2010年2月25日木曜日

藤田まことさん Forever

「てなもんや三度笠」のあんかけの時次郎、「必殺」シリーズの中村主水、「はぐれ刑事純情派」の安浦吉之助、「剣客商売」の秋山小兵衛など数々の当たり役で知られる俳優の藤田まことが2010年2月17日に亡くなった。76歳だった。

×  ×  ×

 テレビっ子だったガキのころ「スチャラカ社員」や「てなもんや三度笠」に熱狂したなぁ。バカに面白かった。

 藤田まことという喜劇役者を知ったのは、「スチャラカ社員」だった。
 1961年(昭和36年)から1967年にかけて日曜日の昼にテレビ放送されたドタバタ・コメディ。中田ダイマル・ラケットが主役のグータラ中堅社員役、社長はミヤコ蝶々で、若手社員に藤田まこと、美人のOLに長谷百合というキャストであった。藤純子(後の富司純子)はその会社に新しく入社してきて、長谷百合が番組に出なくなり、職場の華が藤純子にとって替わった、と記憶している。
 藤田まことが長谷百合を「ハセく~ん」と、言葉を伸ばして言う呼び方や、課長役の人見きよし(1930年―1985年)の「ほんと、ちい~とも知らなかったわぁ」が流行った。給仕の少年役は白木みのる。
 藤田は社員という設定で、特に役名はなかったような気がする。
 演出は澤田隆治、脚本は香川登志緒だった。

「てなもんや三度笠」は1962年から1968年にかけて朝日放送(ABCテレビ)製作・TBS系で放送された時代劇風コメディ。日曜日の午後6時から30分の放送だった。「てなもんや―」を観て、チャンネルをクレージーの「シャボン玉ホリデー」に変えるのがテレビっ子の定番だった。
 提供は前田製菓。劇の冒頭コントで原哲男とのからみで、「俺がこんなに強いのも、当たり前田のクラッカー」という台詞が人気だった。
 藤田まことのあんかけの時次郎は、泉州は信太の生まれの渡世人。沓掛時次郎をパロった命名だろう。相棒は珍念という口が達者な小坊主の白木みのる。面長な顔つきの藤田を、よく白木は『ウマ』といって笑いをとっていたなぁ。そうそう、原哲男は『カバ』でした。

「非っ常にキビシ~ッ」のギャグを連発する浪人の蛇口一角(財津一郎)や、なぜか名古屋弁をしゃべる鼠小僧次郎吉(南利明)がレギュラーで絡み、手なれた芝居をしていいた。

 ♪雲と一緒に あの山越えて
  行けば街道は 日本晴れ
  おいら旅人 一本刀
と、藤田まことが主題歌を美声で歌っていた。作詞・香川登志緒、作曲は林伊佐緒だった。

 こちらも演出は澤田隆治、脚本は香川登志緒だった。
 最高視聴率は関西地区で64.8%を記録したオバケ番組だった。

 大人気の「てなもんや三度笠」の終了後、鳴かず飛ばず時期が4年余もあったが、1973年「必殺仕置人」の中村主水役に抜擢され、新境地を開くのである。

×  ×  ×

「耳の穴から手突っ込んで、奥歯ガタガタいわしたろか」なんてギャグも、「てなもんや―」で言っていましたっけ。
 おっと忘れるところでした。「京都殺人案内」の刑事・音川音次郎も当たり役のひとつでしょうね。

2010年2月23日火曜日

川喜田半泥子のすべて展

 横浜駅東口・そごう美術館(そごう横浜店6階)で「川喜田半泥子のすべて」展(2月11日~3月22日)を観る。
「ある銀行家の見た夢」と副題にあるように川喜田半泥子(かわきた・はんでいし=1878年―1963年)は、伊勢の豪商に生まれ、百五銀行などの頭取を務めた財界人であったが、稀代の趣味人でもあった。陶芸、書画、写真などに多才さを発揮した。本展では、80点余りの茶碗を中心とした陶器、書画、写真など約200点を展覧し、川喜田半泥子の全貌を紹介している。

×  ×  ×

 既成概念にとらわれぬ自由な発想で作られた茶碗類、また洒落と品のあるユーモアで書れた書画などを目に触れることができる。
 財界人として職務を全うしてなお、多方面に多岐多彩な活動をする御仁とは知りませんでした。立派な生涯と敬服するばかりです。
2010年2月23日観覧

