2012年1月21日土曜日

鼻っ柱の強いエース堀本律雄さん

常勝監督の川上さんと緊迫の睨みあい
 プロ野球の巨人で入団1年目に新人王と沢村賞を獲得した堀本律雄さんが2012114日亡くなった。76歳だった。※以下敬称略

×  ×  ×



ダッグアウトが俄(にわか)に緊迫した。
あれは新人記者時代の1971年。後楽園球場。
巨人監督は川上哲治だった。V97連覇を目指していたシーズン。試合前、ベテラン巨人番記者たちの輪のなかで談笑していた。そこへ取材の堀本律雄が現れたのだ。
ギョロ目の堀本が川上を捉えた。無言の凝視。
談笑が中断し、川上は視線を返した。
数秒のことだろう。
緊張の睨み合いがあった。静かに火花が散った。
時間がぴたりと止まったように、傍らにいた私は感じたのだった。

*堀本律雄(ほりもと・りつお)
 大阪出身。桃山学院高校から立教大学、社会人の日通浦和を経て1960年(昭和35年)巨人入団。いきなり29勝を挙げ最多勝・新人王・沢村賞を独占した。その後大毎(現ロッテ)で活躍し、1965年に引退。日本ハムなどでコーチを務めた。長嶋茂雄の立教大学の1年先輩。

 堀本と川上――ふたりは投手と監督という間柄だった。
 1960年の入団1年目、堀本は獅子奮迅の活躍をみせた。2918敗、防御率2.00で投球回数は実に364.2イニング。
 が、酷使がたたってか、翌年から成績は降下、2年目の196111勝、1962年は7勝に終わった。
 マウンドでのふてぶてしさ。胸を張り、肩で風切るような歩き方。
 成績が悪くなるに連れチームで浮き上がった。川上とのそりも合わなかったと先輩から聞いた。
 大毎にトレード放出となった。

 1971年の後楽園球場に話を戻そう。
 取材の堀本から頭を下げ、川上に挨拶するところだが……。
 そこに堀本らしさがあったと思う。立場からいえば、常勝監督と一評論家、川上が断然優位にある。が、ぺこぺこ頭を下げることを潔しとしなかったのではないか。強者に媚びず、抗うことを己の生き様としたようにお見受けした。
歯に衣着せぬ評論は、度胸満点だった往年のピッチングを彷彿させた。

 1960年。エースの藤田元司が酷使から肩を痛め、成績は急降下した年でもある。お家の一大事のなか、新人投手が364.2イニングも投げ切った。現在ならローテーション投手の23人前をまかなったことになるだろう。
 堀本律雄の奮投は、チーム総イニングの実に約30%にあたることを記憶に留めたい。

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