阿蘭陀風説書
ぶらり散歩に出る。
両国の江戸東京博物館(東京都墨田区横網1-4-1)で「特別展ペリー&ハリス~泰平の眠りを覚ました男たち~」を観る。
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江戸時代を中心とした時代小説を好んで読む。とりわけ幕末――ペリー来航から明治維新までの時代は、凄まじく躍動していて面白い。その間、わずか15年であった。
「特別展ペリー&ハリス」では、阿蘭陀風説書(オランダふうせつがき)の展示に興味を引かれた。
阿蘭陀風説書とは、オランダ船が長崎に着くと、通詞が出向きオランダ商館長(カピタン)から海外情勢を聴き取り翻訳し、カピタンと通詞が捺印し、長崎奉行に提出された文書である。長崎奉行から江戸表へと届けられた。幕閣は、この文書で世界の動向を知ったのだった。鎖国の日本にあって、唯一貿易を許された国がオランダであった。情報は貴重なものだった。
オランダとの関係は、1600年の慶長年間に端を発す。オランダ商船リフーデ号が豊後国臼杵に漂着した。乗組員にオランダ人のヤン・ヨーステン、イギリス人のウィリアム・アダムスがいた。徳川家康がふたりに面会し気に入り、外交顧問とした。イギリス、オランダとの交易が始まった。家康の死後、人民統制のためキリスト教の禁止令が出され、交易の門戸を平戸と長崎に限定した。海外貿易をさらに強め、三代将軍の家光の治世に鎖国の体制が整った。
以来、西欧との交流はオランダ1国に、それも長崎の埋立地、出島に限られた。鎖国体制完成から幕末までの200余年間にわたり、徳川幕府の代は泰平に続いた。その間、オランダ語を通して蘭学という文化が花開く。
さて阿蘭陀風説書である。
カピタンは江戸に出向き、将軍に謁見し通商の御礼と貢物をするのを慣わしてとしていた。「カピタンの江戸参府」は当初毎年行われていたが、後に4年に1回の行事となった。
通常の風説書より詳しい文書を「別段風説書」という。アヘン戦争(1840年―1842年)の翌々年の1842年から、幕府はカピタンに別段風説書の提出することを沙汰する。
1852年(嘉永5年)、オランダ商館長に就いたヤン・ドンケル・クルティウスは別段風説書でアメリカが軍船で日本に来航し日本に開港を迫ると予告したが、幕閣は黙殺した。
翌1853年の黒船来航となる。200余年の泰平から激動の幕末へ、時代は雪崩れ込むのである。
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カピタンはポルトガル語で「仲間の長」という意味で、鎖国で西欧と貿易はオランダ1国に絞られたが、長崎商館長をカピタンと呼んでいたそうだ。
ヤン・ドンケル・クルティウスは最後のカピタンで、鎖国から開港に政策変更した幕府を、軍艦の発注、長崎海軍伝習所の設立などで支えた。
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