2010年2月21日日曜日

今野敏「果断 隠蔽捜査2」

  今野敏の「果断 隠蔽捜査2」(新潮文庫)を読む。

  長男の不祥事により、警察庁長官官房の総務課長だった竜崎伸也は降格人事で所轄の大森署の署長となった。就任早々、管内で立てこもり事件が発生した。犯人は拳銃ベレッタを所持していた。現場に出向いた竜崎は、現場で指揮を執ることになった。ときを同じくして妻の身体に変調が起った。

山本周五郎賞、日本推理作家協会賞を受賞。

×  ×  ×

原理原則をモットーに信念の人であり、
まさに果断の人・竜崎伸也の虜になった。
テンポのよいストーリー展開に引きこまれる。

第3弾は「疑心 隠蔽捜査3」。

2010年2月21日読了


2010年2月20日土曜日

井上梅次:嵐を呼ぶ男

「うめじ」とばかり思っていました。半世紀の永きにわたり。「うめつぐ」とは訃報で初めて知りました。「うめじ」と「ゆめじ」の夫婦だと……。不明を恥じています。

×  ×  ×

 石原裕次郎の『嵐を呼ぶ男』などを監督した映画監督の井上梅次(いのうえ・うめつぐ)2010年2月11日亡くなった。86歳だった。妻は女優の月丘夢路。

 映画、テレビドラマと多作の監督だが、なんといっても石原裕次郎のスーパースターとして地位を確立した『嵐を呼ぶ男』監督として、その存在は燦然と輝く。

・嵐を呼ぶ男
 封切られたのは1957年(昭和32年)12月28日だった。年末からのお正月映画として上映された。当時、映画は最大の娯楽だった。川崎駅にほど近くミスタウンと呼ばれ映画街があった。年末に観た。一回目は立って観て、それから2回目は席が空いたので座って観た。映画館はとんでもなく混んでいた。ドアが閉まらないほど、観客が溢れていた。

 クライマックスシーン。
 右手に白い包帯を巻いたドラマ―の国分正一(石原裕次郎)はドラム演奏を諦め、マイクを握り歌い出した。
 ♪俺らはドラマ― 
  やくざなドラマ―
  俺らがおこれば 嵐を呼ぶぜ
 場内から沸き起こる拍手喝采。チャーリー桜田(笈田敏夫)とのドラム合戦は、正一に軍配が上がった。

 あの裕次郎はかっこよかったなぁ。
「この野郎、かかって来い! 最初はジャブだ…ほら右パンチ… おっと左アッパー…
畜生やりあがったな、倍にして返すぜ……」
 台詞付きの歌詞はこの原作者でもある井上梅次が手掛け、作曲は大森盛太郎だった。

その他の配役
・バンドの女支配人の美弥子に北原三枝
・正一(裕次郎)の弟・英次に青山恭二
・母親に小夜福子
・英次の恋人みどりに芦川いづみ
・ジャズ評論家・左京徹に金子信雄
・チャーリーの恋人でダンサーのメリーに白木マリ

×  ×  ×

『嵐を呼ぶ男』を観たのは、草野10歳だった。以来、監督の井上梅次は「うめじ」と読むと思い込んでいたのであります。お恥ずかしい(*^o^*)

2010年2月19日金曜日

玉置宏:歌先案内人Ⅲ

歌のアルバム19年・1000回

 歌謡曲の前奏の名調子を生かすべく玉置宏は、1958年(昭和33年)に文化放送を退社し、局アナからフリーに転身した。三橋美智也などの歌謡ショーの司会をしていた彼は、同年からTBSで歌番組「ロッテ歌のアルバム」の司会者に迎えられた。

 お口の恋人 ロッテ提供「ロッテ歌のアルバム」
 1週間のご無沙汰でございました
 玉置宏でございます
 歌とともに 数多くの思い出を 育むことができました
 そんな思い出には いつも懐かしい歌が そっと寄り添ってくれています
 胸の思いが 溢れそうになると
 あの日の思い出に 耳を傾けたくなるものでございます
――ロッテ歌のアルバム 玉置宏監修 コロムビア編

