2008年3月29日土曜日

R・ウィドマークの死

 米国の映画俳優で名悪役で鳴らしたリチャード・ウィドマーク(Richard Widmark)が、2008年3月24日亡くなった。93歳だった。

 1914年生まれ。舞台俳優を経て、映画デビュー作「死の接吻(せっぷん)」(1947年)で不気味な笑みを浮かべる殺し屋を熱演し、いきなりアカデミー助演男優賞にノミネートされた。「アラモ」「シャイアン」「オリエント急行殺人事件」など60本以上に出演した。

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 ブルドッグ――その不敵な面構えがとても印象的だった。特異な容貌を生かしたギャングの悪役が持ち味で、日本にもファンは多かった。観客の心に残る名悪役だった。後年は善玉も演じ、幅広い芸域をみせたが、悪玉に魅力を感じた。

 手塚治虫(1928年―1989年)が、漫画「鉄腕アトム」に登場させた悪役「スカンク草井」のモデルにしたといわれる。
 佐藤允(さとう・まこと)は東宝映画時代に、いかつい顔が似ていることから、「和製ウィドマーク」といわれた。

 その昔(多分、草野球音の記憶では昭和30年代だが)、芸能雑誌の「平凡」や「明星」に、「有名人同士のそっくりさん特集」などが、掲載されていた。
 高倉健と神戸一郎
 長嶋茂雄と張本勲
など、カップル(?)の顔写真が並べられていて、その中に、「リチャード・ウィドマークと佐藤允」があったりしたのだった。

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 以下、蛇足ながら‥‥。 神戸一郎(かんべ・いちろう)、なんて懐かしい名前だなぁ。甘いマスクに美声で、芸名が示すとおり神戸の出身。1957年(昭和32)「十代の恋をさようなら」(石本美由起作詞・上原げんと作曲)でデビュー、瞬く間にスターとなった。
 ♪好きでならない 人なれど
 別れてひとり 湖に
 「銀座九丁目は水の上」(藤浦洸作詞・上原げんと作曲)、「別れたっていいじゃないか」(西條八十作詞・上原げんと作曲)などがヒットした。

※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。

2008年3月27日木曜日

松井秀喜結婚とON婚約

 ニュヨーク・ヤンキース松井秀喜選手(33)の結婚を、2008年3月27日付のサンケイスポーツが報じた。

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 都内最終版(即売)でのスクープで、早朝からテレビは喧(かまびす)しい。特にフジサンケイグループのフジテレビは、「身内」の特ダネに、トーンも上がっていたようだった。
 一番の興味は、相手の女性であるが、サンスポによれば「元会社員25歳」、「長澤まさみ似」とある。出会いは2006年オフだそうだ。
 恐らくスポーツ紙、テレビなどで詳しくは、報じられるはずである。8歳年下の彼女に関する取材合戦を、とくと拝見したい。

 ニューヨークの松井番の記者は、大騒ぎであろう。抜いたサンスポは鼻高々だが、日刊、報知、スポニチなどの番記者は自責の念にかられて、「A級戦犯」のような気持ちだろう。
 松井番にとって最大のニュースであり、関心事であったはずである。オーバーな言い方でなく、記者生命をかけて取材活動をしていたと推測される。松井の両親、親戚縁者、後援者、友人知人などに、婚約ニュースの「網」はそれぞれに仕掛けられていたはずである。逃がした魚は、ことさら大きく、そして悔しいのだ。

 かって長嶋茂雄番を巨人入団当初から務めていた大先輩が、長嶋茂雄婚約のニュースを抜かれたときは、「このままおめおめと会社にいられない」と辞表を真剣に考えたという話を聴いたことがある。

五輪と多摩川の恋

 人気プロ野球選手の婚約・結婚ニュースは番記者の悲喜交々(こもごも)を生むものである。あの大スターの長嶋茂雄と王貞治の場合はどうだったろうか。

 長嶋さんと王さんの違いは?
という草野球音の獏とした質問に、V9をつぶさに取材した先輩が応えてくれた。
 「結婚を見れば分かるよ。長嶋さんは報知がスクープしたのだが、王さんは1社にバレそうになったとき、急遽記者会見を開いて一斉に婚約発表したんだ」。

