2010年10月7日木曜日

名手大沢啓二が走者広岡達朗を刺した

男・度胸の伝説プレーで偲ぶ
 そのとき球史が動いた。
 そこに大沢昌芳(のちの啓二)が守っていることが信じられない。通常の中堅手の守備位置からは左翼へ20m、10mは前進していただろう。なぜ彼は極端に守りを変えることができたのだろうか。

 1959年(昭和34年)10月27日。後楽園球場。巨人―南海の日本シリーズ第3戦。これまで南海の2勝(第1戦南海10-7巨人・第2戦南海7-3巨人)。
 場面は9回裏だった。スコアは1-2と巨人ビハインド。先頭打者の坂崎一彦が起死回生の同点アーチを放った。続き国松彰もヒットでつなげる。広岡達朗のバント失敗で走者が入れ替わるものの、加倉井実の二塁打で1死2,3塁、巨人サヨナラ機となった。

 采配を揮うのは巨人は水原茂、南海は鶴岡一人の名将対決である。
 南海のマウンドはエースの杉浦忠。バッテリーを組む捕手は野村克也。
 そして巨人の打者は森昌彦(のちの祇晶)だ。

 森が打った。左中間に抜けた――と思われた打球を、大沢昌芳が左へ動き捕球した。三塁走者の広岡はタッチアップし本塁へ走った。捕った大沢が素早く本塁へ返球した。ボールが速い。本塁ベース1m手前で返球を受けた野村は広岡にタッチした。大沢の正確な返球に広岡は滑ることもなく、あえなく憤死した。巨人のサヨナラのチャンスは消えた。

 ピンチを脱した南海が10回表に、寺田陽介のタイムリー二塁打で勝ち越し、杉浦が巨人の長嶋茂雄を遊撃飛球に打ちとり、覇権に王手をかけた。

 この勝利は、大沢の手柄といっていい。左中間浅く守備位置を変えた判断が光った。通常の守備についていたら、森の打球はヒットとなり、三塁から広岡はサヨナラのホームを踏んでいたはずだった。

 忍者のような大沢のプレーだった。

 このシリーズは第3戦をものにした南海が第4戦も杉浦が巨人を3-0完封し、日本一に輝いた。MVPはひとりで4勝を稼いだ杉浦だった。

  日本シリーズ後、尾張メモといわれた情報活動が注目を浴びた。尾張久次は南海のスコアラー。日本初のスコアラーだった。巨人打者の打球方向、投手の投球傾向など収集したといわれる。確かに尾張のメモは対戦に役立っただろうが、大沢は後日こういっていた。「尾張さんの情報はあったが、あのプレーは俺の判断だよ」。

 サヨナラのピンチで飛び出した極端な守備シフト。男・大沢の決断力が、度胸が、球史の主役となった。

×  ×  ×

 ロッテ、日本ハムで監督を務め『親分』といわれた大沢啓二(おおさわ・けいじ)氏が2010年10月7日亡くなった。78歳だった。

×  ×  ×

 大沢さんは1971年シーズン途中からロッテ監督に就任し、翌1972年も務めている。当方は当時ロッテ担当記者だった。彼は眼光あくまで鋭い40歳の若親分だった。日本シリーズの返球の話題は何度か聴いた。あのシリーズはテレビ観戦していた。
 現役10年。988試合出場、打率2割4分1厘、17本塁打、191打点。選手としては2流だが、伝説プレーは永遠にプロ野球ファンの記憶に残ることだろう。

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