 こんな名調子で彼の名は全国区になっていった。橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦の御三家の登場で、番組の人気はピークに達した。「歌のアルバム」を19年間、1000回を機に勇退する。

 数々の長寿番組を務めている。
・象印スターものまね大合戦(NET=テレビ朝日1967年 ― 1977年)
・にっぽんの歌(テレビ東京1967年-―1977年)
・玉置宏の笑顔でこんにちは(ニッポン放送1978年―1996年)

 また落語通と知られ、1996年からはNHK第1で「ラジオ名人寄席」の『席亭』を務めた。番組は2008年まで続いたが、放送許諾のない音源を使用したことが問題となり、玉置は責任をとり降板している。
 2003年には横浜にぎわい座の館長に就任した。

 日刊スポーツ紙上で『娯楽 極楽 お道楽』という芸能コラムを担当している放送作家の高田文夫が2010年2月15日付で、
――玉置さんほど大衆芸能を心の底から愛した人はいない。(中略)大衆芸能にとって図書館、資料館100館失ったに等しい。
と書き、評価した。

 玉置宏――あの名調子は一代の芸であった。(おわり)

×  ×  ×

 県立川崎高校の大先輩である玉置さんには親しみを感じていた。かつて歌手をもてはやし『ごますり』など揶揄されたこともあったが、あれって歌い手を気分よく歌わせるためには、どんなことでもしようという司会者の心得であり、お客さまへのサービスだったと思う。腹の据わった御仁だった、と草野球音は看破する。

2010年2月17日水曜日

今野 敏「隠蔽捜査」

   今野敏の「隠蔽捜査」(新潮文庫)を読む。シロイヌ。

 事件を直接追う刑事でなく警察庁長官官房の総務課長、いわゆるキャリアの竜崎伸也が主人公である。変人と周囲から言われる彼は、国家を守るためには身を捧げると、考えている。原理原則を大事に、己の正しいと思う道を進む。職務に忠実にあろうとする。東大出身で、東大以外の大学出身などキャリアに必要ないと思うような男だ。
 そんな男の前に警察本体の屋台骨を揺り動かす事件が、また私生活でもトラブルが起る。

2006年吉川英治文学新人賞受賞作品。
 隠蔽捜査シリーズとして3作発刊されている。
・隠蔽捜査
・果断 隠蔽捜査2
・疑心 隠蔽捜査3

「裏隠蔽捜査シリーズ」、竜崎の幼馴染で警視庁刑事部長の伊丹俊太郎を主人公としたスピンオフ作品が存在する。
・冤罪
・試練
・指揮
・初陣

×  ×  ×

今野敏を読むのは初めてだった。
テレビのTBS刑事ドラマ『ハンチョウ 神南署安積班』を観て、
読んでみようと思った次第。
班長の安積を佐々木蔵之介が演じているヤツ。
あれって、配役に目玉のスターがいなくて地味だけど、
なかなかの観応えなので、
きっと原作がいいとにら(睨)んでいた。
案の定シロイヌ(尾も白い⇒面白い)だった。

2009年2月14日読了隠蔽捜査 (新潮文庫)

2010年2月16日火曜日

玉置宏:歌先案内人Ⅱ

才能見出した三橋美智也

 歌謡曲の前奏の名調子で知られる玉置宏は、1956年(昭和31年)に明治大学商学部を卒業し文化放送に入社した。

 大学の同級生に岡山東商業高校出身で甲子園経験もある硬式野球部員がいた。島岡吉郎率いる明治大学に在学中3度の六大学リーグ優勝をもたらしたエース秋山登と女房役の土井淳だった。バッテリーはそろって1956年、大洋ホエールズに入団した。大洋の本拠地は川崎球場であった。
 父親は深川生まれの江戸っ子だが、玉置は生まれも育ちも川崎である。地元であり、「白雲なびく駿河台」と校歌を歌った仲間の秋山と土井がいる大洋の大ファンとなった。
 1960年に知将・三原脩を監督に迎えた大洋は球団創設初のリーグ優勝を果たし、勢いを駆って日本シリーズに臨み、下馬評で圧倒的不利な大毎オリオンズに4戦全勝と日本一に輝いた。友人の秋山は全4戦に登板し16回3分の1を1失点の好投をみせた。
 1978年川崎から横浜に本拠地をかえ横浜大洋ホールズとなり、さらに横浜ベイスターズとチームは変遷し経営母体が変わっても、玉置は球団を愛し続けた。が、以来優勝とは縁の遠かった。
 1998年大魔神・佐々木主浩の活躍でリーグ優勝したとき、玉置はテレビ朝日の「ニュースステーション」に出演し「38年ぶりのご無沙汰でした」と万感の思いで挨拶したのだった。

