「スチャラカ社員」って知っていますか?
× × ×
映画「明日への遺言」(小泉尭史監督)の記者会見での藤田まことと富司純子を、テレビは映し出していた。ふたりは、級戦犯として戦後軍事裁判にかけられる岡田資中将とその妻を演じている。2008年3月1日封切。
× × ×
さて、「スチャラカ社員」だ。1961年(昭和36)から1967年にかけて日曜日の昼にテレビ放送されたドタバタ・コメディである。
中田ダイマル(1913年―1982年)・ラケット(1920年―1997年)が主役のグータラ中堅社員役、社長はミヤコ蝶々(1920年―2000年)で、若手社員に藤田まこと、美人のOLに長谷百合というキャストであった。藤純子(後の富司純子)はその会社に新しく入社してきて、長谷百合が番組に出なくなり、職場の華が藤純子にとって替わった、と記憶している。
藤田まことが長谷百合を「ハセく~ん」と、言葉を伸ばして言う呼び方や、課長役の人見きよし(1930年―1985年)の「ほんと、ちい~とも知らなかったわぁ」が流行った。
給仕の少年役は白木みのるだった。
藤純子は途中で映画出演に追われ、出演しなくなったが、登場した彼女の容姿は目を見張るものがあった。まだ十代(高校生)だったろう。まさに「栴檀(せんだん)は双葉より芳(かんば)し」である。後年、東映を支えた「緋牡丹博徒」の矢野竜子役の颯爽たるさまは、実に美しいかったなぁ。
というわけで、藤田まことと富司純子の映画共演から「スチャラカ社員」に思いを馳せたという次第である。
あれから50余年――歳月流るる如し。
2008年2月27日水曜日
2008年2月23日土曜日
中居クンからフランキー
シリーズ映画Ⅳ
SMAPの中居正広が坊主になった話が発端だった。
「女の坊主がプロになると、アマ(尼)になる」。その昔、大学の宗教学の講義で教授がぽつりと言った。どっと沸いた。40年以上も記憶に残るジョークはそうはない。古典の域といえる。今、思い出したので書いてみた(だから冗漫な文章になる、という「突っ込み」が聴こえる)。
坊主とは僧侶のこと、また毛のない人をさすが、ぞんざいに、軽々に言う言葉かもしれない。やはり丸刈りと書いたほうが、穏当だろう。誤解・不快を招く表現は厳に慎みたい、と心した――と書いたばかりである。賢人は過ちを繰り返さない(おまえは賢人か)。
余談を切り上げ、本題に進む。
中居が丸刈りになったのは、役作りで、テレビ草創期の秀作ドラマ「私は貝になりたい」を同名タイトルでリメークした映画(福沢克雄監督)のためだ。その記者会見を電気紙芝居や大衆かわら版で見たのだった。
恥かしながら、福沢克雄のことは調べて初めて知ったのだが、中居正広主演の「砂の器」、明石家さんま主演の「さとうきび畑の唄」、木村拓哉主演の「GOOD LUCK!!」、「華麗なる一族」など話題となったTBSテレビのドラマ演出を手掛けている。慶応高校―慶応大学ではラグビー選手としても全国的に有名であり、曽祖父は慶応大学の創始者、福澤諭吉だそうだ。お坊ちゃまであり、文武両道に優れた、羨ましいくらいの俊英なのである。
「ドラマのTBS」の礎を築いたのが、1958年(昭和33)に放送された「私は貝になりたい」である。フランキー堺(1929年―1996年)主演、岡本愛彦演出、橋本忍脚本でラジオ東京テレビ(東京放送=TBS)が制作した。
――理髪店を営む男が召集され、戦地で米兵捕虜を殺すように上官から命令を受けるが、殺せず怪我を負わす。終戦後、捕虜虐待の罪で逮捕され、裁判を受けるが、判決は絞首刑となる。遺書に、「人間は嫌だ。生まれかわるなら、私は貝になりたい」と綴り、男は絞首台に向かう。
1958年の芸術祭大賞を受賞した記念として、その年の暮れに再放送された「私は貝になりたい」を草野球音は観た。ませた小学生は甚(いた)く感動したのを覚えている。
翌年には東宝で映画化され、フランキー堺が主演したが、妻の役はテレビの桜むつ子(1921年―2005年)から新珠三千代(1930年―2001年)に替わっていた。1994年(平成6)にはテレビで所ジョージと田中美佐子で、今回の映画では中居正広と仲間由紀恵のコンビとなっている。
さてフランキー堺のこと、シリーズ映画のことである。
