2007年9月29日土曜日

味のある池波正太郎

 横山秀夫から池波正太郎へ飛ぶ。
 最近とんとご無沙汰だが、池波正太郎*が好きだ。「鬼平犯科帳」(文春文庫)「剣客商売」(新潮文庫)「仕掛人・藤枝梅安」(講談社文庫)の3大シリーズは読んでいる。なかでも「鬼平」がいい。以下は1993年1月(平成5)大衆かわら版に掲載した小欄を、厚顔にもそのまま再現する。「味のある鬼平シリーズ」という見出しがついている。

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 「さらば鬼平」が売れている。池波正太郎の「鬼平犯科帳24」(文藝春秋)は文庫部門のベストセラー1位(三省堂神田本店)。時代小説作家の池波さんが亡くなったのは、1990年(平2)。24巻は鬼平シリーズ最終の巻となる。雑誌「太陽」(平凡社)でも2月号は、池波正太郎さんの特集を組んでいる。死して4年、ちょっとしたブームだ。
 鬼平とは長谷川平蔵の愛称で、火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)の長官だ。優れた剣さばきと鋭い勘ばたらき(推理)で、盗っ人たちと対決、難事件を解決する。先代の松本幸四郎さん(のちの松本白鸚)や、その息子の中村吉右衛門さんがテレビで、粋に人情たっぷりに演じている。
 鬼平が火盗改の長官の座に就いたのが42歳の時。田沼意次の賄賂政治が終わり、松平定信の寛政の改革が始まった。徳川11代将軍、家斉の時代。実在の人物だ。以後8年間務める。剣は一刀流。愛刀は父から譲り受けた粟田口国綱(あわたぐちくにつな)。四百石の旗本としては行儀の悪い寝たばこが癖。銀煙管(ぎんぎせる)も父の遺品。若い自分は“本所の鉄”(幼名鉄三郎=鉄三郎)といわれる不良だった。
 市井に通じた酒食も魅力だ。白粥に梅干が朝の定番。兎汁(うさぎじる)や軍鶏(しゃも)鍋の肉食もいける。喜楽せんべい(もち米を薄く軽くカメの形に焼き、上質な白砂糖をぬったもの)も好物。シリーズに登場する料亭・料理屋は50軒、そば屋36軒、茶店34軒、菓子舗26軒もあるそうだ。まさに“鬼平料理帳”である。
 鬼平オタクである。シリーズはすべて読んだ。文庫1~24巻まで収められている作品は、長短編合わせて132に及ぶ。1968年(昭43)に登場して以来、いまだに読者の支持を得る。最近、“前世”は鬼平ゆかりの人間ではないかと思うほどだ。だれだい、お縄になった盗賊じゃないか、と悪口を言うのは。

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 小欄から14年も経つ。池波作品を読み直してみたいと思っている。新たな発見があるかもしれない。
 球音が読んだ鬼平関連本は、
「鬼平犯科帳の世界」
「鬼平料理長」
「鬼平犯科帳」お愉しみ読本(いずれも文春文庫)など。

*池波正太郎(いけなみ・しょうたろう):1923年(大正12)~1990年(平成2)。下町浅草生まれ。幼い頃からの映画好き。兜町の株式仲買商の店員、戦後は東京都職員を経験した。1960年に「錯乱」で直木賞を受賞。食通、映画評論家として有名。

2007年9月27日木曜日

面白い横山秀夫

 デジタル大辞泉(小学館)を引く。
 悠々自適:世間のことに煩わされず、自分の思いのままに暮らすこと。
 三昧:仏語(フランス語ではない=笑)、心を一つの対象に集中して動揺しない状態。雑念を去り没入することで、対象が正しくとらえられるとする。(接尾語として)そのことに熱中するという意味。読書三昧で暮らす、など。

 故あって逼塞(ひっそく)した。隠居にして覆面雑文屋である草野球音は日がな一日、読書に時間を費やすことが多い。傍目には羨ましい「悠悠自適の読書三昧」と思われがちだが、いやいや、自身はまだ多少の山っ気もあり充足感のない日々でもあるのだ。が、本を読むことで救われる一面もあることは事実である。