×  ×  ×

 さて、『歌先案内人』の玉置宏の本筋に戻ろう。
 文化放送を2年で退社し、1958年にフリーとなった。局アナからの転身は当時のスター歌手、三橋美智也の勧めを受けてのものだった。

 遠ざかってく 街灯(まちあかり)に
 そっと告げ行く 別れの言葉
 視野の向こうに テールランプが 
 滲んで溶けてゆきます
 「哀愁列車」
 三橋美智也さんです……
――YouTube1978年12月31日『きらめく日本の歌声』=三橋美智「哀愁列車」

 作詞は横井弘、作曲は鎌多俊与だった。
 ♪惚れて 惚れて
  惚れていながら 行く俺に
  旅をせかせる ベルの音
 名曲だよね。歌詞がしびれますなぁ。
 恐らく、こんな風に気分よく三橋に歌ってもらうお膳立てをしていたのだろう。三橋によって、前奏でのナレーションの才能を見出された。

 1958年からTBS歌番組「ロッテ歌のアルバム」の司会を務めることになる。ここでの「1週間のご無沙汰でした」の名フレーズは、玉置の名刺代わりとなった。(つづく)

2010年2月13日土曜日

玉置宏:歌先案内人Ⅰ

生家は川崎の米屋
 
 歌番組の軽妙な語りや歌謡曲の前奏部の名調子で知られる司会者の玉置宏(たまおき・ひろし)=本名・玉置宏行=が2010年2月11日亡くなった。76歳だった。

×  ×  ×

 旅に出たのは 何故だと尋(き)かれ
 ひとりぼっちは 何故だと尋かれ
 涙がひとつ 答えてる
 遠く煌(きら)めく 灯台だけが
 私の恋を 知っている
 旅に疲れた 女がひとり
 「津軽海峡冬景色」
 石川さゆりさんです……
――都築響一著「夜露死苦現代詩」

 1週間のご無沙汰でした
――ロッテ歌のアルバム

 残しておきたい 江戸情緒 
 下座のお囃子 寄席幟(のぼり)
 ラジオ名人寄席
 私は席亭の玉置宏でございます
 ご来場まことにありがとう存じます
――ラジオ名人寄席

 流麗で無駄のない七五調はまさに『言霊』。発した言葉に魂が宿り、ひとり歩きしている。

×  ×  ×

 神奈川県川崎市出身。県立川崎高校―明治大学商学を卒業し、1956年に文化放送にアナウンサーとして入社。1958年にフリーに転身し、司会業で活躍した。
 父親は下町・深川生まれの江戸っ子。歯切れよく、よどみのない江戸言葉は寄席と父親の影響。川崎駅東口にほど近い米屋が生家だった。

 美空ひばりに『車屋さん』という曲がある。
 ♪ちょいとお待ちよ 車屋さん
  お前見込んで
  たのみがござんす この手紙
 作詞・作曲ともに米山正夫である。玉置が司会する番組のリハーサルでは、この『車屋さん』を『お米屋さん』と歌い茶目っけを発揮した、と玉置が美空ひばりを追悼したテレビ番組で述懐していた。
 玉置が川崎の米屋なら、美空は横浜の魚屋の娘だった。
 育った環境に親近感があったようだ。(つづく)

2010年2月11日木曜日

立松和平とお国訛り考

誠実さを醸す笠智衆
 環境保護活動などでも知られる作家の立松和平(たてまつ・わへい、本名・横松和夫)が2010年2月8日亡くなった。62歳だった。テレビ朝日の報道番組「ニュースステーション」のリポーター役として、朴訥とした栃木訛りの語りが印象に残る。宇都宮市出身。

