平手造酒は赤胴鈴之助と同門なのだ。師匠は北辰一刀流の創始者、千葉周作。前回の赤胴鈴之助からの連想である。
平手造酒も赤胴鈴之助と同様に架空の人物だと思っていたら、平田三亀(ひらた・みき)という剣士が実在しモデルになっているそうだ。「そうだ」という伝聞口調で申し訳ないが、詳しいことは知らない。ここでは映画や浪曲、歌謡曲でおなじみの、天保水滸伝の作中人物である「平手造酒」として話を進める。
戦前(1939年=昭和14)の田端義夫のヒット曲「大利根月夜」(作詞・藤田まさと、作曲・長津義司)では、
♪もとをただせば 侍育ち
腕は自慢の 千葉仕込み
と出てくる。
さらに、戦後(1959年=昭和34)三波春夫が唄った「大利根無情」(作詞・猪又良、作曲・長津義司)では科白の中に、
お玉ケ池の千葉道場か。
うむ。。。平手造酒も今じゃやくざの用心棒、
人生裏街道の枯れ落葉か。
とある。
平手造酒は千葉周作道場で俊英といわれた剣豪だったが、酒がもとで失敗し名門・玄武館を追われた。江戸を離れ浪々の末に辿り着いた利根川べりの町で、腕を見込まれ土地の親分、笹川繁蔵の食客となる。そこには繁蔵と勢力を二分する顔役、飯岡助五郎との激しい縄張り争いが起こっていた。
不治の病に侵されていた平手造酒は、心ならずも巻き込まれたやくざの抗争に、一宿一飯の義で手を貸すことになり、天保15年(1844)8月、大利根河原の決闘で命を落とす。悲愴な終焉である。
ところで、「大利根月夜」と「大利根無情」――ふたつの曲の作曲者はともに長津義司(1904年―1986年)である。
あの三波春夫の
♪知らぬ同士が 小皿叩いて
チャンチキおけさ
の「チャンチキおけさ」(1957年=昭和32)も長津作品。
20年の歳月を経て「平手造酒」という同じテーマで曲を作ったことになる。数奇な浪人に心を動かせるなにかがあったのだろうか。
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