2008年4月27日日曜日

球侍の炎1968ドラフトⅢ

飯島秀雄の巻:二

 飯島秀雄のデビューは鮮烈だった。
 入団した1969年(昭和44)4月13日。ロッテの本拠地、東京球場で行われたロッテ―南海2回戦。3―3で迎えた9回裏無死、山崎裕之が一塁に出塁すると、ロッテ監督の濃人渉(1915年―1990年)は「代走飯島」を、球審の露崎元弥に告げた。

 東京球場の1万7000人が沸いた。「お目当て」の初登場である。5000万円の保険がかけられている黄金の俊足をみてみたい、という観客が多かった。
 万雷の拍手を浴びて背番号88の飯島が一塁ベースに立った。

 マウンドの南海投手、合田栄蔵は飯島の足に探りを入れるように、1球牽制球を投げた。ロッテのバッターボックスには広瀬宰(1947年―1999年)がいた。
 合田が初球を投げた。広瀬はバントの構えから、バットを引いた。南海の内野守備陣系の出方を見る常套手段だが‥‥。
 そのとき。飯島は二塁へまっしぐらに走っていた。単独スチールだ。濃人から「自分の判断で走っていい」と指示されていた。素人に難しい判断を要求せず、最大限に足を活かす自由を与えていた。

 南海内野陣は不意を突かれた格好となった。遊撃手の藤原満と二塁のドン・ブレイザー(1932年―2005年)の二塁ベースカバーが遅れた。捕手はあの野村克也である。野村は送球をためらい、二塁に投げたが、藤原は送球を捕れず、球はセンターに達した。
 飯島は二塁を一気に回り加速、三塁へヘッドスライディングをみせた。初盗塁である。観客は沸きに沸いた。

 一死後にロッテは井石礼司が打席に入った。井石は左翼へ大きな飛球を放った。三塁ベースコーチの与那嶺要は、飯島にタッチアップを指示した。飯島は三塁ベースにへばりついた。打球は左翼を超えた。「ゴー」という与那嶺の掛け声がかかった。飯島は全速力で本塁を駆け抜けた。サヨナラのホームインだった。
 スタンドは狂喜乱舞した。ゲーム後、サヨナラ打の井石より飯島を取り囲む報道陣が多かったのはいうまでもない。

 飯島の代走デビューは、絵に描いたような展開で劇的サヨナラを演出したのだった。ゴンドラ席で観戦していたロッテのオーナー永田雅一(1906年―1985年)は、ご機嫌で東京球場を後にした。

 100M走の序盤30Mまでなら、世界最速といわれた男は、プロ野球生活でも得意のロケットスタートを鮮やかに決めたかに、見えた。
 だが、しかし‥‥。
 素人が成功するほど甘くはなかったのだ。
 
 プロ野球の代走は足の速さだけでは通用しない。陸上競技ならスタートを切れば、前進のみでゴールを駆け抜ければいいが、野球ではベースでは止まる必要がある。投手の牽制球には帰塁しなければならない。盗塁のスタートのタイミングが難しい。打球の行方により、「進む・止まる・戻る」の三択を瞬時にしなければない。スライディングの技術も習得しなければならない。

 立ちはだかる難問を飯島はクリアできなかった。中学時代は野球部に属していたが、当然ながらプロ野球とのレベルは段違いである。
 代走屋の実働は3シーズンで117回起用され、成功した盗塁は23回だった。初年度の1969年は10個の盗塁をし、翌1970年は12個と数字は伸ばしたが、盗塁死は8個から9個に増えた。飯島が進歩を、相手バッテリーの研究が上回った。現役最後となった1971年にはめっきり出場機会が減り、盗塁数は1個と激減した。
 実働3年、117試合出場、46得点、盗塁23、盗塁死17、牽制死5――打撃と守備の機会ゼロが、生涯記録として残る。
 1970年には読売ジャイアンツとの日本シリーズに出場している。3試合で盗塁はないが、2得点、牽制死1であった。
 一度だけ二軍戦で打席に立ったことがある。イースタンリーグのヤクルト戦。飯島は、珍しい左投右打であった。右打席に入ったが、ヤクルト投手の松村憲章に3球三振を喫している。当時のロッテ二軍監督、大沢啓二が経験の積ませるため、打席に送ったのだった。

