業し、「平凡パンチ」が発刊された年だった。「アイビールック」が流行っていた。チノパンにボタンダウンシャツ、髪をフロントアップの七三に分け、紙袋を持って歩いたっけ。草野球音は高校2年生になっていた。

 昭和30年から同39年までの10年間を年毎に連作で追った「瞼の裏で咲いている」シリーズは、今回で終了します。
 
※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。

0 件のコメント: