2007年11月29日木曜日

藤田まさと:魅惑の世界

 古い奴だとお思いでしょうが、古い奴ほど新しいものを欲しがるもんでございます。どこに新しいものがございましょう――着流しの鶴田浩二(1924年―1987年)が登場する。マイクに純白のハンカチを沿え、左耳に手を当て唄う「傷だらけの人生」の冒頭の台詞。1970年(昭和45)のヒット曲で、作曲は吉田正、作詞は藤田まさとである。
 
 「古い奴」草野球音は、藤田まさとの作詞が子供のころから心に残っている。股旅歌謡は特に心惹かれる。前世は渡世人か博徒で、任侠の世界に生きたのではないか、とすら思うことがある。根はやくざな性格でまっとうな人間ではないのだ。

 藤田まさとの作詞の魅力は巧みなリフレーンではないか。
明治一代女(昭和10年)=大村能章作曲から
  ♪浮いた浮いたの 浜町河岸に
  浮かれ柳の はずかしさ

流転(昭和12年)=安部武雄作曲から
  ♪浮世かるたの 
  浮世かるたの
  浮き沈み

妻恋道中(昭和12年)=安部武雄作曲から
  ♪好いた女房に 三行半(みくだりはん)を
  投げて長どす 永の旅

麦と兵隊(昭和13年)=大村能章作曲から
  ♪徐州徐州と 人馬は進む
  徐州居よいか 住みよいか

大利根月夜(昭和14年)=長津義司作曲から
  ♪利根の流れの ながれ月
  昔笑うて ながめた月も 

岸壁の母(昭和29年)=平川浪竜作曲から
  ♪母は来ました 今日も来た
  この岸壁に 今日も来た

 七五調の言葉の配置とリフレーンそして韻が、日本人の心の琴線に触れる。魅惑の「詞の世界」へ引き込む。人生を唄う。
 上記のほかにも巷に溢れ、人の心に残る詞は、股旅歌謡の「旅笠道中」(昭和10年=大村能章作曲)、藤田の死後にヒットした「浪花節だよ人生は」(昭和51年=四方章人作曲)と数多(あまた)ある。人を魅せる詞を創造する天賦の才の持ち主である。

藤田まさとの略歴:1908年(明治41)―1982年(昭和57)。静岡県榛原郡川崎町(現牧之原市)生まれ。小学校3年終了後に単身で満州に渡る。大連商業時代に全国中等学校野球大会に出場した経験がある。明治大学中退。享年74歳。

追伸:
 なんだかんだと蜘蛛巣丸太で御託を並べて参りましたが、かくいう球音も日陰育ちのひねくれ者、お天道様に背中を向けて歩く‥‥馬鹿な男でございますが、伏してご愛読をお願い申し上げます。

2007年11月27日火曜日

点と線&上海帰りのリル

 松本清張原作のテレビドラマ化「点と線」を観る。ビートたけし主演で、2007年11月24日(土)と25日(日)に連続で放送された。多彩な配役、テレビドラマとしてはお金をかけたであろうセットなど見所もあり、面白かった。
 
 1958年(昭和33)東映で製作された映画「点と線」(小林恒夫監督)を観たことがある。松本清張の原作は1957年から1958年にかけて雑誌「旅」に連載され、1958年に光文社から刊行された。本が世に出て直後に売れ映画化されたもので、当時の推理小説人気、清張ブームを反映させている。
 
 映画とテレビの配役
・加藤   嘉 (鳥飼刑事) ビートたけし
・南    廣 (三原刑事) 高橋 克典
・山形   勲 (安田辰郎) 柳葉 敏郎
・高峰三枝子 (安田亮子) 夏川 結衣
と、映画の主演は高峰三枝子で、テレビドラマはビートたけし、というビッグネームのキャストにもその意図がうかがえる。ちなみに南廣は、元ジャズドラマーで「警視庁物語」などに出演した二枚目俳優である。

 鳥飼刑事役のたけしが太平洋戦争の体験を自ら語り、焼夷弾の破片を右肩に残し消せぬ過去を背負った象徴的なシーンとして、「上海帰りのリル」を歌っていた。テレビ独自の脚色である。
 ♪海を見つめていた
 ハマのキャバレーにいた

 「上海帰りのリル」は1951年(昭和26)の津村謙(1923年―1961年)のヒット曲である。作詞は東条寿三郎、作曲は渡久地政信。津村は端正な顔立ちに、滑らかで心地よい歌声は「天鵞絨(ビロード)」と形容され人気があったという。
 この曲は子供もころからよく聴いていたが、疑問があった。
 2番の歌詞に、
 ♪夢の四馬路の 霧降る中で
 何も言わずに 別れた瞳
とあるが、「四馬路」(スマロ)とは何ぞや? 
 