 1964年(昭和39)の東京オリンピック当時、五輪コンパニオンだった西村亜希子と長嶋茂雄は取材で出逢った。五輪コンパニオンには、外国の来賓を接待する語学堪能で教養豊かなレディが、その任に当たった。昭和30年代に大任を果たし得る人材は少なかったと、想像できる。長嶋は、目の前に現れた、その女性に一目ぼれ、出逢いから40日で婚約と電光石火の早業で決めたのだった。その婚約報を報知がすっぱ抜いた。1964年11月26日、報知新聞の1面見出しは「長嶋選手婚約 五輪が結んだ恋」だった。
 巨人は読売ジャイアンツである。巨人とともに読売グループの一部である報知新聞社は、こと巨人取材にかけては正確で迅速なニュースを提供するミッションがある。出逢った取材も報知の企画であれば、抜く条件は十分だった。

 だが、しかし‥‥。
 他の長嶋番記者は影で泣いたのである。悲しくて苦い酒を胃に流し込んだ。

 王貞治には王番がいる。王との飲み会などで、長嶋婚約時の担当記者の悲喜を聞かされていた王は、泣きを見る記者がいないように一斉発表した。
 長嶋の婚約から2年後の1966年(昭和41)に、王貞治は結婚した。相手は小八重恭子。王が入団した1年目に多摩川グラウンドで、高校1年生の小八重恭子に出逢っている。6年間の交際が実っての婚約だった。「多摩川の恋」と言われた。
 1966年10月5日、婚約発表の前日である。婚約ニュースを1社が嗅ぎ付け、記事にするという動きを知った王は、親しい記者に気を遣い、一斉の共同記者会見をすることを決め、マスメディアを招集した。ホテルニューオータニで、会見はこの種の記者発表としては異例に遅い午後9時過ぎから始まった。翌10月6日付のスポーツ紙の1面は揃って「王婚約」であった。公平平等を貫いた王だった。

 長嶋茂雄の結婚は、報知のスクープから2ヶ月後の1965年(昭和40)1月26日だった。その1年後の1966年1月26日に長男・一茂が誕生している。王貞治の結婚は、1966年12月1日であった。
 王恭子夫人は2001年12月11日に、長嶋亜希子夫人は2007年9月18日に鬼籍に入った。恭子57歳、亜希子64歳。日本人女性の平均寿命は、平成18年(2006)厚生労働省・簡易生命表によると、85.81歳(男性は79.00歳)となっている。若すぎる。スターを支える内助の功は計り知れないほど過酷だと想像する。
 
 松井秀喜の結婚ニュースからON婚約結婚に思いを馳せた。

※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。

2008年3月23日日曜日

竜巻雷之進:林成年死す

 天下の二枚目、長谷川一夫の長男で俳優の林成年(はやし・なりとし、本名長谷川寿=はせがわ・ひさし)が2月6日、心不全で死去したことが2008年3月20日に分かり、翌21日付の新聞の訃報欄に掲載された。76歳だった。葬儀は近親者で終えた。
 慶応大学卒業後に大映から映画デビューし、「新・平家物語」、「大阪物語」、「赤胴鈴之助」シリーズ、伊丹十三監督の「たんぽぽ」などに出演。後年は舞台に活動を移し、東宝歌舞伎などに出演した。

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 「チョコザイな小僧め、名を名乗れ」
 「赤胴鈴之助だぁ」
で始まるのは、ラジオ番組「赤胴鈴之助」であった。
 武内つなよし(1926年―1987年)原作で、昭和30年代に一世を風靡した少年雑誌「少年画報」の連載漫画である。以前に「僕らのナマカ赤胴鈴之助」(2007年10月30日)で書いたので、参照されると幸いである。