 1971年オフに戦力外となり、現役引退した。入団時に交わした永田雅一との約束により、1972年(昭和47)にランニングコーチとなった。が、わずか1年で退団した。
 映画会社の大映が経営不振で、永田は1972年のシーズン終了後、球団経営から撤退した。経営母体が永田大映からロッテ本社に移った。この機会に、ロッテ球団は飯島に契約更新をしない旨を伝えた。

 稀代の短距離走者、飯島秀雄はプロ野球から姿を消した。

 さらに飯島に過酷な運命が待ち受けていた。 (飯島の項つづく)

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※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。

2008年4月24日木曜日

球侍の炎1968ドラフトⅡ

飯島秀雄の巻:一

 1968年度(昭和43)プロ野球新人選手選択会議が開催された東京・日比谷の日生会館には、緊張と熱気が満ち溢れていた。
 田淵幸一(法政大)、山本浩二(法政大)、星野仙一(明治大)、山田久志(富士製鉄釜石)、東尾修(和歌山箕島高)ら前評判の高いスター軍団が、次々にドラフト指名を受けていった。

 そんな会場の空気が一変したのは、東京の9位指名がアナウンスされたときだった。「東京9位指名、飯島秀雄、外野手、茨城県庁、24歳」。どよめきと驚きが交錯した。張りつめた緊張が解け、なんともいえぬ失笑が漏れた。

 このドラフト会議出席者の誰もが、「飯島秀雄」の名前は知っていたが、それは野球選手としてではなく、100M走10秒1の日本記録保持者として、だった。東京とメキシコ五輪の代表選手であり、2大会連続で100M走準決勝進出を果たした日本人最速の男が、プロ野球球団に指名されたのだ。

 仕掛け人は東京オリオンズのオーナー永田雅一(1906年―1985年)であった。飯島の持ち味はロケットスタートで、最初の30Mまでなら世界最速といわれていた。野球規則によれば塁間は90フィートと定められており、メートル法では27.431Mとなる。代走専門の盗塁屋で使えば、飯島の足は最大限活きる。塁間を世界で一番速く走れるランナー――机上の計算ではそうなる。

 話題性もある。客も呼べる。名プロデューサーといわれる映画人の発想であった。
 永田は、1963年(昭和38)に「名前が気に入った」と埼玉大宮工業の長谷川一夫(投手、後に外野手転向)を入団させた経緯がある。本業の映画会社、大映の大スター長谷川一夫(1908年―1984年)と同姓同名だったのである。
 
 というわけで、永田の強い希望もあって飯島は東京に入団する。世界の飯島がプロ野球という未知の世界に飛び込んだ。

 飯島の同期入団組はどんなメンバーだろうか。1968年の東京オリオンズのドラフト指名選手をみて見てみよう。
1・有藤道世(近畿大・内野手)
2・広瀬宰(東京農業大・内野手)
3・池田信夫(京都平安高・投手)=入団拒否
4・土肥健二(富山高岡商業高・捕手)
5・八塚幸三(四国電力・投手)=入団拒否
6・山口円(徳島鳴門高・内野手)=入団拒否
7・佐藤敬次(埼玉大宮工業高・投手)
8・三浦健二(日本石油・投手)=入団拒否
9・飯島秀雄(茨城県庁・外野手)
10・安藤峰雄(コロムビア・投手)
11・藤田康夫(千葉成東高・投手)=入団拒否
12・舞野健司(福岡飯塚商業高・捕手)
13・市原明(千葉銚子商業高・内野手)
14・飯塚佳寛(鷺宮製作所・内野手)
と14人が指名され、5人が入団を拒否して、飯島を含めて9選手が入団している。

 働き頭は、「ミスター・ロッテ」といわれた有藤道世である。入団の1969年(昭和44)に新人王、1977年には首位打者のタイトルを獲得した。1970年と1974年のリーグ優勝に主力打者として貢献し、ベストナイン10回、ダイアモンドグラブ賞4回の栄誉に浴している。
 生涯2063試合に出場、2057安打、328本塁打、1061打点、282盗塁、打率.282の成績を残した。また1987年から3年間ロッテ監督も務めている。

 活躍二番手は、2位の広瀬宰と最下位指名の飯塚佳寛だろう。広瀬は堅実な守備で鳴らし、ロッテ―中日―太平洋―西武で実働13年間、生涯打率.224、飯塚は俊足を活かし実働12年間、1065試合に出場し生涯打率.256の成績を残している。
 また、土肥健二は、「おれ流三冠王」の落合博満に影響を与えた非凡な打撃技術の持ち主で、897試合で打率.268の成績だった。

