2008年2月27日水曜日

スチャラカ社員:気紛れ記

 「スチャラカ社員」って知っていますか?

×  ×  ×

 映画「明日への遺言」(小泉尭史監督)の記者会見での藤田まこと富司純子を、テレビは映し出していた。ふたりは、級戦犯として戦後軍事裁判にかけられる岡田資中将とその妻を演じている。2008年3月1日封切。
 
×  ×  ×

 さて、「スチャラカ社員」だ。1961年(昭和36)から1967年にかけて日曜日の昼にテレビ放送されたドタバタ・コメディである。
 中田ダイマル(1913年―1982年)・ラケット(1920年―1997年)が主役のグータラ中堅社員役、社長はミヤコ蝶々(1920年―2000年)で、若手社員に藤田まこと、美人のOLに長谷百合というキャストであった。藤純子(後の富司純子)はその会社に新しく入社してきて、長谷百合が番組に出なくなり、職場の華が藤純子にとって替わった、と記憶している。

 藤田まことが長谷百合を「ハセく~ん」と、言葉を伸ばして言う呼び方や、課長役の人見きよし(1930年―1985年)の「ほんと、ちい~とも知らなかったわぁ」が流行った。
 給仕の少年役は白木みのるだった。

 藤純子は途中で映画出演に追われ、出演しなくなったが、登場した彼女の容姿は目を見張るものがあった。まだ十代(高校生)だったろう。まさに「栴檀(せんだん)は双葉より芳(かんば)し」である。後年、東映を支えた「緋牡丹博徒」の矢野竜子役の颯爽たるさまは、実に美しいかったなぁ。

 というわけで、藤田まことと富司純子の映画共演から「スチャラカ社員」に思いを馳せたという次第である。
 あれから50余年――歳月流るる如し。

2008年2月23日土曜日

中居クンからフランキー

シリーズ映画Ⅳ
 SMAPの中居正広が坊主になった話が発端だった。

 「女の坊主がプロになると、アマ(尼)になる」。その昔、大学の宗教学の講義で教授がぽつりと言った。どっと沸いた。40年以上も記憶に残るジョークはそうはない。古典の域といえる。今、思い出したので書いてみた(だから冗漫な文章になる、という「突っ込み」が聴こえる)。

 坊主とは僧侶のこと、また毛のない人をさすが、ぞんざいに、軽々に言う言葉かもしれない。やはり丸刈りと書いたほうが、穏当だろう。誤解・不快を招く表現は厳に慎みたい、と心した――と書いたばかりである。賢人は過ちを繰り返さない(おまえは賢人か)。

 余談を切り上げ、本題に進む。

 中居が丸刈りになったのは、役作りで、テレビ草創期の秀作ドラマ「私は貝になりたい」を同名タイトルでリメークした映画(福沢克雄監督)のためだ。その記者会見を電気紙芝居や大衆かわら版で見たのだった。

 恥かしながら、福沢克雄のことは調べて初めて知ったのだが、中居正広主演の「砂の器」、明石家さんま主演の「さとうきび畑の唄」、木村拓哉主演の「GOOD LUCK!!」、「華麗なる一族」など話題となったTBSテレビのドラマ演出を手掛けている。慶応高校―慶応大学ではラグビー選手としても全国的に有名であり、曽祖父は慶応大学の創始者、福澤諭吉だそうだ。お坊ちゃまであり、文武両道に優れた、羨ましいくらいの俊英なのである。

 「ドラマのTBS」の礎を築いたのが、1958年(昭和33)に放送された「私は貝になりたい」である。フランキー堺(1929年―1996年)主演、岡本愛彦演出、橋本忍脚本でラジオ東京テレビ(東京放送=TBS)が制作した。

――理髪店を営む男が召集され、戦地で米兵捕虜を殺すように上官から命令を受けるが、殺せず怪我を負わす。終戦後、捕虜虐待の罪で逮捕され、裁判を受けるが、判決は絞首刑となる。遺書に、「人間は嫌だ。生まれかわるなら、私は貝になりたい」と綴り、男は絞首台に向かう。

 1958年の芸術祭大賞を受賞した記念として、その年の暮れに再放送された「私は貝になりたい」を草野球音は観た。ませた小学生は甚(いた)く感動したのを覚えている。
 翌年には東宝で映画化され、フランキー堺が主演したが、妻の役はテレビの桜むつ子(1921年―2005年)から新珠三千代(1930年―2001年)に替わっていた。1994年(平成6)にはテレビで所ジョージと田中美佐子で、今回の映画では中居正広と仲間由紀恵のコンビとなっている。