フランキーは麻布中学を経て慶応大学に進み、戦後、進駐軍のキャンプでジャズドラムマーをして人気となりプロの道へ入る。その後俳優に転向し、1957年(昭和32)には傑作といわれる「幕末太陽伝」(日活・川島雄三監督)に居残り佐平次役で主演している。この映画には石原裕次郎(1934年―1987年)も高杉晋作役で出演している。コメディもシリアスもこなす俳優だった。
「駅前―」「社長―」のシリーズもの喜劇映画の出演で知られる。どちらも主役は森繁久弥だが、脇役のフランキー堺が面白いのだ。
「駅前―」では、森繁のほかにフランキー堺、伴淳三郎(1908年―1981年)が主要レギュラーだった。淡島千景、淡路恵子、池内淳子、大空真弓らの女優がからみ、さらに三木のり平(1924年―1999年)、山茶花究(1914年―1921年)の達者な役者が出ていた。
フランキーは若い旅館の主で、森繁、伴淳との絶妙の掛け合いが楽しめた。
1958年から1969年までに全24作品が、東京映画製作、東宝配給で上映された。原作は井伏鱒二(1898年―1993年)の「駅前旅館」だそうだ。豊田四郎(1906年―1977年)、久松静児、佐伯幸三らが監督を務めている。
駅前旅館(1958・豊田四郎))
喜劇・駅前団地(1961・久松静児)
喜劇・駅前弁当(1961年・久松静児)
喜劇・駅前飯店(1962・久松静児)
喜劇・駅前茶釜(1963・久松静児)
喜劇・駅前女将(1964・佐伯幸三)
喜劇・駅前怪談(1964・佐伯幸三)
喜劇・駅前音頭(1964・佐伯幸三)
喜劇・駅前天神(1964・佐伯幸三)
喜劇・駅前医院(1965・佐伯幸三)
喜劇・駅前金融(1965・佐伯幸三)
喜劇・駅前大学(1965・佐伯幸三)
喜劇・駅前弁天(1966・佐伯幸三)
喜劇・駅前漫画(1966・佐伯幸三)
喜劇・駅前番頭(1966・佐伯幸三)
喜劇・駅前競馬(1966・佐伯幸三)
喜劇・駅前満貫(1967・佐伯幸三)
喜劇・駅前学園(1967・井上和男)
喜劇・駅前探検(1967・井上和男)
喜劇・駅前百年(1967・豊田四郎)
喜劇・駅前開運(1968・豊田四郎)
喜劇・駅前火山(1968・山田達雄)
喜劇・駅前桟橋(1969・杉江敏男)
「社長―」は、浮気心のある社長役の森繁久弥、正直で融通が利かぬ秘書の小林桂樹、慎重派な部長の加東大介、宴会好きの部長の三木のり平に、大口の取引相手のフランキー堺が繰り広げるコメディだった。
フランキーは毎回キャラクターを変えて登場する。中国人であったり、ハワイの日系人であったり、男色の若社長であったり、するのだが、その役作りが徹底していて馬鹿に笑えるのだった。
「社長―」シリーズ監督は、加東大介の「大番」シリーズも手掛けた千葉泰樹(1910年―1985年)、「早撮りの巨匠」渡辺邦男(1899年―1981年)、杉江敏男(1913年―1996年)らが務めたたが、松林宗恵が最も多くメガホンを握っている。
へそくり社長(1956・千葉泰樹)
続・へそくり社長(1956・千葉泰樹)
はりきり社長(1956・渡辺邦男)
社長三代記(1958・松林宗恵)
続・社長三代記(1958・松林宗恵)
社長太平記(1959・松林宗恵)
続・社長太平記(1959・青柳信雄)
サラリーマン忠臣蔵(1960・杉江敏男)
続・サラリーマン忠臣蔵(1961・杉江敏男)
社長道中記 (1961・松林宗恵)
続・社長道中記(1961・松林宗恵)
サラリーマン清水港(1962・松林宗恵)
続・サラリーマン清水港 (1962・松林宗恵)
社長洋行記(1962・杉江敏男)
続社長洋行記 (1962・杉江敏男)
社長漫遊記(1963・杉江敏男)
続社長漫遊記(1963・杉江敏男)
社長外遊記 (1963・松林宗恵)
続社長外遊記 (1963・松林宗恵)
社長紳士録(1964・松林宗恵)
続社長紳士録(1964・松林宗恵)
社長忍法帖 (1965・松林宗恵)
続社長忍法帖(1965・松林宗恵)
社長行状記 (1966・松林宗恵)
続社長行状記 (1966・松林宗恵)
社長千一夜 (1967・松林宗恵)
続社長千一夜(1967・松林宗恵)
社長繁盛記(1968・松林宗恵)
続社長繁盛記(1968・松林宗恵)