 さて本題である飯島は入団後どうなっただろうか。

 初出場の機会がやってきた。入団1年目の1969年4月13日。本拠地・東京球場で行われたロッテ対南海戦2回戦である。この年から東京は菓子メーカーのロッテをスポンサーとして、球団名をロッテと改めている。ネーミングライツの先駆けといっていい。永田雅一は、本業の映画会社大映の経営難から、親交のある元首相の岸信介に仲介の労を頼んだ。岸から紹介されたのは、新興の菓子メーカー重光武雄の経営するロッテであった。
 永田が私財を投じて建てた東京球場も観客動員が低迷していたが、1969年は代走屋・飯島への関心が高く、この日はいつも5000人程度で閑古鳥の泣くスタンドに1万7000人がいた。
 飯島登場! 観客がどっと沸いた。 (飯島の項つづく)

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※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。

2008年4月22日火曜日

球侍の炎1968ドラフトⅠ

空前の豊作年:序章

 草野球音の記憶に残る陰日向に咲いた花――野球に人生を燃焼させた人間模様を、取り上げるシリーズを書いていきたい。

 「球侍の炎」と題するカテゴリーである。昭和30年代(1955年~1964年)の歌謡曲・映画・野球の追憶を辿った「瞼の裏で咲いている‥‥」(カテゴリー:瞼の昭和)のような連作となるが、今回は随時掲載する。例の勝手気紛れ更新である。
 別段、目新しいものではない。すでに書いてある「原辰徳:巨人の夜明け」「ラッパが聞こえる東京球場」「ジャイアンツ・馬場正平」の3連作も、このカテゴリーに属するものとし、「球侍の炎」に収めることにする。

 ちなみに、差出がましい話だが、「たまざむらい・の・ほのお」でなく、時代小説風に「たまざむらい・の・ほむら」と読んでいただくのが、筆者の好みである(笑)。

 星野仙一、田淵幸一、山本浩二、山田久志、福本豊、東尾修など綺羅星の如く名選手を輩出、空前の豊作年といわれた1968年度(昭和43)ドラフトを追う。

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 陰日向に咲いた花たちの野球人生は、あの日ここから始まった。

 1968年(昭和43)11月12日、東京・日比谷の日生会館で第4回プロ野球新人選手選択会議が開かれていた。
 
 午前中に予備抽選を終え、いよいよ第1順目の指名に入った。
指名順位・球団と指名選手は、
1・東映=大橋穣(亜細亜大・内野手)
2・広島=山本浩二(法政大・外野手)
3・阪神=田淵幸一(法政大・捕手)
4・南海=富田勝(法政大・内野手)
5・サンケイ=藤原真(全鐘紡・投手)
6・東京=有藤道世(近畿大・内野手)
7・近鉄=水谷宏(全鐘紡・投手)
8・巨人=島野修(神奈川武相高・投手)
9・大洋=野村収(駒沢大・投手)
10・中日=星野仙一(明治大・投手)
11・阪急=山田久志(富士製鉄釜石・投手)
12・西鉄=東尾修(和歌山箕島高・投手)
となった。
 綺羅星の如く面々が並ぶ。長嶋茂雄の東京六大学の通算本塁打記録8本を大幅に22本にまで更新した田淵がいる。その彼と法政三羽烏といわれた山本と富田、六大学通算23勝の星野、関西大学きっての強打俊足の有藤、社会人のエース藤原がいる。
 1位の12人から後に6人が監督経験者となり、4人が名球会入りを果たしている。
 1位以外でも、阪急の2位は加藤秀司(松下電器・内野手)、7位は福本豊(松下電器・外野手)、中日の3位は大島康徳(大分中津工業・投手)と後に名球会入りしたメンバーがいる。
 さらに西鉄9位に大田卓司(大分津久見高・外野手)、南海4位に藤原満(近畿大・内野手)、東映4位に金田留広(日本通運浦和・投手)、東京2位に広瀬宰(東京農業大・内野手)、14位に飯塚佳寛(鷺宮製作所・内野手)、近鉄5位に芝池博明(専修大・投手)、広島2位に水沼四郎(中央大・捕手)がいる。