 また、戦前からのスター歌手、ディック・ミネ(1908年―1991年)のヒット曲に「夜霧のブルース」*がある。
 1947年(昭和22)島田磬也作詞・大久保徳二郎作曲の作品にも、1番の歌詞に、
 ♪夢の四馬路か
 ホンキュの街か
と「四馬路」が登場する。

 「四馬路」とは上海の道路で、現在の「福州路」のことだそうだ。中国では「馬路」とは馬車が通れる大きな通りをいい、上海で最も大きな道路は「南京路」で、昔は「大馬路」といったそうな。南京路から南に四番目の通りということで「四馬路」と呼ばれた。
 
 では、ついでに「ホンキュの街」の「ホンキュ」って何だろう?
 ホンキュは「虹口」(ホンコウ)のことで、その昔、日本人は「ホンキュ」といっていたそうだ。虹口は日本人居留地(日本租界)である。
 
 歴史を紐解けば、アヘン戦争後の1842年南京条約により開港され、イギリス、フランスなど列強の租界が出来た。以来、上海は世界へ向け窓口を開いた街となった。
 1985年(昭和60)に上海に滞在したことがある。当時の中国は貧しく、現在の経済発展の象徴のような摩天楼が乱立する姿はなかったが、古いが堂々たる威容を誇るビルが見られ国際都市の往時を忍ぶ佇まいであった。
 そのとき「四馬路」も「ホンキュ」も忘れて遊び呆けていた。ただただ恥じ入るばかりである。

夜霧のブルース:松竹映画「地獄の顔」の主題歌。主演は水島道太郎で、ディック・ミネも共演している。

2007年11月26日月曜日

花の三度笠:思い出語り

 そのとき「事件」は起こった。
 
 50年余り昔。小学1年生のときの出来事である。小学校に入学して間もない期間、父兄が登下校時に連れ添うことになっていた。下校の寸前、起立して担任女性教師の注意を聞いていた。母親連中は教室の後方に陣取っていた。

 そのとき。。。

 ♪男三度笠 横ちょにかぶり
と唄いだした同級生がいて、草野球音は一緒に釣られて唄ったのだった。直後、先生が「そういう歌は唄ってはいけません」とぴしゃりと静止された。
 球音は俯(うつむ)き、母は赤面して周囲を憚(はばか)った。

 「花の三度笠」(1952年=昭和27)という歌は小畑実(1923年―1979年)が唄っていた。佐伯孝夫作詞・吉田正作曲の股旅歌謡である。
 小畑実のヒット曲には、
・湯島の白梅(昭和17年)佐伯孝夫作詞・清水保雄作曲
  ♪湯島通れば 思い出す お蔦主税の 心意気
・勘太郎月夜唄(昭和18年)佐伯孝夫作詞・清水保雄作曲
  ♪影か柳か 勘太郎さんか 伊那は七谷 糸ひく煙り
・薔薇を召しませ(昭和24年)石本美由紀作詞・上原げんと作曲
・高原の駅を、さようなら(昭和26年)佐伯孝夫作詞・佐々木俊一作曲
  ♪しばし別れの夜汽車の窓よ
などがある。

 小学1年生といえば7歳である。当時、普通の家庭の子供なら唄う歌は小学唱歌であった。ところが、家では聴く歌、周囲から聞える歌は違っていたのだった。
 ♪あなたにもらった 帯止めの
 だるまの模様が チョイト気に掛かる
 「トンコ節」(1951年=昭和26)で久保幸江が唄うお座敷ソングながら、西條八十作詞・古賀政男作曲という由緒正しい大御所コンビが世に出した。
 また西條・古賀コンビで創った神楽坂はん子の「芸者ワルツ」(昭和27年)も、
 ♪あなたのリードで 島田も揺れる
などと、大きな声で唄っていたのだ。

 商店街に真ん中に暮らし、映画館が徒歩5分ほどのところに3館、パチンコ店が軒を並べる生活環境であった。
 小学校という公の場と近所や家では違う世界があり、本音と建前があることを、そのとき初めて知ったのだった。

2007年11月21日水曜日

アカシアの雨がやむとき

昭和35年編

 衝撃は突然やって来る。

 60年代の最初の年、1960年・昭和35年は何度かの「衝撃」を経ながらエキサイティングに過ぎて行った。60年代に入り敗戦の荒廃と貧困から立ち直った日本経済は、高度成長の軌道を全速力で突っ走った。

 赤木圭一郎のヒット曲「霧笛が俺を呼んでいる」を生んだ水木かおる作詞・藤原秀行作曲のコンビは、同年の1960年に西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」を世に出している。全共闘の心象風景と重なり合う曲と言われる。
 6月15日、「アンポ反対」のデモが国会議事堂を渦巻いていた。1月に新安保条約が調印され、国会の批准を待つばかりになっていた。当時日本を二分する大論争となった。安保反対を唱える全学連が国会に突入し警官隊と激突、ひとりの女子大生が圧死する事故が起こっている。東大生の樺(かんば)美智子だった。安保闘争で死者が出たことで、日本中に衝撃を与えた。
 結局、安保条約は参議院での採決を待たず、自然承認で幕が下りた。

 ♪アカシアの雨に 打たれて
 このまま 死んでしまいたい
 西田佐知子の渇いた声音と水木かおるの歌詞が、満たされぬ若者を心と共鳴し合ったのかもしれない。

 岸信介内閣は混乱を収拾するため総辞職し、7月には替わって池田勇人内閣が誕生し「所得倍増論」を打ち出した。
 10月には日本社会党委員長の浅沼稲次郎が日比谷公会堂で右翼少年、17歳の山口二矢(おとや)に刺殺される事件が起こっている。

 17歳の橋幸夫が「潮来笠」(佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)でデビューした。着流しに潮来カットといわれた角刈り姿は、新鮮であった。
 森山加代子が、
♪ティンタレー
と歌い出した「月影のナポリ」には驚かされた。坂本九の「悲しき六十歳」(訳詞・青島幸夫)など洋楽に訳詞をつけカバーした曲が流行った。「月影―」の訳詞は岩谷時子だった。