 その赤胴鈴之助の映画版は梅若正二の主演で、大映で製作された。鈴之助の千葉周作道場の兄弟子、竜巻雷之進役が林成年であった。
 竜巻雷之進は、鈴之助の入門当初、彼を快く思わず敵対するが、後にふたりの間に友情を芽生えるのだった。千葉周作役は渋い黒川弥太郎(1910年―1984年)だった。1957年(昭和32)から1958年の7本製作された。草野球音は漫画に夢中になった世代である。林成年といえば、その竜巻雷之進役が印象に残る。

 1957年の「大阪物語」(大映・吉村公三郎監督)は演技で光った作品と、当時子供ながらに認識している。井原西鶴の「日本永代蔵」などを題材した内容で、中村雁治郎(1902年―1983年)の放蕩息子役だった。

 ちなみに長谷川一夫を親とし、長谷川稀世長谷川季子は妹である。

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 偉大な先代を親にもつ二世の宿命だろうか。

 訃報までも長谷川一夫(1908年―1984年)の息子として扱われる林成年も、さぞや辛かろうと、思った。その人を伝えるキャッチフレーズというか、枕詞(まくらことば)が、彼の場合、「長谷川一夫の息子」が付いて回り、死んでからも案の定だった。

 訃報が新聞に掲載されたのが、2008年3月21日だから、死後1ヶ月余も経過していた。近親者に見守られて静かに逝ったということが、想像される。
 先代・長谷川一夫の死はマスメディアが大きく扱い、死後、冒険家の植村直己(1941年―1984年)とともに国民栄誉賞を受賞している。1984年(昭和62)中曽根康弘内閣のときだった。

※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。

2008年3月14日金曜日

バンプ女優:根岸明美

「闇の埋葬人」

 江戸八百八町は静かな眠りについていた。草木も眠る丑三つ時。深夜のしじまを破ように、古寺の鐘の音が「ゴーン」と響いた。

 黒羽二重の着流し、宗十郎頭巾の浪人ていの男が、墓場を掘り返していた。この男こそ、「闇の埋葬人」と江戸でささやかれる草野球音である。

 著名人の墓を掘り起しては、自らの墓碑銘を書き連ねた後、丁重に葬ることを生き甲斐とする。行為そのものは、けして褒められたものではなく罪深いことだが、お節介の行き過ぎ程度で、悪行と決めつけられぬ側面もある。江戸の庶民が忌み嫌うのは、墓場を掘り返すという神を恐れぬ所業、その不気味さである。 また、彼の墓碑銘に新たな感慨を抱き、周囲を憚(はばか)りながら、喝采を送る者もいるのだった。

 「また出ましたよ、親分。近頃、流行ってる墓場あらしの噂を聞きましたか。ありゃ、うすっ気味悪くていけねや。それに、あの野郎、“闇の埋葬人”なんて言われていい気になってやがる。ひとつ、どこのどいつだか、正体を暴(あば)いてやっておくなんさないよ」
 神田三河町の岡っ引、半七は好きな朝湯から帰ってきて、朝餉の前の一服を点けたところで、子分の多吉が飛び込んできた。昨夜は上野の寛永寺に墓場あらしで出たという。その前は芝の増上寺だった。

 「押し込みや殺しと比べりゃ、仏ごころもある。墓場を掘り起すが、ちゃんと丁寧に埋葬する。その後で、墓を掃除して、花まで供えるって言うじゃねえか。おれにはそんなに悪い奴にはみえねえがなぁ」と半七は、「闇の埋葬人」探索には気乗りがしない。
 「でもねえ、江戸の街じゃ噂が噂を呼んでいますぜ。きっと、奴には魂胆がある。きっと悪いことは企んでやがるに違ねえ。仏が眠る墓をあらす野郎は人非人決まってらぁ。近頃じゃ、大衆かわら版にも「闇の埋葬人の謎」なんて、赤子の頭ほどもある、でっけえ見出しが躍ってますぜえ」
 「まぁ、世間様が騒げば、御用を与(あずか)るおれとしちゃ、どんな野郎がやってんだか、確かめておかなくちゃなるめえよ」
 「さすが半七親分。よ、江戸の大明神」
 「莫迦野郎、おだてんな」