 古いに日本映画の次は、球音の読書傾向などを記す。好みは池波正太郎、藤沢周平などの時代小説であるが、この項は横山秀夫である。
 つい最近「臨場」(光文社文庫)を読んだ。面白い。臨場とは、警察組織では事件現場に臨み初動捜査にあたることをいう。捜査一課の調査官で「終身検視官」の異名をとる倉石義夫が死者からメッセージを読み取り事件を解く。異能というべき特殊な目をもつ倉石は組織に媚びない一匹狼だが、人間味のある男で魅力的だ。「赤い名刺」など8短編を一気に読んでしまった。
 横山秀夫(よこやま・ひでお)は、1957年(昭和32)生まれ、警察小説の書き手と知られる小説家である。経歴などファンには釈迦に説法は承知の上で、ざっくり説明する。上毛新聞社で12年間の記者生活を経験した。1991年(平成3)に「ルパンの消息」でサントリーミステリー大賞佳作となり、その後「陰の季節」「動機」など評判作を世に出し売れる作家となった。2003年(平成1)「半落ち」が直木賞候補となったが、現実性に欠けるとの評が持ち上がり落選している。

 球音が読んだ横山作品は、
「陰の季節」(文春文庫)
「動機」(文春文庫)
「出口のない海」(講談社文庫)
「深追い」(新潮文庫)
「第三の時効」(集英社文庫)
「影踏み」(祥伝社文庫)
「顔」(徳間文庫)など。
 直木賞の件はともかく読んでも面白い作家であることは間違いない。

2007年9月26日水曜日

大蔵貢から近江俊郎

 連想は大蔵貢から近江俊郎へとさらに続く。
 ハマの隠居、草野球音は川崎生まれ。生家は商店街にあり、徒歩3~5分の範囲に3つの映画館があった。東映と日活、大映と東宝、松竹と新東宝というセットで上映する二番館であった。パチンコ屋も3,4軒あり、子供の育つ環境としてはけしてよくはないが、そんな街を愛していた。小学校4年生ぐらいからひとりで映画を観に行くませた餓鬼だった。蜘蛛巣丸太の主の生い立ちがこの連想ゲームの背景にあるのだ。
 6つの会社の映画を観ていたわけだが、子供心にも新東宝の作品はなんとなく安直で、あざといものが多い印象で、とりわけ前田通子、三原葉子、万里昌代らのバンプ女優*の作品は劣情をそそるものがあった(笑い)。

 さて「妾(めかけ)を女優にした」発言の名物社長である大蔵貢の実弟が近江俊郎である。1918年(大正8)―1992年(平成4)。歌手であり、作曲家であり映画監督であった。 往年の大スターでありながらも気さくな性格が茶の間に受け、晩年は歌番組の審査委員などで活躍した。戦前からの歌手で、古賀政男門下生で「湯の町エレジー」をはじめ「別れの磯千鳥」のヒット曲を残している。岡晴夫、田端義夫と戦後三羽烏といわれた。

 映画監督として24本の作品を作っている。なかでも球音少年が好んだのは高島忠夫主演の「坊ちゃん」シリーズといわれる喜劇物だ。「坊ちゃんの逆襲」「坊ちゃんの特ダネ記者」「坊ちゃんとワンマン親爺」、由利徹*主演の「カックン超特急」などを撮っている。

 近所に3つあった映画館だが、まず最初に閉館となったのは「松竹と新東宝」を上映していた小屋だった。木久扇から端を発した連想ゲームは今回で終わり、日本映画の話はまたの機会に回したい。

バンプ女優:男を惑わす女。専らそのような役をする女優。
由利徹(ゆり・とおる):喜劇俳優。1921年(大正10)―1999年(平成11)。南利明、八波むと志と脱線トリオを結成、人気を博す。「カックン」「おしゃまんべ」など当たりギャグがある。

2007年9月25日火曜日

アラカンから新東宝

 新東宝って映画会社を知っていますか。
 草野球音の連想ゲームは続く。前回の「木久扇から片岡千恵蔵」の項で戦前からの剣戟六大スターのなかにアラカンこと嵐寛寿郎(あらし・かんじゅうろう)が登場したが、「新東宝」の連想に至った。