 同年のヒット曲には、
和田弘とマヒナスターズ&松尾和子の「誰よりも君を愛す」(佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)
・松尾和子の「再会」(佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)
・守屋浩の「有難度や節」(浜口庫之助作詞補曲)
・小林旭の「アキラのダンチョネ節」(西沢爽作詞・作曲者不詳)
・三橋美智也の「達者でナ」(横井弘作詞・中野忠晴作曲)
・藤島桓夫の「月の法善寺横町」(十二村哲作詞・飯田景応作曲)
・花村菊江の「潮来花嫁さん」(柴田よしかず作詞・水時富士夫作曲)
などがある。

 同年の映画には、
「悪い奴ほどよく眠る」(黒澤明監督・三船敏郎出演)
・「秋日和」(小津安二郎監督・原節子出演)
・「笛吹川」(木下恵介監督・高峰秀子出演)
「太陽がいっぱい」(ルネ・クレマン監督・アラン・ドロン出演)
・「甘い生活」(フェデロコ・フェリーニ監督・マルチェロ・マストロヤンニ出演)
などがある。

 スポーツでは東京六大学野球である。優勝決定再々試合までもつれた早慶6連戦で、早稲田大学が安藤元博の連投で優勝を飾った。安藤は6試合中5試合に先発する活躍を見せた。幾多の名勝負を展開した華の早慶戦にあっても、いまだに語り草の激闘である。

 衝撃に次ぐ衝撃の1960年・昭和35年であった。

2007年11月20日火曜日

夭折の美学:赤木圭一郎Ⅱ

 咲き誇る花よりも、散る花は美しい。

 赤木圭一郎(1939年―1961年)の死はハリウッド俳優のジェイムズ・ディーン(1931年―1955年)のそれと例えられる。映画「エデンの東」「理由なき反抗」で主演し、彗星のように出現したスターだったが、ポルシェを運転中に交通事故死した。24歳。若すぎる男の衝撃的な死を、全米はおろか世界中が悲しみ悼んだ。
 新撰組の隊士、沖田総司にもいえる。近藤勇、土方歳三とともに天然理心流の道場、試衛館で剣技を磨き十代で免許皆伝を取り塾頭を務めた天才剣士であり、労咳(肺結核)を患い若くして世を去った。池田屋事件で喀血したことが映画などで描かれているが、美少年説とともに事実かどうか定かではない。生年ははっきりせず享年については24歳~27歳まで諸説あり。とにかく幕末という動乱のなかに身を置き、生き急ぐように逝った。

 夭折に人々の心は動かされる。老いは誰にも例外なく訪れるが、老いを晒すことなく、清廉な若さのまま人の記憶に残るのだ。

 赤木圭一郎は1958年の日活第4期ニューフェイスで入社した。ちなみに日活第1期ニューフェイスに宍戸錠、名和宏、第3期に小林旭、ニ谷英明、第5期に高橋英樹、第6期に山本陽子、第7期に渡哲也がいる。
 トニー・カーティスに似ていることから、「トニー」の愛称で呼ばれた。
 生涯で20数本の映画に出演した。初主演は鈴木清順監督の「素っ裸の年令」(1959年)。「鉄火場の風」「清水の暴れん坊」では石原裕次郎と共演している。
 「拳銃無頼帖」シリーズが代表作品か。愛用のコルトで相手の利き腕の肩を射抜く射撃の名手“抜き撃ちの竜”に扮している。1960年に野口博志監督でたてつづけに4本製作された。
・拳銃無頼帖 抜き撃ちの竜
・拳銃無頼帖 電光石火の男
・拳銃無頼帖 不敵に笑う男
・拳銃無頼帖 明日なき男
 「電光石火の男」は吉永小百合の映画デビュー作品である。中学生だった草野球音は、小百合の清純可憐さに目を見張った。

 当時の日活は主演スターが主題歌も唄ったが、ヒットしたのは映画と同名曲「霧笛が俺を呼んでいる」(水木かおる作詞・藤原秀行作曲)だろうか。
 映画は個人的には最後の公開作品となった「紅の拳銃」(1961年・牛原陽一監督)が好きだ。戦争で片腕を失った射撃の名手(垂水悟郎)が、天才的な素質の男(赤木圭一郎)を見出し殺し屋に育成するというストーリーだった。

 瞼の裏のスクリーンに永遠の21歳・トニーが甦る。(完)

2007年11月18日日曜日

夭折の美学:赤木圭一郎

 日活同窓会が開かれた――と、大衆かわら版で読んだ。
×  ×  ×

 映画会社・日活の出身俳優で構成する「俳優倶楽部」とスタッフらで組織する「旧友会」が2007年11月17日、東京・新宿の京王プラザホテルで14年ぶりとなる合同パーティーを開いた。渡哲也(65)、宍戸錠(73)、浅丘ルリ子(67)ら日活黄金期を支えた約280人が顔をそろえ、懐かしい思い出話に花を咲かせた。故石原裕次郎(享年52)は生前に録音された声で「出席」して会を盛り上げた。
 主な出席者(名前の後の数字は年齢)
 ・監督 井上梅次84、斎藤武市(不詳)、鈴木清順84、舛田利雄80
 ・俳優 川地民夫69、山内賢63、深江章喜79
 ・女優 芦川いづみ72、笹森礼子67、松原智恵子62、香月美奈子70
×  ×  ×

 日活は、1912年(大正元)に創立した「日本活動写真株式会社」を略した社名に端を発す。日本最初の映画スター「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助主演のチャンバラ映画でその名を知られた。
 この蜘蛛巣丸太で言う「日活」は、戦後に活動再開した1954年(昭和29)からロマンポルノへ移行した1971年(昭和46)までの映画活動をしていた会社である。