 と、いうわけで、墓場あらしが出没しては何かと物騒、と神田三河町の岡っ引、半七は夜回りに出たのだった。浅草伝法院にさしかかったところで、月明かりにぼんやりと黒衣の覆面侍が墓場に佇んでいるのを見つけた。深夜の墓場に黒装束――いかにも胡乱(うろん)である。訝(いぶか)しげに声をかけた。
 「お侍(さむれえ)さん、なにをなさっていますかい」
 「なに、その、墓を掘ってな‥‥」
 「墓を掘って、なにをするんでえ」
 「犬のポチがなくものでな、墓を掘れば宝が‥‥」
 「なにを! 墓を掘って宝だと。ありゃ、墓じゃねえ、畑でえ。花咲爺さんじゃねえやい。ふざけるねえ。この三一(さんぴん)」
 草野球音の言い訳、とっさに出たとはいえ、いかにも拙い。

 ♪裏の畑で ポチがなく
 正直爺さん 掘ったれば
 大判 小判が ザクザクザクザク
 小学唱歌「花咲爺さん」(石原和三郎作詞・田村虎蔵作曲)を持ち出しては、怪しいのがバレバレである。

 半七は呼子を吹いた。「ピー」という笛の音が江戸の闇を走る。こうなれば、岡引、役人、捕りかたが集まってくる。
 関わりはご免と、逃亡体勢に入った球音は、「ここ掘れワンワンは、それがしが悪かった。ワリーネ。ワリーネ。ワリーネ・デイトリッヒ。また、どこぞで遭う事もあろう」と言い残すと、すさまじい早さで闇に消えたのだった。

 その後、闇の埋葬人の消息は杳(よう)として知れなかった。

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 枕(まくら)がいやに長くなったが、本題は短いので安心してほしい(笑)。
 女優の根岸明美(ねぎし・あけみ、1934年―2008年)が亡くなった。73歳だった。2008年3月11日のことだった。
 一般紙、スポーツ紙を拾い読みすると、日劇ダンシングチームに在籍中にジョーゼフ・フォン・スタンバーグ監督の日米合作映画「アナタハン」のオーディションで主役に抜擢され映画デビューしたというが、残念ながら、「アナタハン」の記憶は球音にはない。1953年(昭和28)のことだ。
 なによりも記憶に残すべきは、彼女の肉体の見事さだろう。20代のころ、身長167センチ、B103・W60・H98という、昭和30年代では日本人離れした、とんでもないナイスバディだった。陰影のある目鼻立ちもあり、日本の映画スクリーンでは収まり切れなかったように思うのだ。
 黒澤明(1910年ー1998年)はその肉体の持つ存在感に目をつけ、映画「どん底」「赤ひげ」「どですかでん」に起用している。
 バンプ女優の草分け的な存在だろう。

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2008年3月4日火曜日

球侍の炎:林 義一

伝説の被弾

 その訃報は、2008年3月4日付の日刊スポーツ(7版★)6面の最下段に載っていた。半段の顔写真と「パ初のノーヒッター」の1段見出しが付いていた。 国鉄で監督を務めたことのある林義一(はやし・ぎいち)の死亡を知らせる記事である。亡くなったのは1月17日で87歳だった。

 1月17日に死去したのに、なぜ3月になって記事が掲載されたのだろうか。身内だけで葬儀・告別式を済ませたため、死去の公表が遅れたと推測する。

 林義一は伝説を作った男である。「作った」というのは正確ではない。「作ることに貢献した」男なのだ。
 徳島商業―明治大学―ノンプロ全徳島を経て、1949年(昭和24)に大映スターズに入団した。阪急ブレーブスでも投げた。

