2011年9月13日火曜日

秀忠の「関ヶ原」遅参:「江」


大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」(第35回=幻の関ヶ原)

天下の徳川にしては、

おそまつな戦い。

上田城で、秀忠(向井理)率いる徳川勢を退けた真田幸村(浜田学)が吐き捨てた。



慶長5年(1600年)。石田三成(萩原聖人)の挙兵を知った家康は、会津の上杉攻めを中止。下野の小山に諸大名を集め、東軍の結束を固め、一端江戸に戻った。中山道を進む秀忠38000は、家康に背き上田城に籠った真田昌幸・幸村の親子を攻めることを決めた。真田勢は2000人。だが、戦上手の真田の前に初陣ともいえる秀忠は手こずり、関ヶ原の戦に間に合わない大失態を演じるのだった。



一方、京極高次(斎藤工)は「徳川様に味方する。大津に引き返す」と、西軍を離脱し、大津城に立てこもった。淀(宮沢りえ)の使者から三成に味方するよう説得されるが、断り、西軍が城を取り囲む。なんとか砲撃に耐えが、高次は高野山に入ることを決意した。



×  ×  ×



赤い鎧をまとった真田幸村の浜田学は颯爽としていました。

真田親子は三成の西軍に味方したことで、関ヶ原の後、戦犯として紀州九度山に幽閉されることになります。徳川に与した幸村の兄、信之が昌幸と幸村の助命嘆願をするのですね。

さらに、大坂夏の陣では家康を追い詰めるのですな。獅子奮迅の戦いをします。このあたり経緯は、池波正太郎の「真田太平記」(新潮文庫・全12巻)に詳しい。



 西軍を大津城にひきつけ関ヶ原の戦に向わせなかったとして家康は、京極高次の籠城を評価し論功行賞として、高次に若狭の国を与えるのです。




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