×  ×  ×

 栃木訛りといえば、『ミッチー』で親しまれた政治家の渡辺美智雄(みんなの党代表・渡辺喜美の父)が有名だが、その他にも、
・ガッツ石松:元WBC世界ライト級チャンピオン。OK牧場のギャグあり
・つぶやきシロー:最近ムカついたことなど、あるあるネタで一時は売れっ子
・東京ボン太:唐草模様の風呂敷が懐かしい。「夢もチボーもないよ」
・U字工事:「ごめんね、ごめんね」のギャグ。栃木を自慢したり自虐的に語る漫才
と挙げられる。

×  ×  ×

 お国訛りはその人を誠実に見せる――草野の私見だが、この場合、メジャーな都市の東京弁、大阪弁、京都弁は除く。大都会に対するマイナーな県、『田舎』(語弊があるかもしれないが)の訛りでなくてはならない。

×  ×  ×

 笠智衆は熊本訛りがあってこそ、『映画俳優・笠智衆』なのではないか。熊本県玉名郡玉水村のお寺の生まれで、本名だそうだ。生涯抜けなかった訛りがその台詞回しの特徴となった。小津安二郎監督作品『東京物語』の平山周吉役や、山田洋次監督作品の『男はつらいよ』シリーズの御前様役も、誠実で実直な役の性格を、独特の語りで引き出し、余人に代え難い芸となった。

 黒澤明の監督デビュー作「姿三四郎」で主演した俳優・藤田進は福岡県久留米市出身で、訛りがあった。いかつい風貌と男性的な福岡弁が戦争映画に多く起用され『軍人俳優』と呼ばれたこともあった。

×  ×  ×

 ふるさとの訛りなつかし
 停車場の人ごみの中に
 そを聴きにゆく
――石川啄木の歌集『一握の砂』

2010年2月9日火曜日

夕焼小焼で日が暮れて

親父は胸やけだった

 最近、なぜか井上陽水を聴いている。で、気になったことがある。
 ♪仲良しこよしは 何だかあやしい
  夕焼け小焼けは それより淋しい
 彼が作詞・作曲した『青空、ひとりきり』の歌詞だ。

 この「小焼け」ってどんな意味なのだろうか。ネットで当たってみると、どうやら「夕焼けがだんだん薄れること」だそうだ。語調を整え韻も踏んでいて、「夕焼け小焼け」は語呂もいい。

 ♪夕焼小焼で日が暮れて
 山のお寺の鐘がなる
の童謡『夕焼小焼』は、1919年(大正8年)に発表された中村雨紅(なかむら・うこう)の詞に、草川信(くさかわ・しん)が1923年(大正12年)に曲をつけた。

 ちなみに『赤とんぼ』にも出てくる。
 ♪夕焼小焼の 赤とんぼ
 負われて見たのは いつの日か
 こちらは、三木露風(みき・ろふう)の作詞で、作曲は山田耕筰である。1921年(大正10年)に露風が作った詞に、1927年(昭和2年)に山田耕筰が曲をつけた。

×  ×  ×

 ♪俺が夕焼けだったころ
  弟は小焼けだった
  お袋は霜やけで
  親父は胸やけだった
なんて、指パッチンをしながら歌ったのは、松鶴家千とせ(しょかくや・ちとせ)。一世を風靡したシュールな芸風だったなぁ。

 ところで、千とせ師匠、知っていますか?

 わかるかなぁ~。わかんねぇだろうなぁ~。いぇーい(*^^)v

2010年2月6日土曜日

居眠り磐音「更衣ノ鷹」下

さて続編の展開はいかに

 佐伯泰英の“居眠り磐音江戸双紙シリーズ第32弾「更衣ノ鷹」(下)”(双葉文庫)を読む。シリーズ初の上下巻構成となっている、その下巻。徳川11代将軍と目された家基の死――最大のクライマックスを迎える。

×  ×  ×

 佐伯泰英が『あとがき』で記している。この稿を書くにあたり、久々にイタリア、フランスを旅して鋭気を養ったという。

 神保小路の尚武館という後ろ盾を失った佐々木磐音の前途は……。
 おこんを巡り新しい希望が芽生えたことを暗示するが……。
 さて32巻までよくぞ続いたシリーズ、今後どんな展開になるだろうか。「シリーズ完結50巻」と巷説されているが、読者としてさらなる健筆を期待したい。
2009年2月5日読了更衣ノ鷹(下)ー居眠り磐音江戸双紙(32) (双葉文庫 さ 19-36)