 1953年(昭和28)8月29日。福岡・平和台球場での西鉄対大映戦。大映の林義一は西鉄の中西太にとてつもないデッカイ本塁打を浴びた。その打球はライナーでグングン伸びてバックスクリーンを越え、場外の福岡城址まで飛んで行った。推定160M以上といわれる、日本プロ野球史上最長飛距離の本塁打である。
 そのとき、林は打球を捕ろうとジャンプした。それほど弾道は低かったが、差し出すグラブの上をものすごい勢いで通過、場外へ消えたという逸話が残っている。真偽はわからない。

 1953年といえば中西は、高松第一高校から西鉄に入団して2年目で、36本塁打、86打点で2冠王に輝き、打率.314を記録、その上、盗塁36と俊足ぶりをみせている。一方、林だが、その年17勝11敗の好成績を残している。主砲と主戦投手の対決で、伝説は生まれたのだった。

 林は前年の4月27日の阪急戦でパ・リーグ初のノーヒットノーランを達成している。

 ノンプロ全徳島では、徳島商の2年後輩で巨人の名遊撃手の平井三郎(1923年―1969年)、池田高校で全盛制覇した名将、蔦文也(1923年―2001年)らとプレーしている。また阪神のコーチ時代に江夏豊にプロとしての手ほどき・指導したことで知られる。
 
 右の横手投げ技巧派で、現役通算成績は実働10年で98勝98敗、防御率2.66の記録が残っている。近鉄代理監督、国鉄監督の経験がある。国鉄の監督時代は、天皇と異名をとったエース金田正一との確執が取り沙汰された、と草野球音は少年の頃、野球雑誌で読んだことがある。投手コーチとしての評価は高い。

 日本一飛距離のあるホームランを打たれた男が逝った。

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2008年3月2日日曜日

柴錬「眠狂四郎」恐るべし

 柴田錬三郎(1917年―1978年)の「眠狂四郎無頼控」〔一〕(新潮文庫)を読む。

 「眠狂四郎」は、時代小説の古典的な作品であるが、恥かしながら初めて読んだ。とにかく面白かった。1956年(昭和31)「週刊新潮」の創刊ともに登場し、人気を博し、柴田錬三郎の代表作となった。

 市川雷蔵(1931年―1969年)の映画を観ていたので、狂四郎に漂う虚無感と、随所で見られるエロティシズムが本でも感じられるだろうと、察していた。その通りだった。まず柴錬の本があり、それを映画化した順序を考えれば、当然だろう。まず本ありき、で映画は始まった。

 大映の監督、田中徳三(1920年―2007年)が雷蔵主演で企画を出して、「眠狂四郎殺法帖」が撮られ、シリーズ化したという。1960年代の邦画黄金期を彩った作品のひとつである。

 どちらかといえば日本人然とした市川雷蔵に、ハーフの眠狂四郎は適役ではないと声をいまだに耳にするが、雷蔵の演技力と類まれなメイクの技術で、はまり役の域まで引き上げたと、草野球音はみる。

 映画でなく、原作本が本題である。

 魅力的なのは眠狂四郎のキャラクターである。
 オランダ医師で、転び伴天連(バテレンの父が大目付の娘を犯した結果、生まれた私生児。女性を惹きつける混血児特有の彫りの深い相貌。男の艶。剣を学んだ老師から、兵法極意秘伝書の代わりに、与えられた無想正宗の名刀。その二尺三寸の剣をして円を描くように回し、相手を空白の眠りに陥らせる円月殺法。黒羽二重の着流し――颯爽たる狂四郎が目に浮かぶ。
 生い立ちから形成された虚無的な性格。転び伴天連の父を斬る宿命と、ストーリーも活劇調で小気味良い。
 
 時代小説のブーム期にある。佐伯泰英らの「居眠り磐音」「密命」シリーズなど文庫書き下ろしが売れている。柴田錬三郎が今、「眠狂四郎」を登場させたなら、必ずやベストセラーになるだろう、と思う。
 わずか一冊読んで、したり顔で語りすぎか。

