2008年7月29日火曜日

「ヴ」考案は福澤諭吉

英語の先駆者

 高校野球で慶応高校が、北神奈川県予選を勝ち抜き、夏の甲子園出場を46年ぶりに果たした――というわけで、半ば強引に、慶応義塾の創始者である福澤諭吉の小ネタである。
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 英語の「V」の発音を、「ウ」に濁点をつけた「ヴ」と表記することを初めて考案したのは、福澤諭吉(1835年―1901年)だという。
 万延元年(1860年)、彼は「華英通語」という本を出版した。英語と中国語との対訳の単語短文を日本語に訳したもので、英語の発音をカタカナで表記している。ここで、「ヴ」という表記が本邦初登場した。「ブ」との発音の差異を明確にしたわけで、さすが先駆者は賢いと感心したことがある。
 諭吉は安政6年(1859年)、開港したばかりの横浜を訪れている。横浜は日米修好通商条約締結(1858年)後に開かれた5つの港(箱館、新潟、神戸、長崎、横浜)のひとつだった。横浜は、江戸に隣接し防衛上の問題から東海道の神奈川宿に外国船の発着を避けたい幕府の要望で、宿場とは離れた寒村に港を築いた。なにもないところに忽然として外国文字の店が建ち並ぶ、不思議な空間がそこにあった、と想像する。
 大坂の緒方洪庵(1810年―1863年)の適塾で蘭学を学びオランダ語に通じていた彼は、腕試しとばかりに興味深く街を歩いたが、店の看板、行き交う人の言葉を、さっぱり理解できなかった。衝撃を受ける。英語を知らなければ、世界に通用しないことを悟ったのだった。
 翌日から彼の英語学習は始まった。
 万延元年(1860年)、日米修好通商条約批准のため、日本初の遣米使節団として、咸臨丸勝海舟ジョン万次郎らと渡米する。

2008年7月27日日曜日

川本幸民ビールの味

黒船期に試醸

 冷えたビールが旨い今日この頃です。(「季節に関係なく、年がら年中、旨いと言って飲んでいる」、との陰の声あり)。さて、揃って食事となれば、「とりあえずビール」となりますなぁ。これを英語で言えば、
We’ll start with beer.
となると、NHK語学講座「英語が伝わる!100のツボ」で“楽習”しました――「シュダヴは後悔の表現」(2008年6月29日)。

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 ぶらり散歩に出る。
 横浜は、あの生麦事件のあった鶴見区生麦のキリン横浜ビアビレッジ(京浜急行の生麦駅から徒歩10分)である。
 1時間のブルワリーツアー(工場見学)に参加した。ビールの製造工程(原料、仕込み、発酵・貯蔵、ろ過、パッケージング)を女性ガイドが案内してくれる。最後の20分は出来たてのビールの試飲(大きなビアグラスで2杯までOK)ができる。無料なので、これは夏の時間つぶしの穴場といえる。

 さて、このビールを初めて醸造した日本人は、川本幸民(1810年―1871年)という蘭学者だった。化学の実験で試醸したのだが、幸民は自分で醸して飲みたい気持ちがあったのではないか。彼は飲兵衛だったという。
 このビールの試醸は、黒船来航の嘉永6年(1853年)頃だった。当時、西欧でよく読まれていた、ドイツの農芸化学書のオランダ語版を自ら翻訳した「化学新書」を手に、江戸・芝露月町の私宅で作ったビールはどんな味だったろうか。
 
 1810年(文化7年)摂津国有馬郡三田藩(兵庫県三田市)の藩医の子として生まれる。幼少の頃から勉学に励む。江戸に出てオランダ医学を学び、後に物理・化学を分野まで精通する、著名な蘭学者となる。学識を買われ、薩摩藩に迎えられている。
 化学という言葉を初めて使った人としても知られ、マッチ、銀板写真の製作なども手掛けていて、西欧の文化を幕末、明治維新期の日本に紹介することで大いに貢献した。偉大な学者だった。

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 日本での本格的なビール醸造は、文明開化の横浜から始まった。
 1870年(明治3年)、アメリカ人のウィリアム・コープランド(1834年―1902年)が横浜居留地・山手123番(現在の中区、北方小学校付近)に「スプリング・バレー・ブルワリー」を創設し、日本で初めて商業的にビールを醸造した。客は主に居留地の外国人だった。その後、麒麟麦酒の前身「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」に引き継がれ、1888年(明治21年)「麒麟ビール」が全国に販売された。
 1923年(大正12年)の関東大震災で、山手工場が破損したため、生麦に工場を移転し、今日に至っている。