社長えんま帖(1969・松林宗恵)
続社長えんま帖(1969・松林宗恵)
社長学ABC(1965・松林宗恵)
続社長学ABC(1965・松林宗恵)
以下、蛇足ながら‥‥。 「社長―」シリーズの三木のり平が笑える。お決まりは、「パーッと、いきましょう」と宴会をセッティングし、その席で珍芸を見せるのだった。仕事より宴会を生き甲斐にする部長役が面白かった。
軽妙自在な演技力もさることながら、演出家としての腕も一流だった。森光子の舞台「放浪記」を手掛けている。本業の落語活動を中心に活動した古今亭志ん朝(1938年―2001年)も三木のり平の舞台には出演していたという。
本名は田沼則子(たぬま・ただし)。女性の名前と間違えられることが頻繁であった。「則子」という名前のため、最後まで召集令状が届かなかったという逸話を聴いたことがあるが、ホントの話だろうか。
※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。
SMAPの中居正広が坊主になった話が発端だった。
「女の坊主がプロになると、アマ(尼)になる」。その昔、大学の宗教学の講義で教授がぽつりと言った。どっと沸いた。40年以上も記憶に残るジョークはそうはない。古典の域といえる。今、思い出したので書いてみた(だから冗漫な文章になる、という「突っ込み」が聴こえる)。
坊主とは僧侶のこと、また毛のない人をさすが、ぞんざいに、軽々に言う言葉かもしれない。やはり丸刈りと書いたほうが、穏当だろう。誤解・不快を招く表現は厳に慎みたい、と心した――と書いたばかりである。賢人は過ちを繰り返さない(おまえは賢人か)。
余談を切り上げ、本題に進む。
中居が丸刈りになったのは、役作りで、テレビ草創期の秀作ドラマ「私は貝になりたい」を同名タイトルでリメークした映画(福沢克雄監督)のためだ。その記者会見を電気紙芝居や大衆かわら版で見たのだった。
恥かしながら、福沢克雄のことは調べて初めて知ったのだが、中居正広主演の「砂の器」、明石家さんま主演の「さとうきび畑の唄」、木村拓哉主演の「GOOD LUCK!!」、「華麗なる一族」など話題となったTBSテレビのドラマ演出を手掛けている。慶応高校―慶応大学ではラグビー選手としても全国的に有名であり、曽祖父は慶応大学の創始者、福澤諭吉だそうだ。お坊ちゃまであり、文武両道に優れた、羨ましいくらいの俊英なのである。
「ドラマのTBS」の礎を築いたのが、1958年(昭和33)に放送された「私は貝になりたい」である。フランキー堺(1929年―1996年)主演、岡本愛彦演出、橋本忍脚本でラジオ東京テレビ(東京放送=TBS)が制作した。
――理髪店を営む男が召集され、戦地で米兵捕虜を殺すように上官から命令を受けるが、殺せず怪我を負わす。終戦後、捕虜虐待の罪で逮捕され、裁判を受けるが、判決は絞首刑となる。遺書に、「人間は嫌だ。生まれかわるなら、私は貝になりたい」と綴り、男は絞首台に向かう。
1958年の芸術祭大賞を受賞した記念として、その年の暮れに再放送された「私は貝になりたい」を草野球音は観た。ませた小学生は甚(いた)く感動したのを覚えている。
翌年には東宝で映画化され、フランキー堺が主演したが、妻の役はテレビの桜むつ子(1921年―2005年)から新珠三千代(1930年―2001年)に替わっていた。1994年(平成6)にはテレビで所ジョージと田中美佐子で、今回の映画では中居正広と仲間由紀恵のコンビとなっている。
さてフランキー堺のこと、シリーズ映画のことである。
フランキーは麻布中学を経て慶応大学に進み、戦後、進駐軍のキャンプでジャズドラムマーをして人気となりプロの道へ入る。その後俳優に転向し、1957年(昭和32)には傑作といわれる「幕末太陽伝」(日活・川島雄三監督)に居残り佐平次役で主演している。この映画には石原裕次郎(1934年―1987年)も高杉晋作役で出演している。コメディもシリアスもこなす俳優だった。
「駅前―」「社長―」のシリーズもの喜劇映画の出演で知られる。どちらも主役は森繁久弥だが、脇役のフランキー堺が面白いのだ。
