2008年6月21日土曜日

月見草の詩:野村克也

♪誰に言われた 訳ではないが
好きで選んだ 裏通り

影でひっそり 咲く花は
俺の花だよ 月見草

 作詞・山口洋子、作曲・四方章人で野村克也が、1993年(平成5年)ヤクルト監督時代に歌ったCDである。タイトルは「俺の花だよ月見草」という。この曲、聴いたことのある人は少ないだろう。お世辞にもヒットしたとは言えない。



 プロ野球、楽天イーグルズ監督の野村克也(72歳)は2008年6月18日、阪神タイガース最終戦(甲子園)で敗れ、監督通算1454敗目を喫し、知将といわれた三原脩(1911年―1984年、巨人―西鉄―大洋―近鉄―ヤクルト)を抜いて単独で歴代最多敗戦監督となった。勝利数の通算1457勝は歴代5位で、1位は鶴岡一人(1916年―2000年、南海)の1773勝。 野村は南海(現ソフトバンク)でプレーイングマネジャーを務めた後、ヤクルト、阪神で監督を務め、2006年から楽天で4球団目の指揮を執っている。今季が監督通算23シーズン目。これまでにリーグ優勝5度、日本一に3度輝いている。
  
 プロ野球歴代敗戦数10傑(2008年6月18日現在)
1・野村克也1454敗1457勝72分・リーグ優勝5
2・三原脩1453敗1687勝108分・リーグ優勝6
3・藤本定義1450敗1657勝93分・リーグ優勝9
4・西本幸雄1163敗1384勝118分・リーグ優勝8
5・別当薫1156敗1237勝104分・リーグ優勝0
6・鶴岡一人1140敗1773勝81分・リーグ優勝・11
7・上田利治1136敗1322勝116分・リーグ優勝5
8・水原茂1123敗1586勝73分・リーグ優勝9
9・王貞治1075敗1287勝71分・リーグ優勝・4
10・長嶋茂雄889敗1034勝59分・リーグ優勝5
 野村と王は現役監督であり、勝利数と敗戦数の上乗せがあり、今後、野村は負ける度に記録を更新することになる。

 その他の監督では、川上哲治が1066勝741敗61分を記録、勝利数は10位でリーグ優勝11回(日本一11回)輝いている。
 川上は勝ちながら、不敗神話は作り上げていったが、野村は敗戦から勝利理論を構築した監督だろう。
 失敗から学ぶ――人間は試行錯誤によって成長する。学習能力が、人類、ホモサピエンスを今日まで生きながらえさせたのだろう。敗戦から学ぶものは、野村の最大の武器になった。
 「勝ちに不思議な勝ちあり。負けに不思議な負けなし」と、野村は名言を吐いている。
 敗戦の原因は必ずあり、勝利の時も、次ぎの敗戦に繋がる敗戦の要因が潜んでいる。よって勝って結果オーライとせず、その中の敗因を究明することが大事である、というのが野村の大意であろう。

×  ×  ×

 京都府竹野郡網野町(現北丹後市)は、景勝・天橋立にほど近い。といっても、天橋立から北近畿丹後鉄道に乗って、網野駅まで2時間半もかかる。丹後ちりめんで知られる。野村克也は1935年(昭和10年)6月29日、この地で生まれた。
 家業は「野要」という食料品店だった。屋号は父要市の姓名からとった。
 3歳で父を亡くした。日中戦争に出征し、華北地方で伝染病に倒れた。
 母フミは、克也が小学校2年生のとき、子宮ガンを患い、大手術を受けた。
 家計は傾いた。
 大病で入院費がかさみ、店を手放した。
 フミは結婚前に資格をとっていた看護婦になった。
 克也は網野小学校3年から、兄とともに新聞少年になった。50軒が配達のノルマだが、2倍の100軒を受け持った。冬は腰まで届く積雪を踏み、配った。月600円の収入で、母を助け、中学を卒業するまで一日も休まなかった。
 京都府立峰山高校になんとか通わせてもらった。母に内緒で野球部に入部した。バットも買えなかった。一升瓶に水を入れ、素振りをしていた。

 少年時代は逆境との闘いだった。貧乏から脱したいという強烈な思いがあった。

 1954年(昭和29年)契約金ゼロのテスト生として南海ホークスに入団した。1年目のオフ、戦力外通告を受ける。「クビになったら、生きては行けません。南海電車に飛び込んで自殺します」。交渉役のマネージャーを泣き落とし、縋(すが)りついて残留に漕ぎ付けた。
 3年目の1956年、ハワイキャンプに抜擢され、正捕手の座に就いた。1957年には中西太(西鉄)、山内和弘(毎日)の強打者と押しのけ、本塁打王のタイトルを獲得した。
 以後、大打者の道を歩む。南海―ロッテ―西武と渡り歩いて、実働26年、45歳まで生涯一捕手として現役を続けた。

 生涯通算成績は、出場試合3017、打数10472、安打2901、本塁打657、打点1988、犠飛113、併殺打378、打率.277を残す。MVP5回、戦後初の三冠王(1回)、首位打者1回、本塁打王9回、打点王7回、ベストナイン19回に輝く。

×  ×  ×
 「王や長嶋が太陽の下で咲く向日葵(ヒマワリ)なら、オレはひっそりと日本海に咲く月見草だ」。

 「月見草」――野村克也の代名詞といえる、この言葉は何時ごろから使われたのだろうか。2説あるようだ。通算2500安打達成の記者会見という説と、通算600本塁打の時という説である。どちらにせよ、1975年(昭和50年)での記録達成時の発言である。
 2500安打なら、当時、史上初の達成であり、600号なら前年王貞治が達成後の2番手の記録となる。後輩王の後塵を拝した600号時の発言の方が、より月見草らしくないか。
 いや、何時どこでと特定するより、含蓄のある発言内容が重要だろう。

 太陽の王、長嶋に対し、野村は自らを月に譬(たと)えた。

 国民的な人気を誇るミスタープロ野球、長嶋茂雄には生涯通算記録では勝るが、人気では遠くおよばない。
 そして通算記録では、
本塁打数:①王貞治868・②野村克也657、
打点数:①王貞治2170・②野村克也1988、
安打数:①張本勲3085・②野村克也2901
と、2番手に甘んじた。

 彼らしく、考え抜いた末に出た名言なのである。だからこそ、語り継がれ代名詞となったといえる。

 したたかな老花の咲き具合をこれからも鑑賞したい。

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