引き際は栃錦のように

散る花の美意識

 引き際は栃錦のようにありたい。
 横綱・朝青龍の引退会見をテレビで観ながら、栃錦を思い出していた。

×  ×  ×

 相撲界の黄金期「栃若時代」を築いた第44代横綱、栃錦清隆が引退したのは、1960年(昭和35年)夏場所だった。初日、2日目と連敗したところで引退を表明した。
 それは衝撃的だった。まだ看板横綱を張れる実力者だったからだ。惜しむ声があがり、潔さに称賛の声に変わった。
 世間が驚いたのは、先の春場所に史上初の14勝同士で千秋楽対決し、一方の横綱・若乃花に敗れはしたものの堂々の14勝1敗。栃若対決の死闘の余韻が残るなかの引退表明だった。
 1958年(昭和33年)後半不調に陥り、九州場所は休場した。翌34年の初場所に復帰したが10勝5敗だった。限界説が流れたが、春場所に見事に復活し優勝(14勝1敗)を飾った。奇跡と言われた優勝だった。
 その後の引退までの成績は、
・春場所 14勝1敗優勝
・夏場所 14勝1敗
・名古屋場所 15勝全勝優勝
・秋場所 12勝3敗
・九州場所 12勝3敗
・初場所 14勝1敗優勝
・春場所 14勝1敗(若乃花に千秋楽の全勝対決に敗れる)
と7場所で95勝5敗、勝率は9割0分5厘と驚異的だった。

 満開に咲き誇る桜が散るような趣だった。
 出処進退は自ら決めるものという美意識が日本人には古くから在る。ここぞと思う引き際にスパッと辞める決断に、男=武士(もののふ)の心を感じるのではないか。

 優勝回数10回。殊勲賞1回。技能賞9回。永らく3場所制で、1953年から1957年まで4場所制、1958年は5場所制を経て年6場所制になっている。小結―大関時代に5場所連続で技能賞を獲得した『技の展覧会』と言われ技能力士だったが、横綱昇進後に正攻法の押し相撲を取るようになった。

×  ×  ×

 栃錦の得意技は左四つ右からの上手出し投げ。一方の若乃花は豪快な上手投げだった。ガキのころよく相撲を取ったなぁ。近所の空き地で相撲を取る子どもを見かけたものだ。あの子はどこに行ったやら……。

 栃錦の引退に、中学生になったばかりの草野球音は感動した。引き際はかくありたいと思い続けていた。

2010年2月4日木曜日

益戸育江:ドラマ『相棒』

宮部たまきの本名!?
  知っている人には、すでに旧聞に属する話かもしれない。

『宮部たまき』って女性を知っていますか?
 テレビ朝日の人気刑事ドラマ『相棒』の登場人物です。主人公の警視庁特命係警部・杉下右京の元妻で、小料理屋『花の里』の女将です。細身にすっきり着こなした和服が凛とした雰囲気を醸し出しています。筋書きとは直接関わりのない『花の里』のシーンですが、ドラマのアクセントになっていますよね。

 彼女は高樹沙耶(たかぎ・さや)って芸名でしたよね。2月3日放送の『相棒』を観て、気が付いたのですが、今は益戸育江サンって名乗っているのですね。本名とのことですが……。
 調べてみたら、自身のホームページで2008年9月26日に高樹沙耶の名前を返上しますという「お知らせ」がありました。

――私はフリーダイビングという究極の世界へのチャレンジにより、理屈ではなく地球の素晴らしさ、生命の尊さを学びました。そして私の人生においてこうした時間を過ごしている時が最も喜びに満ちていました。
 そこで再び、素のままの自分に戻り、私が学んだ自然の素晴らしさを多くの方と感じ合える人生を築いて行こうと思っております――と、芸名返上を説明していました。

『宮部たまき』は『益戸育江』って言うのですね。1年余前から。
 そんなこととうの昔に知っている?
 お呼びでない?……お呼びでないね。こりゃまた失礼しましたm(_ _)m