 さてフランキー堺のこと、シリーズ映画のことである。
 フランキーは麻布中学を経て慶応大学に進み、戦後、進駐軍のキャンプでジャズドラムマーをして人気となりプロの道へ入る。その後俳優に転向し、1957年(昭和32)には傑作といわれる「幕末太陽伝」(日活・川島雄三監督)に居残り佐平次役で主演している。この映画には石原裕次郎(1934年―1987年)も高杉晋作役で出演している。コメディもシリアスもこなす俳優だった。

 「駅前―」「社長―」のシリーズもの喜劇映画の出演で知られる。どちらも主役は森繁久弥だが、脇役のフランキー堺が面白いのだ。
 「駅前―」では、森繁のほかにフランキー堺、伴淳三郎(1908年―1981年)が主要レギュラーだった。淡島千景、淡路恵子、池内淳子、大空真弓らの女優がからみ、さらに三木のり平(1924年―1999年)、山茶花究(1914年―1921年)の達者な役者が出ていた。
 フランキーは若い旅館の主で、森繁、伴淳との絶妙の掛け合いが楽しめた。
 1958年から1969年までに全24作品が、東京映画製作、東宝配給で上映された。原作は井伏鱒二(1898年―1993年)の「駅前旅館」だそうだ。豊田四郎(1906年―1977年)、久松静児、佐伯幸三らが監督を務めている。
 
駅前旅館(1958・豊田四郎))
喜劇・駅前団地(1961・久松静児)
喜劇・駅前弁当(1961年・久松静児)
喜劇・駅前飯店(1962・久松静児)
喜劇・駅前茶釜(1963・久松静児)
喜劇・駅前女将(1964・佐伯幸三)
喜劇・駅前怪談(1964・佐伯幸三)
喜劇・駅前音頭(1964・佐伯幸三)
喜劇・駅前天神(1964・佐伯幸三)
喜劇・駅前医院(1965・佐伯幸三)
喜劇・駅前金融(1965・佐伯幸三)
喜劇・駅前大学(1965・佐伯幸三)
喜劇・駅前弁天(1966・佐伯幸三)
喜劇・駅前漫画(1966・佐伯幸三)
喜劇・駅前番頭(1966・佐伯幸三)
喜劇・駅前競馬(1966・佐伯幸三)
喜劇・駅前満貫(1967・佐伯幸三)
喜劇・駅前学園(1967・井上和男)
喜劇・駅前探検(1967・井上和男)
喜劇・駅前百年(1967・豊田四郎)
喜劇・駅前開運(1968・豊田四郎)
喜劇・駅前火山(1968・山田達雄)
喜劇・駅前桟橋(1969・杉江敏男)


 「社長―」は、浮気心のある社長役の森繁久弥、正直で融通が利かぬ秘書の小林桂樹、慎重派な部長の加東大介、宴会好きの部長の三木のり平に、大口の取引相手のフランキー堺が繰り広げるコメディだった。
 フランキーは毎回キャラクターを変えて登場する。中国人であったり、ハワイの日系人であったり、男色の若社長であったり、するのだが、その役作りが徹底していて馬鹿に笑えるのだった。
 「社長―」シリーズ監督は、加東大介の「大番」シリーズも手掛けた千葉泰樹(1910年―1985年)、「早撮りの巨匠」渡辺邦男(1899年―1981年)、杉江敏男(1913年―1996年)らが務めたたが、松林宗恵が最も多くメガホンを握っている。

へそくり社長(1956・千葉泰樹)
続・へそくり社長(1956・千葉泰樹)
はりきり社長(1956・渡辺邦男)
社長三代記(1958・松林宗恵)
続・社長三代記(1958・松林宗恵)
社長太平記(1959・松林宗恵)
続・社長太平記(1959・青柳信雄)
サラリーマン忠臣蔵(1960・杉江敏男)
続・サラリーマン忠臣蔵(1961・杉江敏男)
社長道中記 (1961・松林宗恵)
続・社長道中記(1961・松林宗恵)
サラリーマン清水港(1962・松林宗恵)
続・サラリーマン清水港 (1962・松林宗恵)
社長洋行記(1962・杉江敏男)
続社長洋行記 (1962・杉江敏男)
社長漫遊記(1963・杉江敏男)
続社長漫遊記(1963・杉江敏男)
社長外遊記 (1963・松林宗恵)
続社長外遊記 (1963・松林宗恵)
社長紳士録(1964・松林宗恵)
続社長紳士録(1964・松林宗恵)
社長忍法帖 (1965・松林宗恵)
続社長忍法帖(1965・松林宗恵)
社長行状記 (1966・松林宗恵)
続社長行状記 (1966・松林宗恵)
社長千一夜 (1967・松林宗恵)
続社長千一夜(1967・松林宗恵)
社長繁盛記(1968・松林宗恵)
続社長繁盛記(1968・松林宗恵)
社長えんま帖(1969・松林宗恵)
続社長えんま帖(1969・松林宗恵)
社長学ABC(1965・松林宗恵)
続社長学ABC(1965・松林宗恵)