 新東宝は1947年(昭和22)から1961年(昭和36)までの14年間に500本以上の映画を製作、日本映画史にうたかた(泡沫)と消えた映画会社である。設立初期(1952年)には「西鶴一代女」(溝口健二監督)のような傑作も出したが、1955年に大蔵貢氏*(歌手・近江俊郎の実兄)が社長に就任後は、エログロに路線変更した。そのなかにあって、金のかけない映画作りで評判だった新東宝が当時1億円という多額の製作費で作った異色作品が「明治天皇と日露大戦争」だった。明治天皇を演じたのがほかならぬ嵐寛寿郎である。「日本映画界初の天皇俳優」(1957年・渡辺邦男監督)となった。アラカンは新東宝の大御所スターだった。興行的にも大当たりした。

 球音の子供時代に印象に残った新東宝作品は、「明治天皇と日露大戦争」のほか宇津井健の「スーパージャイアンツ」シリーズ*、小畠絹子の「女競輪王」などである。男優では高島忠夫、天地茂、丹波哲郎、菅原文太、吉田輝雄、寺島達夫、女優では前田通子、久保菜穂子、池内淳子、三原葉子、万里昌代、高倉みゆき、大空真弓、三条摩子(大映移籍後に三条江梨子と改名)が挙げられる。
 大蔵貢の逸話が面白い。「女優をめかけにした」と雑誌に報じられた件の記者会見で、「女優をめかけにしたのではない。めかけを女優にしたのだ」とぶったのである。
 
 さて、そこで問題です。上記の女優陣のなかにその該当者がいますが、誰でしょうか?

大蔵貢(おおくら・みつぐ):1899年(明治32)―1978年(昭和53)。活動写真弁士から日活を経て、1955年新東宝を買収し社長就任。退任後、大蔵映画を設立。
スーパージャイアンツ:1957年~59年の特撮映画。主人公の宇宙人の名称で、宇津井健が主演した。全部で9作品製作され、1~6作が石井輝男監督。宇津井さんの股間もっこりのタイツ姿が妙に懐かしい(笑い)。

2007年9月24日月曜日

木久扇から片岡千恵蔵

 連想には個人差が出る。それは過言すれば、人生を反映しているかもしれない。
 2007年9月22日の大衆かわら版で、
林家木久蔵改め初代木久扇(きくおう=69)と林家きくお改め2代目木久蔵(31)の親子ダブル襲名披露興行が21日、東京・上野の鈴本演芸場で始まった」
という芸能記事を読んだ。

 草野球音は木久扇さんの襲名ニュースから片岡千恵蔵を連想した。初代の木久蔵のネタに「片岡千恵蔵伝」がある。声帯模写を駆使した語り口が面白い。

 千恵蔵は戦前・戦後の長期にわたりチャンバラ映画で人気を博した。1903年(明治36)生まれ、没したのは1983年(昭和58)、享年80歳だった。大河内伝次郎、坂東妻三郎、市川右太衛門*、長谷川一男(林長ニ郎)、嵐寛寿郎*と並ぶ剣戟六大スターであるが、戦後生まれの球音の記憶には、東映時代の大御所の印象が強い。東映創立に参加した市川右太衛門ともの重役兼トップスターであった。血槍富士(1955年)、大菩薩峠(1957-59年)、多羅尾伴内・七つの顔の男だぜ(1960年)などに主演している。

 時代劇スターであるが、現代劇にも数多く出演している。なかでも興味深いのは「七つの顔の男」シリーズだ。大映で4作品、東映で7作品も製作している。ストリーは荒唐無稽だが、千恵蔵の七変化が見もので、片目の運転手・気障な紳士・インドの魔術師などどのように化けても大きな役者顔で、ひと見で千恵蔵と分かる扮装であった。そして最後に決め台詞が待っていた。
 「あるときは○○、またあるときは××、しかしてその実体は正義と真実の使徒、藤村大造」といいながら、歌舞伎並みの見えを切るのだった。少年たちはこぞって千恵蔵になったつもりで決め台詞を暗記した。
 鈴生りの大入り、見せ場で拍手が沸き起こる映画館。久しく見ない光景である。
  
市川右太衛門(いちかわ・うたえもん):1907年(明治40)―1999年(平成11)。俳優北大路欣也の父。代表作に「旗本退屈男シリーズ」。
嵐寛寿郎(あらし・かんじゅうろう):通称アラカン。1903年(明治36)―1980年(昭和55)。代表作は生涯に40本余主演した「鞍馬天狗」。