 キリン横浜ビアビレッジの見学コース入り口から徒歩3分ほどのところに、あの「生麦事件」のあった場所を示す石碑が、よく見ないと通り過ぎるほど地味に建っている。薩摩藩士がイギリス人を殺傷した事件である。文久2年(1862年)のことだった。

2008年7月26日土曜日

キュレーターって何?

curator
 ユースプログレシッブ英和辞典によると、「博物館・動物園などの学芸員」とある。

キュレーター
 デジタル大辞泉によると、「博物館・美術館などの、展示会の企画・構成・運営などをつかさどる専門職。また、一般に、管理責任者」とある。

 

2008年7月24日木曜日

ちあきなおみの「喝采」

伝説の歌手

 喝采は場内を包み、劇場を揺り動かしている。緞帳(どんちょう)が静かに開く。それでも晴舞台に、主は現れない――。
 伝説の歌手、ちあきなおみのことである。
ここ数年、彼女の歌謡が繰り返し話題となり、あの歌唱をもう一度聴かせとほしい、と望むファンは多い。
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「喝采」に出くわした。
 前回の項(写真:スフィンクスと侍=2008年7月22日)の続きである。茂木健一郎、はな、角田光代、荒木経惟の4氏をゲストキュレーターとした横浜美術館の展示会でのこと。
 館内に、ちあきなおみの「喝采」(作詞・吉田旺、作曲・中村泰士)が静かに流れていた。
♪いつものように 幕が開き
 恋の歌 うたう私に
 
 なんで? 
 場違いでは?  
 中島清之の描いた「喝采」の展示を観て、得心が行った。ちあきなおみが「喝采」でレコード大賞を受賞した際、中島清之が描いた作品だそうで、赤いドレスでマイクを手に歌唱している女性歌手の絵だった。
 レコード大賞が1972年(昭和47年)だから、そのあたりに描いた作品だろうか。展示会で絵画よりもBGMの興味を惹かれるのは妙な話だが、その曲が、ちあきなおみだからだろう。
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 巧い歌い手。美空ひばり(1937年―1989年)がテレビのインタビューで、かって語ったことがある。彼女の物真似を問われて、「私の物真似で巧いのは、話し言葉は中村メイコ。歌はちあきなおみが一番ネ」と、太い低い声で応えているのを観たことがある。
 競作となった「矢切の渡し」など、他の歌手には悪いが、情感あり、一番訴えるものがある、と思う。
 水原弘(1935年―1978年)の名曲「黄昏のビギン」(作詞・永六輔、作曲・中村八大)のカバーが、テレビCMに流れことがあった。おミズもいいが、ちあきもいい、と感じ入った。
 1992年(平成4年)、夫の俳優、郷鍈治と死別した。郷が荼毘に付されるとき、棺にすがりつき、「わたしも一緒に焼いて」と号泣したという。以来、芸能活動を断ち、今日に至っている。
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 カムバックの声は、これからも何度となく起こることだろう。
 だが、しかし‥‥。再登場はないのではないか。それだけの思いで、歌を断ったのではないか、と推測する。
 だから、こそ‥‥。ちあきなおみは伝説の歌手となった。

2008年7月22日火曜日

写真:スフィンクスと侍


横浜美術館にて

 大暑。ぶらり散歩に出る。
 横浜・みなとみらいの横浜美術館で、茂木健一郎、はな、角田光代、荒木経惟の4氏をゲストキュレーターとした展覧会を開催(8月17日まで)している。4氏が同美術館のコレクションから選定し、各セクションを構成している。
 横浜市長の中田宏が選定した「この1点!」も紹介されている。
 目を惹いたのは中田市長の「この1点!」だった。1864年(元治元年)、遣欧使節団がエジプトの名所スフィンクスをバックに映っている写真である。150年ほど前の幕末のシロモノで、スフィンクスと羽織、袴の侍の対象が、なんとも面白いのだ。左下に「A.Beato」の署名がある。
 遣欧使節団は、文久3年(1863年)にフランスとの外交交渉のため、フランス艦モンジュ号で横浜を発った。
 1858年に米、英、仏、蘭、露5カ国と貿易を行う修好通商条約を締結したが、日本国内は攘夷の嵐が吹き荒れ、外国人を襲う事件が頻繁であった。幕府は開港をしたものの、世情不安に動揺し、しばらく閉港を願い出る交渉を行うことになった。そのための遣欧使節であったが、結局、交渉は不調に終わる。
 当時、まだスエズ運河は工事中(開通は1869年)だった。
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 A.Beatoはアントニオ・ベアトで、その兄弟はフェリックス・ベアト(F.Beato)である。当時、F.Beatoは幕末の日本に滞在しており、明治初期まで日本の風俗、風景などを撮影している。
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 大暑の横浜・みなとみらいは、スフィンクスが佇むギザの熱風が届いたように、熱かった。
 