 以下、蛇足ながら‥‥。 「社長―」シリーズの三木のり平が笑える。お決まりは、「パーッと、いきましょう」と宴会をセッティングし、その席で珍芸を見せるのだった。仕事より宴会を生き甲斐にする部長役が面白かった。
 軽妙自在な演技力もさることながら、演出家としての腕も一流だった。森光子の舞台「放浪記」を手掛けている。本業の落語活動を中心に活動した古今亭志ん朝(1938年―2001年)も三木のり平の舞台には出演していたという。
 本名は田沼則子(たぬま・ただし)。女性の名前と間違えられることが頻繁であった。「則子」という名前のため、最後まで召集令状が届かなかったという逸話を聴いたことがあるが、ホントの話だろうか。

 ※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。

2008年2月17日日曜日

以下、蛇足ながら‥‥

 「蛇足」の語義をデジタル大辞泉(三省堂)で引く
――《昔、中国の楚(そ)の国で、蛇の絵をはやく描く競争をした時、最初に描き上げた者がつい足まで描いてしまったために負けたという「戦国策」斉策上の故事から》付け加える必要のないもの。無用の長物。

 さらに上記を補うと(そもそもコレが蛇足)、
 蛇に足はないのだ。余裕の男は不要の足まで描いて、結局酒を飲めなかった。

 楚の国の大将が斉の国を攻めた時、楚の参謀が「すでに最高位にあるあなたが斉に勝っても得るものはない。蛇の足を描いた者のような、無駄な戦(いくさ)をして負ければ、すべての地位を失う。戦はやめたほうがよい」と、進言し軍隊を引き上げさせた、という故事だそうだ。

 40年以上も前の話である。高校時代の漢文の授業で、「蛇足」の故事由来と語源の説明があった。授業終了のチャイムが鳴った頃合、ある学生が(内容は忘れたが)とるに足らない質問をした。
 「そういう質問をだな。蛇足という」と、教師はにやりとして言い、教室にどっと笑いが起こったのを、妙に記憶している。

 蛇足とは、とるに足らないものである。

 だが、しかし。
 この蜘蛛巣丸太では敢えて「蛇足」を書くつもりだ。それも積極的に。「蛇足」の記憶を思い起こすのも、再度記すために調べるのもアンチエージング(ボケ防止)の一助になると、隠居にして覆面雑文屋の草野球音は信じるからだ。

 ということで、絵もない、写真もない、殺風景な蜘蛛巣丸太である。無愛想なおやじがやっているラーメン屋に出くわしたような、そんな不運を老人介護のボランティアとおぼし召して、お付き合い願いたい。
  
 どうかひとつ。ながーい目で見てください。ワリーネ。ワリーネ。ワリーネ・ディートリッヒ(小松政夫か)。

×  ×  ×

 以下、蛇足ながら‥‥。
 小松のギャグ「ワリーネ・ディートリッヒ」の語源となっている「マレーネ・ディートリッヒ」の略歴を記す。

 マレーネ・ディートリッヒ:1901年―1992年。ドイツの女優・歌手。「嘆きの天使」、ゲーリー・クーパーと共演した「モロッコ」、「ニュールンベルグ裁判」の映画に出演、歌手としては「リリー・マルレーン」で知られる。脚線美が有名。

※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。

2008年2月16日土曜日

市川崑の煙草:続・蛇足

 蛇足の蛇足になりますが‥‥。
 市川崑の愛した煙草銘柄のことで、「映像美は永遠に市川崑」の項(文末)の蛇足として「チェリーを好んで吸ったという」と書いたが、どうやらこれは「戦前のチェリー(CHERRY)」だった。
 現在市販しているチェリーを吸っていると勘違いして記述したので、文末に「注」を挿入した。

×  ×  ×

 13日に亡くなった市川崑の葬儀・告別式が15日に、自宅近くの教会で営まれ、俳優の中井貴一が市川の嗜好していた煙草「キャメル」1カートンを棺に納めたと、日刊スポーツ、報知新聞、スポーツニッポンの各紙が報じている。

×  ×  ×

 専売公社いや日本たばこ産業(JT)から現在「チェリー(CHERRY)」は発売されているが、戦前のものとは同じ名称ながら、関連性はない。つまり味が違う。「似て非なり」である。
 戦前のチェリーは「バージニア葉による甘みと細身の巻きと両切りが特徴の煙草」だそうだ。池波正太郎らが好んで吸っていたのは戦前のチェリーで、戦時中は敵国語を避け「桜」と改名されている。
 没年をみると、1990年の池波は吸った可能性はあっても、1963年の小津安二郎と1967年の山本周五郎は現在のチェリーは吸ってはいないのだ。