 日活の黄金期とはいつ頃のことだろうか。石原裕次郎(1934年―1987年)が「太陽の季節」で颯爽と登場し瞬く間にスパースターとなり、小林旭が「渡り鳥シリーズ」が売れ、赤木圭一郎が第3の男として世に出て、和田浩治が15歳でデビューを飾った頃ではないか。
 日活ダイヤモンドラインの結成である。
 
 なかでも人気上集中の最中に壮絶に散り、今なお多くの人の心を捉えて離さないトニーこと赤木圭一郎(1939年―1961年)を記憶に鮮明に残したい。

 1961年(昭和36)2月14日、映画「激流に生きる男」の撮影の休み時間に東京・調布市の日活撮影所内でゴーカートを運転中に鉄扉に激突し、慈恵医大病院に緊急搬送されたが、同月21日前頭骨亀裂骨折に伴う硬膜下出血のため死去した。21歳。若すぎる死だった。
 もともと「激流に生きる男」は石原裕次郎主演で撮る予定だったが、1961年1月24日ブナ平スキー場で女性スキーヤーと衝突した裕次郎が右足首粉砕複雑骨折で入院し長期入院となったため、急遽、トニーに代役が回ってきたものだった。
 さらに代役を立てるか、日活首脳は協議したが、製作見送りとなっている。しかし、翌年の1962年高橋英樹主演で吉永小百合などが共演して製作されている。
 赤木の事故死の段階で撮影は半ば撮り進んでいた。芦川いづみ、葉山良二、笹森礼子などが共演していた。
 
 元ボクサーで船員の男が、通りすがりで車に轢かれそうな子供を助けたことから、その親代わりの女性が切り盛りするクラブのバーテンとして雇われる。そのクラブにギャングの魔手が伸びる。。。
 日活アクション映画のよくある筋書きだが、哀愁のある独特の存在感のトニーが演じるなら、その魅力が遺憾なく発揮されたことだろう、と今でも思うのである。 (つづく)

2007年11月15日木曜日

ジャイアンツ・馬場正平Ⅳ

 1958年(昭和33)新人の長嶋茂雄の人気は絶大だった。東京六大学野球リーグで首位打者2回、ベストナイン連続5回、通算最多の8本塁打と大活躍し、立教大三羽烏といわれた杉浦忠(南海)、本屋敷錦吾(阪急)とともにプロ入りした。

 兵庫・明石キャンプでは長嶋の行くところカメラが追いかけた。長嶋が巨人のユニホームを着て初めてキャッチボールをした相手が、4年目の馬場であった。絵になる構図にシャッターが一斉に切られた。

 馬場は20歳になっていた。前年一軍登板を果たし、いよいよ一軍定着の夢を壊したのは脳腫瘍であった。また、杉下茂が200勝を飾った巨人―中日戦後に右ひじに痛みを感じていた。1958年のキャンプは、病み上がりの状態で始まり、レギュラーシーズンに入っても全力投球ができないまま二軍生活に明け暮れた。それでも二軍では実力は段違いで10連勝を飾り3年連続で最優秀投手(二軍では1956年12勝1敗、1957年13勝2敗)に選出された。
 このころから「二軍のエース」と影でいわれ、二軍ズレした選手というレッテルが貼られたようだ。そして、甲子園のセンバツ優勝投手でありノーワインドアップで投げていた王貞治が早稲田実業高から入団した1959年(昭和34)も一軍からの「お呼び」はなく、オフに解雇通告を受けることになった。馬場21歳の秋であった。

×  ×  ×

 馬場正平の読売巨人軍入団までの略歴を簡単に記す。
 1938年(昭和13)1月23日、新潟県三条市西四日市町で青果店を営む父・一雄、母・ミツの次男として生まれる。長男は正平5歳のときにガダルカナルで戦死、姉2人。少年時代から野球に親しむ。
 1953年新潟県立三条実業高校工業化に入学。入学当初、履けるスパイクがないため硬式野球部を諦め、美術部に所属する。特注の大きなスパイクを誂え、高校2年の春に野球部入部。夏の甲子園予選は無念のサヨナラで敗退した。
 その後、巨人・源川英治スカウトに勧められ、子供のころから巨人ファンだったことをあり入団を決意し、1955年(昭和30年)1月三条実業高を中退する。
 同月に高校を中退、読売と契約した。巨人の入団条件は支度金20万円・月収1万2000円で、背番号は「59」となった。

×  ×  ×

 5年目のリストラ。月収は1万2000円から徐々に上がり5万円になっていたが、突然無職になった。入団時のヘッドコーチの谷口五郎が大洋に移籍が決まり、つてを頼り大洋の入団テストを受けることになった。1960年(昭和35)合格の内定をもらった矢先に風呂場で転倒し、ガラスで左ひじの腱を切り、出血し救急車で運ばれた。あれほど執着していたプロ野球選手生命を絶たれたのだった。
 余談だが、もし大洋入団が決まっていたら、三原脩監督が率いて日本一に輝いた優勝メンバー(日本シリーズで大毎に4連勝)に加わっていたかもしれない。詮無い話である。

 それから2か月余経った4月11日のことである。東京都中央区日本橋浪花町の日本プロレス・センターに、ブラジルから帰国したばかりの「日本プロレス界の父」というべき力道山を訪ねた大男の姿があった。野球を断念しプロレス界に身を投じることを決断した馬場正平、後のジャイアント馬場であった。
 巨人5年間・3試合のプロ野球成績は、プロレス38年・5,759試合を闘い抜いた偉大な巨人のサクセスストリー「序章」として記憶に留めておきたい。(完)