2008年7月19日土曜日

瓦版は幕末からの呼称

読売・辻売絵双紙

 江戸時代の新聞といえば「かわら版」である。
 映画やテレビの時代劇では、時代に関わらず「かわら(瓦)版」といっていることが多いが、かわら版という呼称は、幕末以降(明治説もある)になってできたものだ。

 ――赤穂浪士の討ち入り後、翌日の朝に、「さぁさぁかわら版だ。大石内蔵助が主君の仇を討ったとよ。買った、買ったぁ」などと、浪士の活躍を知らせるかわら版が江戸の街中で売られたりするのは、明らかな嘘ということになる。
 そんな速報を伝えるメディアは、事件のあった元禄年間(1688年―1703年)に存在しない。また、当時はまだ「かわら版」とはいわなかった。
 では、なんと呼んでいたのか? 読売(よみうり)辻売(つじうり)絵双紙、あるいは単に絵双紙などと言っていたそうだ。

 かわら版は「瓦の版」で摺ったのだろうか。文字通り、最初は粘土を固め彫刻し焼きあげ、瓦としたものを版木代わりにして摺ったと言われるが、本当にそうなのだろうか、疑問を抱いている。

 現存する最古のかわら版は、元和元年(1615年)5月8日の大坂夏の陣の落城を伝える「大坂安倍之合戦之図」と「大坂卯年図」だと言われている。これは木版摺りだ。

 かわら版が扱った内容は、地震・火事・洪水などの天変地異、心中、仇討ち、犯罪事件から流行の唄本など種々雑多だった。政治ニュースはタブーだったが、幕末の黒船来航時には民衆の「知る権利」が官憲の取締りを凌駕し、禁は破られ、かわら版は大いに売れた。

 値段は、1枚4文から上下四丁の唄本の組物で16文程度、幕末のころには分量や内容が増え25文から30文ほどになったという。

 明治10年の西南戦争ごろまで、かわら版は発行されたが、新聞に取って代わられ、時代から消え去るのである。

2008年7月17日木曜日

新聞の父:ジョセフ彦

浜田彦蔵(はまだ・ひこぞう)

 ジョセフ彦って知っていますか?

 ジョセフ彦(1837年―1897年)は、日本で初めて新聞を発行し「新聞の父」といわれる御仁です。

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 ざっと彼の略歴を紹介する。
 ジョセフ彦は、天保8年(1837年)8月21日、播磨国加古郡(現在の兵庫県播磨町)に漁師の子として生まれる。13歳のとき、海で遭難し約2ヶ月間の漂流の末、米商船オークランド号に救助され、1851年サンフランシスコに着く。1852年、米国政府はこの彦らを日本に送り返し、国交の糸口を掴もうと、ペリー艦隊にマカオで乗船させようとしたが、ペリーの入港が遅れてため、再びアメリカに渡る。
 サンフランシスコで着き、税関長サンダースの知遇を得て、教育を受ける。1854年キリスト教の洗礼を受け、1858年にはアメリカに帰化する。
1859年(安政6年)、21歳でタウンゼント・ハリス(1804年―1878年)に伴われ開国(1858年日米修好通商条約締結)したばかりの日本の地にやって来る。横浜の領事館通訳をしていたが、攘夷の動きが激しく身辺が危うくなり、1861年三度目の渡米。1862年には、米大統領リンカーンと接見する。1862年(文久2年)、南北戦争(1861年―1865年)の米国を後に三度目の帰国を果たす。1963年領事館通訳を辞し、横浜居留地で商売を始める

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 横浜で貿易商を始めたころ、「ニューヨークタイムズ」を目にしてジョセフ彦は、激しく心を揺さぶられた。アブラハム・リンカーンの名演説と、その反響ぶりを伝える記事だった。
 1863年11月19日、南北戦争の激戦地ゲティスバーグで、リンカーンは後世に残る名言を残している“government of the people, by the people, for the people” (人民の、人民による、人民のための政治)――一瞬にして国民に知らしめた新聞という文明の利器の威力に感嘆したのだった。