 現在のものはアメリカンブレンドで、1970年(昭和45)に発売された。

 「チェリー」も「キャメル」も区別のつかぬ、煙草を吸わない草野球音が不案内で、誤解を招く記述になった。
 「生兵法は怪我の元」である。
 隠居にして覆面雑文屋は、誤解・不快を招く表現を厳に慎みたい、と心した。

※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。

2008年2月14日木曜日

映像美は永遠に市川崑

「鍵」から「雪之丞」まで
 燻(くゆ)らせた煙草がしみるのだろうか。目を細めながら、毛糸の帽子をかぶった巨匠は映画を語っていた。熱弁ではないが、静かな語り口から情熱がじわりと伝ってきた。テレビ画面に生前の、そんな姿が映し出された――2008年2月13日、「ビルマの竪琴」「東京オリンピック」などの名作で知られ、日本映画界の全盛期を築き支えた映画監督、市川崑(いちかわ・こん)が死去した。現役の92歳だった。














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 激走するボブ・ヘイズ(米国)の顔面アップ。上腕、太股の筋肉が躍る。超望遠レンズを駆使し、濃密に描かれた陸上男子100mの「10秒間」。
 「カーン」「カーン」と突貫工事で進められる五輪施設建設の槌音(つちおと)が響く。東京の変貌を追う冒頭シーン。
 オリンピックというスポーツの世界を単なる実録でなく、その中に潜む人間ドラマを抽出した描写。
 映像美。
 どれも市川崑の映画監督としてこだわりが感じられた。
 映画「東京オリンピック」は大会の翌年1965年(昭和40)公開された。

 オリンピック担当大臣の河野一郎(1898年―1965年)が「記録性に欠ける」と批判した。五輪公式映画は「記録性を重視すべきか、芸術性の追及か」と、日本中で大論争が巻き起こっている。記録映画を芸術作品にまで高めた市川崑の手腕にいたく感動した草野球音は「論外のいちゃもん」と思えた。

 新東宝、東宝、日活、大映、フリーとして活躍した。文芸作品あり、娯楽作品あり、ミステリーあり、時代劇あり、ドキュメンタリーあり、戦後の昭和から平成の60年間にわたり70本超の映画を撮り続けた。なんと長く幅広い作風の映画監督であったことか。

 文芸作品では竹山道雄の原作の映画化「ビルマの竪琴」(1956年、安井昌二、三國連太郎の主演)は日活作品だが、大映移籍後の活躍が記憶に残る。
 谷崎潤一郎の「鍵」(1959年)は封切りから数年後に場末の映画館で観た。エロティックな映画だったなぁ。主演は女盛りの京マチ子。その夫である古美術鑑定家に中村雁治郎(二代目。1902年―1983年)、娘に叶順子、妻の不倫相手で娘の婚約者の医師に仲代達矢というキャストだった。好みは叶順子だったが、京の裸身がまぶしかった。

 1958年には三島由紀夫の「金閣寺」の映画化「炎上」を初の現代劇に挑む市川雷蔵主演で、1959年に大岡昇平の「野火」(船越英二主演)、1960年には山崎豊子の「ぼんち」(市川雷蔵主演)と幸田文の「おとうと」(岸恵子、川口浩主演)、1962年には島崎藤村の「破戒」(市川雷蔵主演)をたてつづけに撮っている。ちなみに藤村志保はこの作品が映画デビュー作で、原作者の「藤村」と役名の「志保」から芸名とした。

 1963年には、太平洋ヨット単独横断に成功した堀江健一の「太平洋ひとりぼっち」石原裕次郎主演(石原プロ=日活)で映画化している。1970年代は石坂浩二を名探偵・金田一耕助に据えた横溝正史シリーズ(東宝)、1983年には谷崎潤一郎の「細雪」岸恵子、佐久間良子、吉永小百合、古手川祐子を配した4姉妹で撮っている。

 娯楽作品では1963年の「雪之丞変化」がある。長谷川一夫(1908年―1984年)の300本出演記念映画。雪之丞と闇太郎の二役のサービスを長谷川一夫、女優は山本富士子若尾文子、男優は市川雷蔵(1931年―1969年)勝新太郎(1931年―1997年)がからみ、船越英二(1923年―2007年)、中村雁治郎が脇を固める大映オールスターのエンターテインメントであった。雷蔵が昼太郎という三枚目を演じ、長谷川を盛り上げっているのがご愛嬌である。