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2007年11月13日火曜日

ジャイアンツ・馬場正平Ⅲ

 「ジャイアンツ・馬場正平」を掲載中に訃報が飛び込んできた。2007年11月13日、西鉄ライオンズの黄金期のエース稲尾和久が急死した。享年70歳。生涯防御率1.98、42勝の日本プロ野球最多シーズン勝利など伝説の鉄腕投手であった。
 先の「ラッパが聞える東京球場」でも掲載の最中、ロッテ・オリオンズ球団の元オーナー中村長芳死去のニュースが流れた。連載中に登場人物が亡くなる、奇しき因縁があるかもしれぬ。

 寄り道をして稲尾について書きたい。草野球音は日本プロ野球史上最高の投手だと思っている。連投に屈しない闘争心と持久力、外角低めの伸びやかな速球と切れるスライダー、絶妙といえる制球力と逆算投法といわれた投球術、さらに牽制球と守備の巧さ――心技体、すべてに超一流だった。
 馬場の物語は1957年の日本シリーズに差しかかっているが、なんといっても稲尾の圧巻は翌1958年(昭和33)の同シリーズである。三度、巨人と西鉄の対戦になった。西鉄はいきなり3連敗と追い詰められたが、どっこい稲尾が3戦以降5連投し第5戦では自らサヨナラホームランをかっ飛ばすなど獅子奮迅の活躍(ひとりで4勝)で大逆転し、日本一3連覇を達成した。ここに「神様・仏様・稲尾様」という言葉が生まれた。

 1958年日本シリーズ
  巨人―西鉄  勝利投手  敗戦投手  本塁打
第1戦 9-2   大友 工  稲尾和久  豊田泰光 広岡達朗
第2戦 7-3   堀内 庄  島原幸雄  豊田泰光
第3戦 1-0   藤田元司  稲尾和久  
第4戦 4-6   稲尾和久  藤田元司  広岡達朗 豊田泰光2発
第5戦 3-4   稲尾和久  大友 工  与那嶺要 中西太 稲尾和久
第6戦 0―2   稲尾和久  藤田元司  中西太
第7戦 1-6   稲尾和久  堀内 庄  中西太 長嶋茂雄
 稲尾は6試合に登板して4勝2敗で当然のMVPに輝いた。長嶋は新人で第7戦の本塁打はランニングホームランであった。

 1959年にはこの逆転日本一をクライマックスにした「鉄腕・稲尾和久物語」という映画が、西鉄球団の全面協力を得て東宝で作られている。稲尾が自身を演じ、白川由美、柳川慶子、志村喬、浪花千栄子らが出演した。「ゴジラ」などの特撮物で知られる本多猪四郎が監督を務めている。
×  ×  ×

 伝説の鉄腕の死を悼みながら、時計の針を1957年(昭和32)に巻き戻そう。

 日本中が沸く日本シリーズだったが、馬場にはじっくり観戦する余裕などなかった。目が見えない原因が脳腫瘍であり、選手寿命を絶つことになるかもしれない。ようやく病院を回り回った末、東大病院に辿りつき、手術を決断する。当時の馬場は野球ができないことは死を意味していた。どうしても野球をやりたい。出術に賭けた。
 合宿所の私物を整理し、背水の覚悟で病院の手術準備、ベッドの空きを待った。12月23日に執刀された。全身麻酔から覚めたのは手術後36時間も経っていた。病室の電球を見たとき、生還を確認し喜びが身体から沸いてきた。手術は成功した。しかし、当分入院加療が必要であり、野球をやるなどというスケジュールは病院側も持っていなかった。
 ところが奇跡的かつ超人的な回復をみせる。31日の大晦日に退院に漕ぎつけ、正月には軽い運動が出来るまでになった。並みはずれた体力は、一般人の回復速度よりはるかに早く、1958年の兵庫・明石キャンプに初日から参加したのであった。

 東京六大学野球で最多の通算8本塁打を記録したゴールデンボーイ長嶋茂雄の入団で、巨人キャンプは例年以上の活況を呈していた。(つづく)

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2007年11月11日日曜日

ジャイアンツ・馬場正平Ⅱ

 「替わりまして巨人軍ピッチャー馬場」。
場内アナウンスがアルプススタンドに響いた。一般人に比べれば大きい野球選手にあってもひと際デッカイ、雲を突くような大男がマウンドに立った。打席に歩いたのは“牛若丸”と異名をとる球界一の小兵だった。どよめきが球場を包み、その後に笑いまじりの歓声と拍手が沸き起こった。
 1957年(昭和32)8月25日、伝統の阪神―巨人戦。舞台は甲子園球場である。大量リード許した8回裏、巨人が投手を選手登録200cmの馬場正平に代えた。迎える打者は165cmの阪神・吉田義男だった。その差35cmだが、馬場の過少申告を考慮すれば、実際の差40cmはあったろうか。
 これが馬場の入団3年目に巡ってきたプロ野球初登板である。敗戦処理の起用だが、巨人監督の水原円裕の粋な演出でもあった。結果は三塁ゴロに仕留め、馬場に軍配が上がった。無難にその後の2人を「二塁フライ」「遊撃ライナー」に打ち取り、1イニングを無失点に抑えたのだった。