 知る権利。日本の民衆にも世界の情勢を知らせたい、それには新聞発行が、という思いが広がった。開国間もない日本にその風土はなく、発行は困難を極めた。攘夷を唱える浪士から再び狙われことになった。
 それでもジョセフ彦は新聞作りに励み、ついに元治元年(1864年)6月28日、岸田吟香、本間潜蔵らの助けを得て、発行に漕ぎつけたのだった。手書き5部であった。翌年に木版印刷となり、初版から26号まで発行した。当時100部程度を刷っていた。慶応2年(1866年)の横浜大火で、居留地の4分の1が焼失し、絶版となった。新聞の内容は、海外情報、事件、貿易の状況、金や海外相場、居留地の商店の広告などを掲載した。
 横浜での本拠を失ったジョセフ彦は、商売の拠点を長崎に移した。木戸孝充、伊藤博文、坂本竜馬が訪れ、欧米の政治、経済など情報を入手している。また、英国商館と鍋島藩とを斡旋し、高島炭鉱の企業や、大阪造幣局作りに尽力している。

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 新聞発行をした場所は、横浜・居留地141番地で、現在は中華街となっており、「日本国新聞発行の地」の碑が建っている。
 ジョセフ彦は日本籍の復帰が叶わず、東京・青山の外国人墓地にある。明治30年(1897年)に永眠し、「浄世夫彦の墓」の下に眠る。

2008年7月10日木曜日

堀達之助の英和辞書

 「英和対訳袖珍(しゅうちん)辞書」が世に出たのは、黒船来航から9年後の1962年のことだった。日本で初めて本格的な英和辞書が出版された。編纂責任者は堀達之助(ほり・たつのすけ1823年―1894年)である。
 3万余語におよぶ語数を集め、英蘭辞書をもとに編まれている。袖珍とは、袖(そで)に入るくらい小型のもので、ポケット版の意味だ。徳川幕府洋書調所から刊行された。初版は200部印刷されたが、英語需要が高まり、好評で1866年、1867年、1869年に各1000部以上増刷された。その値段は当初1冊2両ほどだったが、後に「プレミア」つきで1冊20両にもなったという。

 “I can speak Dutch”
(拙者はオランダ語を話せる)
と黒船に向かって叫んだ堀達之助のことは、「泰平の眠りを覚ますⅡ」~黒船通詞・堀達之助~2008年5月25日に記し、何故英語でオランダ語を話せると言ったのか、「当時の堀は英語より蘭語、蘭学一般に通暁していたと推測される」と書いたが、外交的配慮であったという説を読んだので、補足しておく。
 英語で外交交渉をすれば、ネイティブの米国側に有利となり、第3の言語を使う必要があった。対等な立場で交渉を行うべく発した、堀の外交センスが生んだ第一声だったという。事実、交渉はオランダ語で行われた。
 提督マシュー・カルブレース・ペリー(1794年―1858年)の率いる軍艦にはポートマンというオランダ語通訳がいた。

 ちなみに日米和親条約の契約書は、英語、日本語のほかにオランダ語、中国語(漢文)の4カ国語が存在する。黒船の中国語通訳は、中国在住歴20年という宣教師のウィリアムズがいた。

 ペリー来航当時、日本で英語を最も理解し話したのは、中浜(ジョン)万次郎(なかはま・まじろう=1827年―1898年)であり、森山栄之助(もりやま・えいのすけ=1820年―1871年)であった。
 海で遭難し米捕鯨船に救助されアメリカにわたり、英語教育を受けたジョン万次郎を通訳に起用しようとの案もあったが、スパイではないにしろ長らくのアメリカ暮らしでアメリカ不利なことは避けるのではないか、という懸念があり、幕閣は通訳に踏み切れなかった。
 森山栄之助は長崎出身で、代々オランダ通詞の家系に生まれ、幼少からオランダ語に馴染み、漂着した米人ラナルド・マクドナルドからネイティブな英語を学んだ。ペリーも森山の存在を知っており、来航時の通訳は彼が務めると思っていた。ところが、同じ時期にロシア船が長崎に来航しており、その対応に追われ、黒船での通訳はできなかった。ペリーが二度目の来航した、翌1854年(嘉永7年)には(このとき日米和親条約は締結されたのだが)、通訳を務めている。父・源左衛門は通訳の最高位の大通詞だった。

 オランダ通詞の職制は大通詞、小通詞、稽古通詞に大別され、そのほかに私的通訳として内通詞がいた。

 堀達之助は、30歳で黒船来航に遭い、そのとき小通詞であった。