 1948年(昭和23)に「花ひらく」で監督デビュー。同年に脚本家の和田夏十(1983年死去)と結婚。市川の監督作品には脚本を担当する協同作業者となった。

 テレビでは1972年にフジテレビで放映された「市川崑劇場・木枯紋次郎」シリーズが好評だった。

 巨星堕つ。しかし、その映像美は銀幕という銀河に永遠に輝いている。

×  ×  ×

 以下、蛇足ながら‥‥。
 紫煙を絶やすことのない、チェーンスモーカーという言葉がピッタリはまった御仁だろう。子供ころから市川崑の写真は、必ず銜(くわ)え煙草姿であった。まだ癌を誘発させる健康被害の元凶などと白眼視される前の時代だった。
 ちなみに煙草は、16世紀後半の安土桃山時代にスペイン船が伝来し、最初に吸った日本女性は豊臣秀吉の側室、淀殿であったという。

 市川崑はチェリー(CHERRY)を好んで吸ったという。小津安二郎(1903年―1963年)、山本周五郎(1903年―1967年)、池波正太郎(1923年―1990年)も「同好の士」であったと、どこぞで読んだことがある。本当だろうか。
 注=チェリーは、現在のチェリーでなく、戦前に市販品されていた種類と推測される。

※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。

2008年2月11日月曜日

カツライスに職人シェフ

シリーズ映画Ⅲ
 味のよいカツライスを作ったのは職人シェフだった。

 カツライスとは「勝」新太郎(1931年―1997年)と市川「雷」蔵(1931年―1969年)のことで、大映の誇る2枚看板である。2007年10月14日の「大映はカツライスの味」(カテゴリー:映画の友)で前述しているので、参照していただければ幸いである。
 カツライスのシリーズ映画となると、勝は「座頭市」「悪名」「兵隊やくざ」、そして雷蔵は「眠狂四郎」「忍びの者」「若親分」「陸軍中野学校」ではないだろうか。
 
 シリーズ名と作品数(制作期間)=スタート時の監督を挙げると、
「座頭市」26作品(1962年~1989年)=三隅研次
「悪名」16作品(1961年~1974年)=田中徳三
「兵隊やくざ」9作品(1965年~1972年)=増村保造
「眠狂四郎」12作品(1963年から1969年)=田中徳三
「忍びの者」8作品(1962年~1966年)=山本薩夫
「若親分」7作品(1965年~1967年)=池広一夫
「陸軍中野学校」5作品(1966年~1968年)=増村保造
となっている。
 市川雷蔵は1969年(昭和44)に37歳で夭折しているので、作品数と期間は勝新太郎に比べ当然ながら少ない。

 「プログラムピクチャー」という言葉がある。請け売りで恐縮だが、「映画会社主導の商業主義を重視し、決められた予算・撮影期間(時には早撮りも要求される)で制作された映画」と定義される。チャンバラ、やくざ、コメディ、アクション、青春もの、歌謡ものなどがこの範疇に属する場合が多い。邦画全盛期を支えた貴重な映画作りの職人といえる。邦画衰退⇒テレビ隆盛となり、その職人芸は多くテレビドラマで生かすことになる。

 プログラムピクチャーの対極にあるのが「作家主義」で、黒澤明、小津安二郎、溝口健二らに代表される。

 上記の三隅研次(1921年―1975年)、田中徳三(1920年―2007年)、池広一夫の3監督は「大映三羽烏」といわれたプログラムピクチャーの旗手である。

 田中徳三は昨年12月20日に亡くなった。記憶に新しい訃報である。彼は関西学院大学を卒業後、1948年に大映入社した。「羅生門」(1950年・黒澤明監督)、「雨月物語」(1953年・溝口健二監督)、「山椒大夫」(1954年・溝口健二監督)、「炎上」(1958年・市川崑監督)の後世に残る作品で助監督を務めている。「羅生門」は1951年(昭和26)のベネチア映画祭グランプリ、「雨月物語」は1953年の同銀獅子賞に輝いている。
 「作家主義」の監督を支えながら成長し、1958年(昭和33)に独立した。映画監督デビューは「化け猫御用だ」(梅若正二出演)で50本の作品がある。プログラムピクチャーの監督らしく多作だ。

 「眠狂四郎」を市川雷蔵のあたり役にした功績は大きい。黒羽二重の着流し、無想正宗の円月殺法、転びバテレンの父を持つハーフ――柴田錬三郎(1917年―1978年)の原作を、銀幕に再現してみせた。映画化の企画と雷蔵主演を強く推し、第1作のメガホンを撮った。
「眠狂四郎殺法帖」(1963年)=シリーズ1作目
「眠狂四郎女地獄」(1968年)=シリーズ10作目