 プロ野球野球選手・馬場のハイライトは最初で最後となった先発であった。
 同年のレギュラーシーズンも押し迫った10月23日の中日戦。舞台は本拠地の後楽園球場。巨人先発はプロ初先発の馬場。中日は200勝をかけてマウンドに登る“フォークの神様”杉下茂である。大投手である杉下はこれまで通算199勝をあげ、大台に王手をかけていた。負ければ来年回しとなる可能性もあり、ぜひとも巨人戦で記録達成を意気込んでいた。
 結果は1―0で中日が勝利し、杉下は完封で、しかも区切りの200勝を巨人戦で飾った。敗戦投手は馬場だった。馬場は5回を投げ、被安打5、1奪三振、四死球0、1失点の好投を見せている。
 ちなみに唯一の打席は杉下の前に3球三振だった。2度目の打席は5回裏に回ってきたが、代打が起用された。 来年こそ一軍の手掛かりを掴んだ試合だった。
 杉下の200勝に「花を添えた」馬場の力投であった。両者ともに忘れえぬ試合となったのではないか。

 この試合を街頭テレビで見た記憶がある。馬場の投球フォームは、ゆっくりとしたワインドアップし、上げた左足を大またに開き上手から投げ下ろす。最高球速は140㌔台か。球種は直球とカーブの2種類のみ。小高いマウンド上(野球ルールでは25.4cmと規定)で2m超の上手投げから投じられるボールは、打者から見れば2階から投げたように感じ角度があり、打ちづらかったと推測する。細かい制球力はないが、四球で自滅することはないタイプとみた。

 1957年の3試合登板、合計7イニング、被安打5、3奪三振、四死球0、失点1、防御率1.29で、打撃は1打席1三振 打率.000――この記録こそ、馬場正平が日本プロ野球に在籍したことを示す唯一の証(あかし)である。

 馬場の初先発からわずか3日後に同年の日本選手権シリーズは開催された。1956年に続き読売ジャイアンツ―西鉄ライオンズの対戦であった。水原円裕と三原脩の因縁の名将対決で「巌流島の決闘」といわれ、注目を浴びた。結果は前年に続き西鉄が1引き分けを挟み4連勝して日本一に輝いている。
  1957年日本選手権シリーズ
   巨人―西鉄  勝利投手 敗戦投手  本塁打
第1戦 2-3      稲尾和久 大友 工  豊田泰光
第2戦 1―2    河村英文 堀内 庄  宮本敏雄
第3戦 4-5    稲尾和久 義原武敏  大下弘、関口清治、与那嶺要、宮本敏雄
第4戦 0-0      (河村―島原と木戸―堀内が好投譲らず)
第5戦 5―6    島原幸雄 木戸美摸  和田博実2発、十時啓視、川上哲治
 予想外の西鉄の圧勝だった。
 
 このシリーズの時期、馬場に病魔が襲う。
 視力が極端に低下した。ぼんやりかすみ、5m先の人物を判別できなくなった。何軒か病院をまわり診察を受けた結果、ようやく脳に腫瘍があることが判明した。視力の低下は脳の腫瘍が視神経を圧迫しているためだった。
 来年への手ごたえを掴んだ矢先。現役続行は難しく、手術も難しいとの宣告を受けた馬場は、「野球ができなくなる」と視力の低下以上に目の前が真っ暗になった。(つづく)

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2007年11月10日土曜日

ジャイアンツ・馬場正平

 まずお断りをしておく。表題は「ジャイアント馬場」でなく「ジャイアンツ・馬場」である。

×  ×  ×

 この項は、歌手の桑田佳祐が“世界の巨人”ジャイアント馬場とCM共演するということを、大衆かわら版で読んだのが発端となった。ご存知の方も多いだろう。過去にも黒澤明、植木等と合成映像で「出演」している缶コーヒーのテレビCMだ。

×  ×  ×

 ジャイアント馬場(1938年―1999年=享年61)がプロレスラーになる前、プロ野球の読売巨人軍の投手であったことを記憶に留めたい。巨人に在籍したのは5年間。一軍の登板機会はわずか3試合で7イニングだけ。奪った三振は3、失点1で防御率は1.29、打撃は1打席のみで3球三振という記録が残っている。投手の実績を見るバロメーターである生涯防御率は、400勝投手の金田正一(国鉄―巨人、実働20年)の2.34、鉄腕・稲尾和久(西鉄、実働14年)の1.98を上回る。当然、冗談半分に単純比較をするつもりはないが、意外というべき防御率の良さではないか。
 プロ野球選手歴5年・3試合。そしてプロレスラー歴38年・5,759試合、NWA世界ヘビー級王者であり頂点を極めた男――希少価値のある「巨人投手・馬場正平」を草野球音が追う。

 馬場が投げているのを生で見たことありますか?
 実は「ナマ馬場」を見たことがあるのだ。これが自慢だ。1957年(昭和32)だったと記憶する。当時、巨人の合宿所は多摩川の川崎・丸子橋のたもとにあった。野球少年の球音は、近所の友達と巨人の練習を見に出掛けた。たまたま練習が休みだったのか、多摩川の河原で馬場はキャッチボールをしていた。相手は安原達佳投手(倉敷工高)と十時啓視外野手(岩国高)だった。
 安原は上手投げから下手投げに投法改造して成功した投手である。十時は代打で登場した左の外野手だった。安原は1954年、十時は馬場と同じ1955年入団である。