「駅前―」では、森繁のほかにフランキー堺、伴淳三郎(1908年―1981年)が主要レギュラーだった。淡島千景、淡路恵子、池内淳子、大空真弓らの女優がからみ、さらに三木のり平(1924年―1999年)、山茶花究(1914年―1921年)の達者な役者が出ていた。
フランキーは若い旅館の主で、森繁、伴淳との絶妙の掛け合いが楽しめた。
1958年から1969年までに全24作品が、東京映画製作、東宝配給で上映された。原作は井伏鱒二(1898年―1993年)の「駅前旅館」だそうだ。豊田四郎(1906年―1977年)、久松静児、佐伯幸三らが監督を務めている。
駅前旅館(1958・豊田四郎))
喜劇・駅前団地(1961・久松静児)
喜劇・駅前弁当(1961年・久松静児)
喜劇・駅前飯店(1962・久松静児)
喜劇・駅前茶釜(1963・久松静児)
喜劇・駅前女将(1964・佐伯幸三)
喜劇・駅前怪談(1964・佐伯幸三)
喜劇・駅前音頭(1964・佐伯幸三)
喜劇・駅前天神(1964・佐伯幸三)
喜劇・駅前医院(1965・佐伯幸三)
喜劇・駅前金融(1965・佐伯幸三)
喜劇・駅前大学(1965・佐伯幸三)
喜劇・駅前弁天(1966・佐伯幸三)
喜劇・駅前漫画(1966・佐伯幸三)
喜劇・駅前番頭(1966・佐伯幸三)
喜劇・駅前競馬(1966・佐伯幸三)
喜劇・駅前満貫(1967・佐伯幸三)
喜劇・駅前学園(1967・井上和男)
喜劇・駅前探検(1967・井上和男)
喜劇・駅前百年(1967・豊田四郎)
喜劇・駅前開運(1968・豊田四郎)
喜劇・駅前火山(1968・山田達雄)
喜劇・駅前桟橋(1969・杉江敏男)
「社長―」は、浮気心のある社長役の森繁久弥、正直で融通が利かぬ秘書の小林桂樹、慎重派な部長の加東大介、宴会好きの部長の三木のり平に、大口の取引相手のフランキー堺が繰り広げるコメディだった。
フランキーは毎回キャラクターを変えて登場する。中国人であったり、ハワイの日系人であったり、男色の若社長であったり、するのだが、その役作りが徹底していて馬鹿に笑えるのだった。
「社長―」シリーズ監督は、加東大介の「大番」シリーズも手掛けた千葉泰樹(1910年―1985年)、「早撮りの巨匠」渡辺邦男(1899年―1981年)、杉江敏男(1913年―1996年)らが務めたたが、松林宗恵が最も多くメガホンを握っている。
へそくり社長(1956・千葉泰樹)
続・へそくり社長(1956・千葉泰樹)
はりきり社長(1956・渡辺邦男)
社長三代記(1958・松林宗恵)
続・社長三代記(1958・松林宗恵)
社長太平記(1959・松林宗恵)
続・社長太平記(1959・青柳信雄)
サラリーマン忠臣蔵(1960・杉江敏男)
続・サラリーマン忠臣蔵(1961・杉江敏男)
社長道中記 (1961・松林宗恵)
続・社長道中記(1961・松林宗恵)
サラリーマン清水港(1962・松林宗恵)
続・サラリーマン清水港 (1962・松林宗恵)
社長洋行記(1962・杉江敏男)
続社長洋行記 (1962・杉江敏男)
社長漫遊記(1963・杉江敏男)
続社長漫遊記(1963・杉江敏男)
社長外遊記 (1963・松林宗恵)
続社長外遊記 (1963・松林宗恵)
社長紳士録(1964・松林宗恵)
続社長紳士録(1964・松林宗恵)
社長忍法帖 (1965・松林宗恵)
続社長忍法帖(1965・松林宗恵)
社長行状記 (1966・松林宗恵)
続社長行状記 (1966・松林宗恵)
社長千一夜 (1967・松林宗恵)
続社長千一夜(1967・松林宗恵)
社長繁盛記(1968・松林宗恵)
続社長繁盛記(1968・松林宗恵)
社長えんま帖(1969・松林宗恵)
続社長えんま帖(1969・松林宗恵)
社長学ABC(1965・松林宗恵)
続社長学ABC(1965・松林宗恵)
以下、蛇足ながら‥‥。 「社長―」シリーズの三木のり平が笑える。お決まりは、「パーッと、いきましょう」と宴会をセッティングし、その席で珍芸を見せるのだった。仕事より宴会を生き甲斐にする部長役が面白かった。
軽妙自在な演技力もさることながら、演出家としての腕も一流だった。森光子の舞台「放浪記」を手掛けている。本業の落語活動を中心に活動した古今亭志ん朝(1938年―2001年)も三木のり平の舞台には出演していたという。