2007年9月23日日曜日

今年60のおじいさん

 月も星もない暗夜であった。 
 黒い着流しに黒の覆面頭巾の浪人風の男が大川端を歩いていた。一見して胡乱(うろん)な浪人は草野球音である。そこに出くわした定廻り同心が訝(いぶか)り誰何(すいか)した。
 「くさのたまね、と申す」 
 「ご姓名はどうような字を書くのか」 
 「草野球音だと。くさやきゅうネ。虚仮(こけ)にしおって、偽名だな」。 
 「けして怪しいものではない」というや否や、球音は疾風のごとく走った。同心も後を追ったが、夜陰に紛れ黒装束の浪人を見失った。 

×  ×  × 
 と、どうでもいい前フリをしたが、蜘蛛巣丸太の主は草野球音と名乗る。1947年生まれの今年満60歳、団塊世代である。団塊世代とは、作家の堺屋太一の著書「団塊の世代」で因み有名になったが、第2次世界大戦後の1947年(昭22)から1949年(昭24)の3年間に生まれた人々を指し、その人口は約700万人に達し、日本の人口分布最大のボリュームを持っている。その団塊の先鋒が2007年定年を迎えている。蛇足ながら、団塊世代の退職金は、2007年から毎年15兆円以上となり、3年間ではその総額は45兆8000億円になると、第一生命経済研究所は試算している。団塊は「金塊世代」でもあるのだ。それにしては球音の懐具合は非っ常にキビシ~ッ!(古いね、財津一郎*だよ) 
 
 さて戦前の還暦60歳は「おじいさん」であった。 
 昭和16年の童謡「船頭さん」(作詞・武内俊子、作曲・河村光陽)では、  
  ♪村の渡しの船頭さんは、今年60のおじいさん  
  歳はとってもお舟を漕ぐときは  
  元気いっぱい櫓がしなると、唄っている。 
 厚生労働省の平成18年簡易生命表によると、日本人の平均寿命は男性79.00歳・女性85.81歳で、世界有数の長寿国を誇っている。戦前のデータは不明だが、戦後間もない昭和22年のデータでは男性50.06歳・女性53.96歳となっており、この59年の間に男性29歳・女性32歳も寿命を延ばしている。ちなみに昭和30年は男性63.60歳・女性67.75歳となっている。 
 童謡「船頭さん」が世に出たのは「人生50年」の時代だった。というわけで、21世紀の還暦はまだ老け込むには早すぎる。ハマの隠居は意を強くした。

財津一郎(ざいつ・いちろう):藤田まこと主演の超人気テレビ番組「てなもんや三度笠」に浪人・蛇口一角役で出演、手を頭の後から回し「非っ常にキビシ~ッ!」というギャグで売れっ子になった。その後演技派俳優として映画、テレビ、舞台で活躍。

2007年9月22日土曜日

日残りて昏るるに未だ遠し

事始の記
 残照に芒(すすき)の穂がそよいでいた。虚空の一点を見つめながら、齢60を迎えた草野球音は呟(つぶや)いた。
 「駄者ほどよく呆ける」
 
 還暦を機に、長らく勤めた大衆かわら版社の職を辞した。故あって逼塞(ひっそく)することを決めた。金はないが、暇はある。読書と散歩が日課となったが、生来の貧乏性、加えてなにかしなければ呆けるぞとの声も聞く。
 
 そう言えば。。。
 数年前から物忘れがひどくなった。特に人の名前が出てこない。顔は分かっているのに。小骨が咽喉に刺さったような不快感がある。心の奥底に認知症への恐怖心が巣食う。

 忘れたときのために書き留めておきたいことがある、と思い立ったのが蜘蛛巣丸太開設のきっかけである。ご大層に忘れて困るものなどさしてはないが、己の脳みそを己が制御できるうちに、昔のことなどを残してみたい。また書くにあたり、記憶を辿り調べるのもアンチエージングの一助になるかもしれない。温故知新(「痴新」かもしれぬが。。。)への旅となる蜘蛛巣丸太をめざす。
 
 内容は雑観、エッセイ、江戸ノベル風作り話など、形態様式もなんでもあり・雑多で、原稿は長短さまざま。更新は随時、といたって勝手気ままなものになるだろう。

 愛読書の藤沢周平さんの「三屋清左衛門残日録」に影響を受け、「日残りて昏(たそが)るるに未だ遠し」の心境で、「草野球音備忘録」を認(したた)めていこうと思う。