2010年2月2日火曜日

雄星よ歴代左腕に伍せ

末は金田正一か、江夏豊か

 プロ野球がキャンプインした。テレビのスポーツニュースでは、岩手・花巻東高校から埼玉西武ライオンズに入団した新人、雄星(菊池雄星)のキャンプ初日の投球練習に時間が割かれ、注目度が高い。
 テレビ画面を凝視してしまった。大きなテークバックから柔らかな、ゆったりしたフォームで投げていた。美的で完成度の高い投球フォームに大物感が漂う。「ホンマモンのサウスポー」と草野球音は思う。末は金田か、江夏か、先を急ぐようだが、期待を抱かせる。

×  ×  ×

日本プロ野球史上で200勝以上を記録した左腕(所属は最終在籍球団)
① 金田正一(巨人)400勝298敗
② 鈴木啓示(近鉄)317勝238敗
③ 梶本隆夫(阪急)254勝255敗
④ 工藤公康(西武)224勝140敗3セーブ★
⑤ 中尾硯志(巨人)209勝127敗
⑥ 江夏 豊(西武)206勝158敗193セーブ
⑦ 山本 昌(中日)205勝159敗5セーブ★
と7人(★は現役)でいずれも劣らぬ名左腕である。ちなみに200以上の勝星をあげた投手は歴代で23人いる。

 金田の400勝は凄い。20勝を20年連続で稼いで達成できる記録と考えると、今後も破られそうにない。400勝のうち352勝を万年Bクラス球団の国鉄で記録している。通算の奪三振4490も日本記録。金田に対抗する左腕は江夏だろう。先発で206勝、抑えで193セーブという記録はなかなか出来ない芸当である。1968年の1シーズン奪三振401は日本記録。
 敗戦が勝星を上回る梶本は9連続奪三振の記録を持つ速球が持ち味だった。江夏とは対照的に先発型を通した『草魂』の鈴木、制球難の剛球が売り物だった巨人の二軍監督を務めた中尾と、多彩なサウスポーが並ぶ。

 ちなみに歴代奪三振10傑(+左腕)を並べると
① 金田正一(巨人)4490+
② 米田哲也(阪急)3388
③ 小山正明(大洋)3159
④ 鈴木啓示(近鉄)3061+
⑤ 江夏 豊(西武)2987+
⑥ 梶本隆夫(阪急)2945+
⑦ 工藤公康(西武)2852+
⑧ 稲尾和久(西鉄)2574
⑨ 村田兆治(ロッテ)2363
⑩ 村山 実(阪神)2271
となり、左腕の健闘が目立つ。そして
⑪ 小野正一(中日)2244+
⑫ 山本 昌(中日)2192+
と続く。小野は大毎、大洋、中日で登板し184勝で稼いだ速球派だった。

×  ×  ×

 雄星に望むのは、速球派の三振の取れるサウスポーである。

2010年2月1日月曜日

三國連太郎&八千草薫

1954年東宝「宮本武蔵」
 どうでもいいことなんだろうけど、気になるので走り書き――。
「飲むヒアルロン酸」皇潤のテレビCM。三國連太郎と八千草薫の共演した映画が紹介されているヤツだ。ふたりの初共演した1954年作品『宮本武蔵』と字幕スーパーが出ている。
 あの映画は1954年(昭和29年)の東宝作品で、主役の武蔵は三船敏郎が、三國は武蔵の幼馴染の又八、八千草はお通を演じている。監督は稲垣浩。ウィキペディアによると、アカデミー賞外国語映画賞名誉賞を受賞したとか。
・続宮本武蔵 一乗寺の決闘(1955年)
・宮本武蔵完結編 決闘巌流島(1956年)
と3部作構成となっている。三船の武蔵と巌流島で対決する佐々木小次郎役は鶴田浩二だった。

 ちなみに東映では内田吐夢監督で武蔵に中村錦之助を擁して5部作がある。このときの小次郎は高倉健だった。お通は入江若葉、又八は木村功で、三國連太郎はこの映画では沢庵和尚で出演している。

×  ×  ×

 というわけで、日本人離れした彫りの深い三國連太郎と、可憐な八千草薫がCMに登場している。ふたりともやたら若いのに驚く。昔の銀幕のスターはやはり美男美女ですなぁ。