 勝新太郎の「悪名」の1作目(1961年)も田中徳三だ。白塗りの二枚目でパッとしない勝が脱皮を図ったのは1960年の「不知火検校」(森一生監督)だが、「売れる映画」を勝に初めて与えることになった。
「悪名」(1961年)
「続悪名」(1961年)
「続・新悪名」(1962年)
「第三の悪名」(1963年)
「悪名一番」(1963年)
「悪名幟」(1965年)
「悪名無敵」(1965年)
「悪名桜」(1966年)
 シリーズ16作の半数の8作を世に出している。原作は今東光(1898年―1977年)で、浅吉役の勝と、モートルの貞役の田宮二郎とのコンビは絶妙だった。「続悪名」でモートルの貞は死んだが、「続・新悪名」で貞の弟として田宮二郎(1935年―1978年)が復活した。

 田中徳三は、勝の「兵隊やくざ」は9作中6作、「座頭市」は3本、雷蔵の「忍びの者」1本、「陸軍中野学校」1本と、カツライス人気シリーズの21作品も監督している。
 「兵隊やくざ」の勝は破天荒な大宮貴三郎に、田村高廣(1928年―2006年)がインテリの有田上等兵に扮した。ふたりの息はぴったり合っていた。
「新座頭市」(1963年)
「座頭市兇状旅」(1963年)
「座頭市の歌が聞える」(1966年)
「続・兵隊やくざ」(1965年)
「新・兵隊やくざ」(1966年)
「兵隊やくざ大脱走」(1966年)
「兵隊やくざ俺にまかせろ」(1967年)
「兵隊やくざ殴りこみ」(1967年)
「兵隊やくざ強奪」(1968年)
「忍びの者霧隠才蔵」(1964年)
「陸軍中野学校竜三号指令」(1967年)

 三隅研次は勝の最大の当たり役「座頭市」第1作を撮ったことで知られる。「座頭市」6本、雷蔵の「眠狂四郎」3本のメガホンを握った。「座頭市」の原作は子母澤寛(1892年―1968年)
「座頭市物語」(1962年)
「座頭市血笑旅」(1964年)
「座頭市地獄旅」(1965年9
「座頭市血煙り街道」(1967年)
「座頭市喧嘩太鼓」(1968年)
「座頭市あばれ火祭り」(1970年)
「眠狂四郎勝負」(1964年)
「眠狂四郎炎情剣」(1965年)
「眠狂四郎無頼剣」(1966年)
 三隅研次は雷蔵主演の「剣」3部作といわれる「斬る」(1962年)、「剣」(1964年)、「剣鬼」(1965年)の監督でもある。

 池広一夫は「若親分」第1作を初めとして4本、「座頭市」3本、「眠狂四郎」4本、「忍びの者」2本を撮っている。
「座頭市千両首」(1964年)
「座頭市あばれ凧」(1964年)
「座頭市海を渡る」(1966年)
「眠狂四郎女妖剣」(1964年)
「眠狂四郎無頼控魔性の肌」(1967年)
「眠狂四郎悪女狩り」(1969年)
「眠狂四郎卍斬り」(1969年)
「忍びの者続・霧隠才蔵」(1964年)
「新書・忍びの者」(1966年)
「若親分」(1965年)
「若親分出獄」(1965年)
「若親分喧嘩状」(1966年)
「若親分千両肌」(1967年)

 大映三羽烏の他では、上記7シリーズに14作品の監督を務めた森一生(1911年―1989年)安田広義らも貢献している。三隅研次、田中徳三、池広一夫の3人が7シリーズ(総計83作品)の監督を務めた合計は36作品と全体の4割強を占める。こうしたプログラムピクチャーの監督なしには、カツライスのシリーズ映画が存在しなかったと思う。
 大映三羽烏は、気どった高級店にない気軽にお客さんに楽しんでもらうシェフだった。大衆好みのカツライスという料理に最良の味付けをした職人シェフであった。

※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。

2008年2月9日土曜日

アラカン天狗に拍手喝采

シリーズ映画Ⅱ
 多分、小学校にあがる前だろう。記憶を努めて辿っても、何時のことやらぼんやりしていて、はっきりしない。だが、その場面だけは鮮明なのだ。

――白馬に跨った鞍馬天狗が杉作の救出に向かっている。海岸線の砂浜を疾走する。悪を懲らしめるために急ぐ。馬に鞭(むち)を入れ急ぐ。モノクロスクリーンに黒衣の男と白い馬のコントラスト。期せずして沸き起こる拍手喝采。

 草野球音が初めて映画館で映画を観た記憶である。

 映画終盤のクライマックス。
 鞍馬天狗参上!
 「杉作、無事か」
 「天狗のおじさん」
 宗十郎頭巾に紋付の着流しの鞍馬天狗は杉作を救出し、悪い奴らをバッタバッタと斬りまくる。かくして勧善懲悪劇の幕は下りるのであった。