 以下、蛇足ながら‥‥。
 以前、取り上げた岡本綺堂(1872年―1939年)の「半七捕物帳」(光文社文庫)は(四)巻まで読み進んだ。なかなかスピードが上がらない。 (五)巻に突入したが、最後の(六)巻まで読み終わるまで、どのくらいかかるやら。
 藤原緋沙子の「見届け人秋月伊織事件帖シリーズ遠花火」(講談社文庫)が面白かった。

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2008年3月1日土曜日

球侍の炎:江藤愼一

波瀾流転の男

 プロ野球の中日、ロッテなどで強打者として鳴らし、セ・パ両リーグで首位打者に輝いた江藤愼一(えとう・しんいち=旧名は慎一)の訃報が流れたのは、2008年2月28日だった。70歳だった。
 
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 訃報に接すると、考えることがある。故人の人生はどんなものだったろうか、と。この人の場合は「波瀾」「流転」という言葉がまず浮かんだ。人の生き様を勝手に形容するのは、甚だご本人に失礼な話かもしれないが、ご勘弁願いたい。

 熊本商業を卒業後、ノンプロの日鉄二瀬を経てプロ野球の中日入団―ロッテ―大洋―太平洋―ロッテと渡り歩いた。
 
 1959年(昭和34)中日新人の年に130試合フル出場を果たした。同期入団には王貞治(巨人)、張本勲(東映)がいる。特筆すべきは、1964年と翌1965年の2年連続首位打者である。全盛時代の王の三冠王を阻んだ。闘争心を表面に出すプレースタイルで「闘将」と異名をとった。

 だが、しかし‥‥。
 波瀾万丈・流転の野球人生の発端は1969年だった。

 本業の傍ら自動車部品関連の会社を経営していた江藤だが、破綻をきたした。すでに中日のチームリーダーであり、影響力のある存在にのし上がっていたが、債権者が球場に現れる至り、野球に全身全霊を注ぐ環境ではなくなった。その年から、采配を執った監督の水原茂(1909年―1982年)は、公私の区別をつけられぬ主砲を構想外・戦力外とした。
 江藤は水原に土下座して非を詫びたが、受け入れられず、その年のオフに任意引退となった。
 勝負師・水原との確執から、11年在籍した名古屋の街を追われた。
 
 結局、移籍がまとまったのは1970年(昭和45)6月だった。開幕から2ヶ月が過ぎていた。救いの手は、ロッテの監督である濃人渉(1915年―1990年)が差し伸べた。ノンプロ日鉄二瀬、中日での恩師である。1970年は72試合の出場ながら、ロッテのパ・リーグ制覇に貢献している。
 そして、1971年には打率.337で、両リーグ初の首位打者のタイトルを獲得した。3度目の首位打者を決めた日は10月6日、誕生日であった。
 サプライズは突然にやって来る。歓喜の直後にそれは来た。翌日の10月7日に、大洋との間で野村収投手との1対1の交換トレードが成立し、通達を受けたのだった。その年のシーズン途中で、ロッテの監督は濃人渉から大沢啓二に代わっていた。「守り」を固めるチーム構築を目指す大沢監督は、江藤を戦力外とし、投手力強化を狙っていた。

 ロッテ在籍は2年間だった。大洋3年、太平洋では兼任監督として1年(リーグ3位)、最後は金田正一監督に拾われて再びロッテ1年のプロ野球生活を送った。
 
 引退後は「日本野球体育学校」を設立したりしたが、プロ野球の表舞台からは一歩退いていた。

 セ・パ両リーグで首位打者3回、ベストナイン6回、全12球団から本塁打、2084試合出場、2057安打、367本塁打、通算打率・287を延べ5球団実働18年の生涯記録とする。

 斗酒(としゅ)猶(なお)辞せずの酒豪だった。日刊スポーツの「悼む」には、敬愛する先輩の署名記事で、奥さんの実家のある広島の酒「賀茂鶴」を愛飲したと書いてあった。

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