本名は田沼則子(たぬま・ただし)。女性の名前と間違えられることが頻繁であった。「則子」という名前のため、最後まで召集令状が届かなかったという逸話を聴いたことがあるが、ホントの話だろうか。
※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。
2008年2月17日日曜日
以下、蛇足ながら‥‥
「蛇足」の語義をデジタル大辞泉(三省堂)で引く
――《昔、中国の楚(そ)の国で、蛇の絵をはやく描く競争をした時、最初に描き上げた者がつい足まで描いてしまったために負けたという「戦国策」斉策上の故事から》付け加える必要のないもの。無用の長物。
さらに上記を補うと(そもそもコレが蛇足)、
蛇に足はないのだ。余裕の男は不要の足まで描いて、結局酒を飲めなかった。
楚の国の大将が斉の国を攻めた時、楚の参謀が「すでに最高位にあるあなたが斉に勝っても得るものはない。蛇の足を描いた者のような、無駄な戦(いくさ)をして負ければ、すべての地位を失う。戦はやめたほうがよい」と、進言し軍隊を引き上げさせた、という故事だそうだ。
40年以上も前の話である。高校時代の漢文の授業で、「蛇足」の故事由来と語源の説明があった。授業終了のチャイムが鳴った頃合、ある学生が(内容は忘れたが)とるに足らない質問をした。
「そういう質問をだな。蛇足という」と、教師はにやりとして言い、教室にどっと笑いが起こったのを、妙に記憶している。
蛇足とは、とるに足らないものである。
だが、しかし。
この蜘蛛巣丸太では敢えて「蛇足」を書くつもりだ。それも積極的に。「蛇足」の記憶を思い起こすのも、再度記すために調べるのもアンチエージング(ボケ防止)の一助になると、隠居にして覆面雑文屋の草野球音は信じるからだ。
ということで、絵もない、写真もない、殺風景な蜘蛛巣丸太である。無愛想なおやじがやっているラーメン屋に出くわしたような、そんな不運を老人介護のボランティアとおぼし召して、お付き合い願いたい。
どうかひとつ。ながーい目で見てください。ワリーネ。ワリーネ。ワリーネ・ディートリッヒ(小松政夫か)。
× × ×
以下、蛇足ながら‥‥。
小松のギャグ「ワリーネ・ディートリッヒ」の語源となっている「マレーネ・ディートリッヒ」の略歴を記す。
マレーネ・ディートリッヒ:1901年―1992年。ドイツの女優・歌手。「嘆きの天使」、ゲーリー・クーパーと共演した「モロッコ」、「ニュールンベルグ裁判」の映画に出演、歌手としては「リリー・マルレーン」で知られる。脚線美が有名。
※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。
――《昔、中国の楚(そ)の国で、蛇の絵をはやく描く競争をした時、最初に描き上げた者がつい足まで描いてしまったために負けたという「戦国策」斉策上の故事から》付け加える必要のないもの。無用の長物。
さらに上記を補うと(そもそもコレが蛇足)、
蛇に足はないのだ。余裕の男は不要の足まで描いて、結局酒を飲めなかった。
楚の国の大将が斉の国を攻めた時、楚の参謀が「すでに最高位にあるあなたが斉に勝っても得るものはない。蛇の足を描いた者のような、無駄な戦(いくさ)をして負ければ、すべての地位を失う。戦はやめたほうがよい」と、進言し軍隊を引き上げさせた、という故事だそうだ。
40年以上も前の話である。高校時代の漢文の授業で、「蛇足」の故事由来と語源の説明があった。授業終了のチャイムが鳴った頃合、ある学生が(内容は忘れたが)とるに足らない質問をした。
「そういう質問をだな。蛇足という」と、教師はにやりとして言い、教室にどっと笑いが起こったのを、妙に記憶している。
蛇足とは、とるに足らないものである。
だが、しかし。
この蜘蛛巣丸太では敢えて「蛇足」を書くつもりだ。それも積極的に。「蛇足」の記憶を思い起こすのも、再度記すために調べるのもアンチエージング(ボケ防止)の一助になると、隠居にして覆面雑文屋の草野球音は信じるからだ。
ということで、絵もない、写真もない、殺風景な蜘蛛巣丸太である。無愛想なおやじがやっているラーメン屋に出くわしたような、そんな不運を老人介護のボランティアとおぼし召して、お付き合い願いたい。
