2020年2月11日火曜日

月見草の詩 野村克也さん FOREVER

♪影でひっそり 咲く花は
 俺の花だよ 月見草
__「俺の花だよ月見草」
プロ野球の名捕手で、名将で、名解説者であった野村克也さんが11日亡くなった。84歳だった。


以下はネット検索書き=敬称略

京都府竹野郡網野町(現北丹後市)は、景勝・天橋立にほど近い。といっても、天橋立から北近畿丹後鉄道に乗って、網野駅まで2時間半もかかる。丹後ちりめんで知られる。冬は松葉蟹が美味い。

野村克也は1935年(昭和10年)6月29日、この地で生まれた。

家業は「野要」という食料品店だった。屋号は父要市の姓名からとった。
3歳で父を亡くした。日中戦争に出征し、華北地方で伝染病に倒れた。
母フミは、克也が小学校2年生のとき、子宮ガンを患い、大手術を受けた。
家計は傾いた。
大病で入院費がかさみ、店を手放した。
フミは結婚前に資格をとっていた看護婦になった。

克也は網野小学校3年から、兄とともに新聞少年になった。50軒が配達のノルマだが、2倍の100軒を受け持った。冬は腰まで届く積雪を踏み、配った。月600円の収入で、母を助け、中学を卒業するまで一日も休まなかった。

京都府立峰山高校になんとか通わせてもらった。母に内緒で野球部に入部した。バットも買えなかった。一升瓶に水を入れ、素振りをしていた。

少年時代は逆境との闘いだった。貧乏から脱したいという強烈な思いがあった。

1954年(昭和29年)契約金ゼロのテスト生として南海ホークスに入団した。1年目のオフ、戦力外通告を受ける。「クビになったら、生きては行けません。南海電車に飛び込んで自殺します」。交渉役のマネージャーを泣き落とし、縋(すが)りついて残留に漕ぎ付けた。

3年目の1956年、一軍だけが参加できるハワイキャンプに抜擢され、正捕手の座に就いた。1957年には中西太(西鉄)、山内和弘(毎日)の強打者と押しのけ、本塁打王のタイトルを獲得した。
以後、大打者の道を歩む。南海―ロッテ―西武と渡り歩いて、実働26年、45歳まで生涯一捕手として現役を続けた。

生涯通算成績は、出場試合3017、打数10472、安打2901、本塁打657、打点1988、犠飛113、併殺打378、打率.277を残す。MVP5回、戦後初の三冠王(1回)、首位打者1回、本塁打王9回、打点王7回、ベストナイン19回に輝く。


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