 「鞍馬天狗」役はご存知アラカンこと嵐寛寿郎(1908年―1980年)である。戦前からの剣戟映画のスターで、1925年、牧野省三(1878年―1929年)のマキノ・プロダクション入り、嵐長三郎の芸名で「鞍馬天狗異聞・角兵衛獅子」で映画デビューした。1927年に独立して、嵐寛寿郎を名乗る。
 「鞍馬天狗」は 大佛次郎原作の幕末を舞台にした大衆小説の名で、主人公・倉田典膳の通称。アラカンはあたり役として「鞍馬天狗」を生涯に40作(42本という説もあり)撮っている。もう一つの「むっつり右門」36作に主演している。

 「鞍馬天狗」は映画・テレビでもお馴染みのヒーローで、小堀明男、東千代之介(1926年―2000年)市川雷蔵(1931年―1969年)、高橋英樹、竹脇無我などが演じているが、他の人には悪いが、アラカンが一番だと思う。宗十郎頭巾が似合う面長な顔、殺陣、そして風格は抜けている。

 嵐寛寿郎は晩年、「網走番外地」で「八人殺しの鬼寅」という老やくざを演じ、渋さと貫禄で作品に重みを加えた。

 高倉健主演の「網走番外地」もシリーズ映画として欠かせない。石井輝男(1924年―2005年)とのコンビで1965年(昭和40)から1967年までの3年間で10作、他監督で8作と計18作も主演している。石井輝男メガホンの「網走―」は東映のドル箱作品となった。

 石井輝男監督の「網走番外地」シリーズ10作品
・網走番外地
・続網走番外地
・網走番外地 望郷編
・網走番外地 北海編
・網走番外地 荒野の対決
・網走番外地 南国の対決
・網走番外地 大雪原の対決
・網走番外地 決斗零下30度
・網走番外地 悪への挑戦
・網走番外地 吹雪の斗争

 石井監督は新東宝時代に、和製スーパーマンというべき子供向き映画「スーパージャイアンツ」(宇津井健主演)シリーズを6作品撮っている。また東映時代は「網走―」ほか、アダルト向け「徳川女系図」「徳川女刑罰史」などのエログロ作品も量産した。観客動員力のある、幅の広い作風の稀有な監督といえる。

 石井輝男の墓は、網走にあり、墓碑には「安らかに石井輝男」と高倉健による碑文が刻まれているそうだ。高倉健がドスの聞いた声で歌う主題歌「網走番外地」(タカオ・カンベ作詞・作曲者不詳)のように、墓から「紅い真っ赤なハマナス」がオホーツクを見て咲いているのだろうか。

 シリーズ映画の大御所はフーテンの寅さん、「男はつらいよ」である。渥美清(1928年―1996年)が1969年(昭和44)から1995年(平成7)にかけて48作品に主演している。全作品の原作・脚本を担当した山田洋次が46作品の監督を務めている。  
 「男はつらいよ」(山田洋次・森崎東脚本)はもともとテレビドラマだった。1968年フジテレビで半年間(26回)放送され、人気となった。実際観ていたが、馬鹿に面白かった。最終回で寅さんがハブに噛まれ死んでしまうことになったが、残念に思い続編を望む声が多いため、山田洋次がファンの気持ちに報いようと松竹を説得し映画化に漕ぎつけた。これが予想外の大ヒット映画となり、続編に次ぐ続編で48作も撮る国民的映画となった。

 寅さんが毎回登場するマドンナ(有名女優)に惚れてしまう。マドンナも好意は抱くが、それは愛情ではない。恋人が現れるかして、寅さんの失恋に終わる、という毎回お決まりのストリーだが、毎回笑ってしまう。観ながらリラックスできる。渥美の演技力の成せる技だが、ここまで来ると名人・達者が演じる古典落語の域だったなぁ。リリーの浅丘ルリ子、寅の母親のミヤコ蝶々(1920年―2000年)、旅の一座の座長の吉田義夫(1911年―1986年)など印象に残るキャスティングだった。
 主題歌「男はつらいよ」は星野哲郎作詞・山本直純作曲で渥美清が歌った。