 空前の豊作といわれた年だけに、会議は序盤から大いに盛り上がり、熱気に溢れていた。

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2008年4月15日火曜日

球侍の炎:森中千香良

南海叩き上げ

 プロ野球の南海、大洋などで投手として活躍した森中千香良(もりなか・ちから)が2008年4月14日、死去した。68歳だった。

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 森中千香良。「千香良」=ちから、という名前の響きがよい。その活躍もさることながら、草野球音の記憶に残っているのは、「もりなか・ちから」という古風な響きの名前によるところが大きい。
 「主税」という漢字のイメージがいつもダブっていた。
 ♪湯島通れば 思い出す
 お蔦・主税の心意気
死ぬほど古いと言われそうだが、「婦系図」の「湯島白梅」(佐伯孝夫作詞・清水保雄作曲)の「主税」である。

 1958年(昭和33)、奈良・奈良商工高(現奈良商業高)からテスト生で南海ホークスに入団した。鶴岡一人(1916年―2000年)が率いた南海には、テスト生からの「叩き上げ」が多い。元近鉄監督の岡本伊三美、現楽天監督の野村克也、元南海監督の広瀬叔功らが、テスト生から二軍を経て一軍の晴れ舞台に這い上がった男たちである。 森中千香良もその一人だ。

 1960年から一軍昇格、1961年からは、11勝・10勝・17勝と3年連続で2桁勝利を稼ぎ、ローテーションの一角を担った。1963年は17勝8敗で、田中勉(西鉄)とパ・リーグ最優秀勝率のタイトルを分け合っている。
 1967年には南海から大洋に移籍、18勝を記録した。その後、1972年に東映移籍(日拓、日本ハムと球団名は変わり)、1975年に再び大洋に移り、現役を引退している。
 517試合に登板、114勝108敗1セーブ、防御率3.49の生涯記録を残す。

 その投球は、体を目一杯使った上手投げで、ストレートと落差のあるカーブのコンビネーションが武器だったと記憶する。打席は投手でありながら、珍しいスイッチヒッターだった。右投手に対して左打席に入るのだが、(球音の目には)どう見ても打てそうもないスウイングだったなぁ。

 確か生涯独身であった。
 
 南海黄金期を支えた一人である。

※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。

2008年4月3日木曜日

ノンちゃんは雲に乗って

 その訃報が記憶のセンサーに触れた。

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 「ノンちゃん雲に乗る」の小説や、「クマのプーさん」「ピーターラビット」などの海外児童文学の翻訳で知られる児童文学者の石井桃子(いしい・ももこ)が、2008年4月2日死去した。101歳だった。
 日本児童文学に貢献、自伝的小説「幻の朱い実」で、1995年に読売文学賞。1997年に日本芸術院会員。晩年も英国作家A・A・ミルン自伝の翻訳や執筆活動を行い、100歳を過ぎても児童文学への関わりを持ち続けていた。

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 草野球音は、浅学のため石井桃子のことは知らなかったが、記憶を呼び起こしたのは「ノンちゃん雲に乗る」である。したがって、故人には失礼な話だが、「ノンちゃん―」のことを書きたい。

 小説「ノンちゃん雲に乗る」の作品発表は、1947年(昭和22)と60年も前で、ベストセラーとなり、1955年(昭和30)に同名タイトルで映画化された。
 「ノンちゃん―」は、鰐淵晴子の映画デビュー作として記憶に留める。残念ながら、映画は観ていないが、子役の鰐淵の存在は輝いていた。当時10歳ではなかったか。父はバイオリニストの鰐淵賢舟、ドイツ人の母との混血児(ハーフというようになったのは後年か)特有の目鼻立ちの陰影の深さ、育ちの良さから漂う気品が感じられた。
 兄や姉から映画については聞かされていたが、あまりに子供で記憶に残っていない。鰐淵晴子は球音と誕生日が一緒で、彼女がちょうど2歳年上である。
 インターネットで調べると、
ノンちゃん:鰐淵晴子ノンちゃんの母親:原節子ノンちゃんの父親:藤田進 (1912年―1990年)雲の上で出逢う老人:徳川夢声(1894年―1971年)と、いう懐かしい顔ぶれだった。
 
 五輪スキーアルペン競技の三冠王、トニー・ザイラー(オーストリア)を招いて映画化された「銀嶺の王者」(1960年・松竹)には、ザイラーの相手役に選ばれ、話題をまいた。
 「伊豆の踊り子」(1960年・松竹)では踊り子役を演じ、学生役は津川雅彦だった。
 松竹では、桑野みゆき、岩下志麻、倍賞千恵子らと、看板女優として妍(けん)を競った時期があった。
 立派に成長した女優より、10代での面影が印象に残る鰐淵晴子である。