どうかひとつ。ながーい目で見てください。ワリーネ。ワリーネ。ワリーネ・ディートリッヒ(小松政夫か)。
× × ×
以下、蛇足ながら‥‥。
小松のギャグ「ワリーネ・ディートリッヒ」の語源となっている「マレーネ・ディートリッヒ」の略歴を記す。
マレーネ・ディートリッヒ:1901年―1992年。ドイツの女優・歌手。「嘆きの天使」、ゲーリー・クーパーと共演した「モロッコ」、「ニュールンベルグ裁判」の映画に出演、歌手としては「リリー・マルレーン」で知られる。脚線美が有名。
※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。
2008年2月16日土曜日
市川崑の煙草:続・蛇足
蛇足の蛇足になりますが‥‥。
市川崑の愛した煙草銘柄のことで、「映像美は永遠に市川崑」の項(文末)の蛇足として「チェリーを好んで吸ったという」と書いたが、どうやらこれは「戦前のチェリー(CHERRY)」だった。
現在市販しているチェリーを吸っていると勘違いして記述したので、文末に「注」を挿入した。
× × ×
13日に亡くなった市川崑の葬儀・告別式が15日に、自宅近くの教会で営まれ、俳優の中井貴一が市川の嗜好していた煙草「キャメル」1カートンを棺に納めたと、日刊スポーツ、報知新聞、スポーツニッポンの各紙が報じている。
× × ×
専売公社いや日本たばこ産業(JT)から現在「チェリー(CHERRY)」は発売されているが、戦前のものとは同じ名称ながら、関連性はない。つまり味が違う。「似て非なり」である。
戦前のチェリーは「バージニア葉による甘みと細身の巻きと両切りが特徴の煙草」だそうだ。池波正太郎らが好んで吸っていたのは戦前のチェリーで、戦時中は敵国語を避け「桜」と改名されている。
没年をみると、1990年の池波は吸った可能性はあっても、1963年の小津安二郎と1967年の山本周五郎は現在のチェリーは吸ってはいないのだ。
現在のものはアメリカンブレンドで、1970年(昭和45)に発売された。
「チェリー」も「キャメル」も区別のつかぬ、煙草を吸わない草野球音が不案内で、誤解を招く記述になった。
「生兵法は怪我の元」である。
隠居にして覆面雑文屋は、誤解・不快を招く表現を厳に慎みたい、と心した。
※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。
市川崑の愛した煙草銘柄のことで、「映像美は永遠に市川崑」の項(文末)の蛇足として「チェリーを好んで吸ったという」と書いたが、どうやらこれは「戦前のチェリー(CHERRY)」だった。
現在市販しているチェリーを吸っていると勘違いして記述したので、文末に「注」を挿入した。
× × ×
13日に亡くなった市川崑の葬儀・告別式が15日に、自宅近くの教会で営まれ、俳優の中井貴一が市川の嗜好していた煙草「キャメル」1カートンを棺に納めたと、日刊スポーツ、報知新聞、スポーツニッポンの各紙が報じている。
× × ×
専売公社いや日本たばこ産業(JT)から現在「チェリー(CHERRY)」は発売されているが、戦前のものとは同じ名称ながら、関連性はない。つまり味が違う。「似て非なり」である。
戦前のチェリーは「バージニア葉による甘みと細身の巻きと両切りが特徴の煙草」だそうだ。池波正太郎らが好んで吸っていたのは戦前のチェリーで、戦時中は敵国語を避け「桜」と改名されている。
没年をみると、1990年の池波は吸った可能性はあっても、1963年の小津安二郎と1967年の山本周五郎は現在のチェリーは吸ってはいないのだ。
現在のものはアメリカンブレンドで、1970年(昭和45)に発売された。
「チェリー」も「キャメル」も区別のつかぬ、煙草を吸わない草野球音が不案内で、誤解を招く記述になった。
「生兵法は怪我の元」である。
隠居にして覆面雑文屋は、誤解・不快を招く表現を厳に慎みたい、と心した。
※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。
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