※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。

2008年2月3日日曜日

アキラの無国籍・渡り鳥

シリーズ映画Ⅰ

 ギターを抱え馬に乗った渡り鳥が、ふらりと立ち寄った見知らぬ街で可憐なあの娘の難儀に出会う。ひと肌脱いで、問題を解決する―アクション。ふたりの間に芽生える恋心―ラブロマンス。だが、一緒になれない運命がある。やがて別れはやってくる。
 惚れてくれるな やくざな俺に
 赤い夕陽に 照らされて
 どこをねぐらの 渡り鳥
――小林旭*の映画「渡り鳥シリーズ」はざっと、概ねこんな内容だった。
 男はご存知、滝伸次の小林旭で、美しい娘は浅丘ルリ子に決まっている。そして対峙する凄腕ガンマンは宍戸錠(錠さん以外の配役もある)なのだ。


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 男のスタイルは西部劇である。日本のどこに馬に跨(またが)りガンベルトに拳銃を下げ、さらにギターまで抱えた男がいるだろうか。この時代、テレビでは米国のテレビ西部劇が盛んに放送されていた。「ガンスモーク」「拳銃無宿」「ララミー牧場」「ローハイド」などで、西部劇人気に便乗した感もある。
 早撃ちのガンプレー、ダイスさばき、歌う場面も「渡り鳥―」ではお約束で挿入されていた。
 和製西部劇。荒唐無稽。無国籍映画。1960年(昭和35)前後の当時、映画評などで軽視されていたようだが、草野球音は好みであり、面白くて映画館に通ったものだ。

 「渡り鳥シリーズ」の発端は、ペギー葉山のヒット曲「南国土佐を後にして」(武政英策作詞・作曲)で、この曲を背景した映画が制作された。監督は斎藤武市だった。映画「南国土佐を後にして」(1959年・日活)もヒットし、その続編的な映画が企画された。第1作は「ギターを持った渡り鳥」である。映画は大当たりし、次ぎから次ぎと作られていった。

・映画「渡り鳥シリーズ」=日活・いずれも監督は斎藤武市
「ギターを持った渡り鳥」(1959年)
「口笛が流れる港町」(1960年)
「渡り鳥いつまた帰る」(1960年)
「赤い夕陽の渡り鳥」(1960年)
「大草原の渡り鳥」(1960年)
「波濤を越える渡り鳥」(1961年)
「大海原を行く渡り鳥」(1961年)
「北帰行より渡り鳥北へ帰る」(1962年)
 全8作で、小林旭の役はいずれも滝伸次。浅丘ルリ子が相手役で、1961年の「波濤―」まで宍戸錠が出演している。発端となった「南国土佐を後にして」(斎藤武市監督)と1962年の「渡り鳥故郷へ帰る」(牛原陽一監督)を入れて、全10作とも全9作ともいう説もあるが、「南国土佐―」と「故郷へ帰る」の主人公が滝伸次でなく別名になっているので、「渡り鳥シリーズ」には括(くく)らない。

 忙しい最中、小林旭はもう一つ人気シリーズを抱えていた。「銀座旋風児シリーズ」である。銀座で装飾デザインの事務所を構える二階堂卓也が事件を解決するストーリー。二階堂役は小林旭で、美人助手に浅丘ルリ子(作品により松原千恵子)、情報屋には作品により宍戸錠、小沢昭一、近藤宏、藤村有弘、高品格が演じた。

・映画「銀座旋風児シリーズ」=日活・いずれも監督は野口博志
「銀座旋風児(ギンザマイトガイ)」(1959年)
「銀座旋風児・黒幕は誰だ」(1959年)
「銀座旋風児・目撃者は彼奴だ」(1960年)
「銀座旋風児・嵐が俺を呼んでいる」(1960年)
「帰ってきた旋風児・銀座無頼帖」(1962年)
「風が呼んでる旋風児・銀座無頼帖」(1963年)
全6作。 野口博志は赤木圭一郎の「拳銃無頼」シリーズの監督でもある。

 草野球音は上記のシリーズ14作品すべてを観ているわけではない。映画館に足を運んだのは過半数だろう。そのどれも面白かった。日活映画が大好きだった。

 小林旭二大シリーズの絶頂期は1960年(昭和35)で、「渡り鳥―」4本・「銀座旋風児」2本と大車輪の活躍だった。思えば、昭和35年は小林旭12本、石原裕次郎(1934年―1987年)10本、赤木圭一郎(1939年―1961年)11本、和田浩二(1944年―1986年)9本に映画出演している。日活ダイヤモンドラインが最も輝いた年であった。
 ダイヤモンドラインのうち小林旭を除く3人が鬼籍の人となっている。3人ともに若死にであることが寂しい。

小林旭(こばやし・あきら):1938年(昭和13)東京生まれ。第3期日活ニューフェイス。1962年美空ひばりと結婚、2年後に離婚。1967年青山京子と再婚。歌う映画スターとして「ダイナマイトが百五十屯」「さすらい」「北帰行」「自動車ショー歌」「昔の名前で出ています」「熱き心に」など多くのヒット曲を持つ。