2020年1月23日木曜日

続 日韓に虹を架けた男〜重光武雄

*日韓で売上高10兆円の財閥を一代で築いた重光武雄の生涯をたどりたい。
(ネット検索書き=敬称略)

日本でロッテを創業し重光武雄と名乗ることになる人物・辛格浩(シン・ギョクホ)は、1921年韓国南東部の釜山の北、蔚山(ウルサン)市で農家の10人兄弟(男5人女5人)の長男として生まれた。

「重光」は2番目の日本人の妻の姓。「武雄」は日本統治時代の「創氏改名」時の名前。「創氏改名」とは日韓併合下に朝鮮総督府が朝鮮人の姓名を日本風の名前に改めさせた政策である。

時計の針を20年一気に進める。この間の記述はなく、どんな生活をしていたかは調べた限りでは不明だ。

1941年(1942年の説も)所持金わずか83円を握りしめ関釜(かんふ)連絡船で海を渡った。妻と娘を韓国に残して。
「関釜連絡船」は下関と釜山の間を1905年から1945年にかけて運航していた鉄道連絡船で、海路240kmその所要時間は7時間30分だった。
20歳そこそこ妻子ある身で、なぜ、それほどの人生の選択をしたのか? 日本で一旗あげるつもりだったのか、住んでいた村の長老支配に嫌気がさしたとの記述も散見するが、その辺りの事情ははっきりしない。
新聞牛乳配達をしながら苦学の末、1944年早稲田高等工学校(早稲田実業との記述もある)卒業した。文学志望だったが、徴兵をさけるためには工学を専攻したしたという。

1945年太平洋戦争(第二次世界大戦)終結。
敗戦の日本の、焦土の街で進駐軍の米兵が噛んでいたチューイングガムに商機が閃いた。「ギブミー」手を差し出す子どもたちの姿があった。
「これだ!」__。
この瞬間、重光武雄の成功の扉が開かれたと言っても過言ではない。
1947年ガム製造に乗り出す。
1948年「ロッテ」設立。文学青年だった重光が愛読書「若きウェルテルの悩み」の主人公が恋するシャルロッテからとった社名である。
風船ガムが大当たり、続いて手を出したチョコレートも成功した。まさにガムシャラに事業に邁進していく。

ここで当時の韓国情勢に触れる必要がありそうです。
1945年敗戦により日本が撤退すると、連合軍のアメリカとソ連の2つの大国が朝鮮半島の統治に乗り出した。北緯38度線を境に北をソ連が、南をアメリカが占領した。ここに朝鮮民族が分断され、今日に至っている。
米ソ対立のなか、1948年8月15日李承晩(イ・スンマン)が宣言を行い、38度線の南側に大韓民国(韓国)が成立した。それに対抗するように同9月9日ソ連を後ろ盾に金日成(キム・イルソン)が朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)の成立を宣言した。


その2年後の1950年6月北朝鮮が国境を越え侵攻した。朝鮮戦争の勃発。瞬く間にソウルを陥落し、釜山周辺までに迫る勢いだったが、アメリカが武力介入し国連軍・韓国軍は盛り返し、中国と北朝鮮の国境にある鴨緑江岸まで進出した。北朝鮮は中国人民義勇軍の援軍を得て反撃、北緯38度線付近で戦線は膠着状態となった。

1951年7月に休戦会議がはじまり、1953年7月に板門店で休戦協定が成立した。南北分断国家は今日まで続く。

朝鮮戦争後、初代大統領の李承晩は独裁色を強め韓国の復興開発に努めたが、その反発で民主化運動も活発化した。1960年学生を中心に起こった四月革命で政権は倒れた。翌1961年朴正煕(パク・チョンヒ)が軍事クーデターで軍事政権を樹立、1963年大統領に就いた。軍を背景にした反共姿勢を強めた独裁政治を行っていた。

韓国は1960年代前半まで世界の最貧国グループにあり、国内総生産(GDP)が北朝鮮を下回っていた。(つづく)

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