 同期入団組には、十時のほかにV9の頭脳捕手であり西武監督として日本一に6度輝いた森祇晶(まさあき、旧名・昌彦=岐阜高)、いきなり主軸を打ち2度の打点王を獲得した外野手のエンディ宮本(登録名・敏雄、ボールドウィン高―ハワイ朝日)、投手で入団したが俊足巧打の外野手としてV9に貢献した国松彰(同志社大中退)、1957年に新人の藤田元司とともに17勝を稼いだ木戸美摸(よしのり、加古川農短大附属高)がいる。
 
 1955年(昭和30)の選手名簿を見ると、馬場は巨人選手のなかで最年少の17歳となっている。これは新潟・三条実業を中退して入団したためである。身長は200cm体重90kと登録されている。プロスラーとして公表していた209㎝135k(全盛時は145k)と比較すると、ひと回り小さい。大きいことを喧伝されることを嫌い過少申告していたのではないかと想像する。
 
 王貞治は1959年、長嶋茂雄は1958年の巨人入団。ONがまだいない巨人はどのような陣容だったのか。
 1955年の開幕戦オーダー(所属経歴は同年時)は、
(左)与那嶺 要=フェリントン高―3Aサンフランシスコ
(ニ)千葉  茂=松山商
(中)岩本  尭=田辺高―早稲田大
(一)川上 哲治=熊本工
(右)南村 侑広=市岡中―早稲田大―横浜金港クラブ―西日本
(三)広岡 達朗=三津田高―早稲田大
(捕)広田  順=ハワイ大―ハワイアサヒ
(投)別所 毅彦=滝川中―日本大(中退)―南海―近鉄―南海
(遊)平井 三郎=徳島商―明治大―全徳島―阪急―西日本
となっている。
 投手陣は別所のほか、剛球左腕の中尾硯志(京都商)、安定感のある下投げ大友工(大阪逓信講習所―神戸通信局―但馬貨物)、スライダーの藤本英雄(この年引退=下関商―明治大―巨人―中日)と並び、投打ともにビッグネームのオンパレードである。川上と千葉は兼任助監督であり、率いるは勝負師・水原円裕(本名・茂、のぶしげ=登録名は1955年~59年まで使用)であった。(つづく)

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2007年11月6日火曜日

「24」は「かっぱえびせん」

 「24」は「かっぱえびせん」のようだった。
 出来の悪いなぞかけのようだが、その心は「やめられない、とまらない」のである。なぞかけの解く対象が「かっぱえびせん」という旬でないのは、おやじのご愛嬌と許していただきたい。

 遅まきながら(もうとっくの昔に観たという人も多かろうが)、米国の人気テレビドラマ「24-TWENTY FOUR-」にはまったのは、1ヶ月半ほど前だった。散歩がてらに寄った横浜みなとみらいのTSUTAYA(草野球音はハマの隠居)で、「24」のレンタルDVDを手にとり自宅で観だしたら、とまらない。次々と借りまくった。6週間ほどで、SEASON1から5まで、DVD60巻を観てしまった。
 1巻に2時間分(2話)が収録されている。ドラマ1話の1時間枠はCMが入るので約45分。1巻は90分だから、60巻となると5,400分で90時間となる。

 ドラマの展開が速くかつ複雑で、多岐にわたる登場人物、さらに飽きさせない予算外の筋書きの連続。主人公のジャック・バウアー(キーファー・サザーランド)は米国連邦機関CTUのロサンゼルス支局に勤める捜査官で、凄腕である。拳銃は名手にして、パソコンはSE並み、飛行機の操縦もできれば、医学の知識もあるスーパーマンなのだ。ご覧になっている方が多いので、生兵法は怪我の基となる。内容は詳しく語らない。
 配役が面白い。CTUの情報分析担当官であるクロエ・オブライエン(メアリー・リン・ライスカブ)に味がある。しかめ面で口下手だが、バウアーを支える活躍をする。料理を引き立てるわさびのような存在と見た。

 「かっぱえびせん」といえば、思い出すのは、プロ野球大毎オリオンズで活躍した山内一弘(旧名・和弘)の異名である。「シュート打ちの名人」「オールスター男」などと言われた現役時代は、走攻守そろった外野手で首位打者1回・本塁打王2回・打点王4回に輝いた。打撃コーチとして手腕も高く、読売、阪神で務め、またロッテと中日で監督経験もある。
 1971年から1974年まで打撃コーチを務めた読売で、その打撃指導が熱心で教えだしたら「やめられない、とまらない」ことから、当時の武宮敏明寮長が「まるで“かっぱえびせん”のようじゃなぁ」と言ったことを聞きつけた巨人番が原稿にしたことが発端となり、有名なテレビCMのフレーズもありあっという間に広まった。

 かっぱえびせん(カルビー)が発売されたのは1964年(昭和39)のこと。創業者の松尾孝がエビのてんぷらが大好物であったのが、ヒントとなって生まれた製品という。かっぱえびせん発売の昭和39年、世紀の大トレードといわれた小山正明との交換が成立し、山内一弘は大毎オリオンズから阪神タイガースに移籍した年だった。

 奇縁である。

2007年11月4日日曜日

竜馬も北辰一刀流手練れ

 竜馬はもとより、後年、性沈毅といわれた武市半平太も、若かった。
 その夜、千葉重太郎とさな子を連れ、夜陰にまぎれて四人で品川の藩邸をぬけだしたのである。見つかれば、かるくて切腹、おもければ打首だろう。
 めざす相手は浦賀にうかぶ米国艦隊であった。四隻の黒船を、北辰一刀流と鏡心明智流の腕で手づかみにしてくれようという。
 ――司馬遼太郎「竜馬がゆく」より=原文のまま
×  ×  ×
 
 嘉永6年(1853)6月3日、米国の東印度艦隊司令長官M・C・ペリーが4艦を引きつれ相州浦和に現れ、投錨し、将軍に米大統領フィルモアの親書を呈するために来航した旨を伝えた。黒船来航である。この日を境に日本中が騒然となった。ペリー来航から明治元年(1868)の15年間を「幕末」という人は多い(江戸末期の1830年代か1840年代から江戸幕府が崩壊するまで、とより長い期間で捉える説もある)。
 
 泰平の眠りをさます上喜撰、たった四はいで夜もねられず
と江戸に狂歌が流行った。蒸気船と同音異義語の上喜撰はお茶の高級品名。

 江戸時代は、徳川家康が征夷大将軍に任ぜられた1603年(慶長8)から、徳川慶喜が大政を奉還して将軍職を辞した1867年(慶応3)までの、江戸に徳川幕府の存続した265年間をいう。またこれも家康が関が原の闘いに勝利を収めた1598年(慶長3)を始期とする説もある。

 天下泰平のときは遊惰に溺れがちだが、有事となれば武勇に頼るのだろうか。幕末には武芸が盛んであった。
 北辰一刀流の創始者は千葉周作(1793年―1856年)である。
 1822年(文政5)に日本橋品川町に玄武館を構え、6年後に神田お玉が池に移転している。従来の精神論に偏らず合理的に剣技を磨くことを重視し、袋竹刀と防具を使用、習得までの過程を簡素化し時間を短縮したことと謝礼が安価なことで、門下生を増やした。弟子に尊攘の策謀家と知られる清河八郎、新撰組の山南敬助、藤堂平助がいる。水戸藩の水戸斉昭の招きで剣術指南役を務めた関係で水戸藩士が多く通い、大老井伊直弼の首をとった有村治左衛門も門下生であった。

 冒頭の坂本竜馬は千葉周作の門下ではなく、周作の実弟・定吉の京橋桶町の道場で腕を磨き、北辰一刀流免許皆伝を手にしたといわれる。重太郎は定吉(「竜馬がゆく」では貞吉となっている)の長男で、さな子は定吉の娘であり剣士である。

 武市半平太は鏡新明智流の免許皆伝で塾頭も務めた。鏡新明智流の士学館四代目桃井春蔵が道場主で、京橋浅蜊(あさり)河岸にあり、土佐藩邸が近く土佐藩士の門弟が多かった。手錬れとしては、土佐勤皇党の武市半平太、維新後宮内大臣に就く田中光顕(みつあき)、「人斬り以蔵」の異名をとる岡田以蔵などがいる。

 玄武館、士学館に並ぶ幕末三大道場は神道無念流、斎藤弥九郎の錬兵館である。神田俎(まないた)橋際に建てたが、後に九段坂上(現靖国神社境内)に移転している。そのころから長州藩士が多く入門した。塾頭を務めた桂小五郎、高杉晋作、品川弥二郎ら維新の志士を育ている。維新後、弥九郎は明治政府に出仕している。

 赤胴鈴之助―平手造酒―坂本竜馬の北辰一刀流つながりである。

2007年11月1日木曜日

人生枯れ落葉か平手造酒

 平手造酒赤胴鈴之助と同門なのだ。師匠は北辰一刀流の創始者、千葉周作。前回の赤胴鈴之助からの連想である。

 平手造酒も赤胴鈴之助と同様に架空の人物だと思っていたら、平田三亀(ひらた・みき)という剣士が実在しモデルになっているそうだ。「そうだ」という伝聞口調で申し訳ないが、詳しいことは知らない。ここでは映画や浪曲、歌謡曲でおなじみの、天保水滸伝の作中人物である「平手造酒」として話を進める。

 戦前(1939年=昭和14)の田端義夫のヒット曲「大利根月夜」(作詞・藤田まさと、作曲・長津義司)では、
 ♪もとをただせば 侍育ち
 腕は自慢の 千葉仕込み
と出てくる。
 さらに、戦後(1959年=昭和34)三波春夫が唄った「大利根無情」(作詞・猪又良、作曲・長津義司)では科白の中に、
 お玉ケ池の千葉道場か。
 うむ。。。平手造酒も今じゃやくざの用心棒、
 人生裏街道の枯れ落葉か。
とある。

 平手造酒は千葉周作道場で俊英といわれた剣豪だったが、酒がもとで失敗し名門・玄武館を追われた。江戸を離れ浪々の末に辿り着いた利根川べりの町で、腕を見込まれ土地の親分、笹川繁蔵の食客となる。そこには繁蔵と勢力を二分する顔役、飯岡助五郎との激しい縄張り争いが起こっていた。
 不治の病に侵されていた平手造酒は、心ならずも巻き込まれたやくざの抗争に、一宿一飯の義で手を貸すことになり、天保15年(1844)8月、大利根河原の決闘で命を落とす。悲愴な終焉である。

 ところで、「大利根月夜」と「大利根無情」――ふたつの曲の作曲者はともに長津義司(1904年―1986年)である。
 あの三波春夫の
 ♪知らぬ同士が 小皿叩いて
 チャンチキおけさ
の「チャンチキおけさ」(1957年=昭和32)も長津作品。
 20年の歳月を経て「平手造酒」という同じテーマで曲を作ったことになる。数奇な浪人に心を動かせるなにかがあったのだろうか。