2007年12月13日木曜日

目玉の松ちゃん:伝聞書きⅡ

撮りも撮ったり1,003本

 牧野省三―尾上松之助コンビの第1作「基盤忠信源氏礎」(1909年・横田商会)が当たり、松之助はスパースターの座へ登りつめていく。亡くなるまで未確認情報ながら実に1,003本の映画に主演したといわれる。
 1912年(大正元)に横田商会などが合併し日本活動写真株式会社(日活)が設立してから、牧野と松之助コンビは、牧野が日活を離れ「牧野教育映画製作所」を設立する1921年(大正10)まで、約10年間で200本余の映画を撮りまくった。大衆の支持があったからこその多作である。

 松之助の映画はどんな内容だったのだろうか。
 「目玉の松ちゃんは児雷也をやったよ」
 「忍術映画が多かった」
 「立川文庫という小さな本があって、それを題材にしていたな」
などと、子供のころ聞いていた。
 
 立川文庫は、大阪の立川文明堂が1911年(明治44)から1924年(大正13)まで発行した文庫本である。発行者は立川熊次郎。少年を対象に公団や戦記、史伝を約200編刊行し、人気を博している。サイズは縦12.5センチ横9センチで現在の文庫サイズ(15.5センチ×10.5センチ)よりひと回り小さく、定価は20―30銭だった。水戸黄門、真田幸村、猿飛佐助など題材とし、大衆文学、時代劇に影響をおよぼした。
 
 時代劇の定番メニューとなっている忠臣蔵の大石内蔵助や水戸黄門、清水次郎長や国定忠治の任侠もの、宮本武蔵や塚原ト伝の剣豪もの、後にアラカンこと嵐寛寿郎の持ちネタとなった鞍馬天狗、猿飛佐助や霧隠才蔵と児雷也の忍術もの、ありとあらゆる役を演じた。
 主演作品1,003本といわれている。この数字は現在資料で確認できる松之助の主演映画は970本程度なので、異論の余地はあるが、この根拠は1925年(大正14)に日活で「松之助1千本記念映画」として「荒木又右衛門」が製作されおり、その後亡くなるまでに「国定忠治」(1925年日活)」、「実録忠臣蔵」(1926年日活)、「侠骨三日月 前篇」(同)の3本に主演していることから算出したものである。
 松之助映画のほとんどは上映時間60分以内と短く、現在の映画と比較できない。その内容も子供向けの幼稚なチャンバラ映画と、インテリには眉を顰(ひそ)められたが、他の追従を許さないほど圧倒的な人気を誇ったのは、まぎれもない事実である。日本の無声映画時代を先導した男であった。

 松之助は晩年日活の重役となった。しかし、歌舞伎を基調とした立ち回りや講談ものを舞台にしたような映画は、沢田正二郎(1892年―1929年)の創始した新国劇のリアルな殺陣、バンツマこと坂東妻三郎(1901年―1953年)の写実的な映画やアメリカ映画の活劇に押されていった。
 坂東妻三郎、大河内伝次郎が銀幕に登場し、さらに市川右太衛門、片岡千恵蔵、長谷川一夫、嵐寛寿郎を加えた六大スターの剣戟映画の全盛が待ち受けていた。
 
 松之助は1926年「侠骨三日月」の撮影中に心臓病で倒れ、息を引き取った。51歳だった。その葬儀は日活の社葬として京都市内で行われた。都大路に日本最初の映画スターの死を悼む20万人の市民が詰め掛け、路面電車を止めてしまうほどであった。
 ――これが尾上松之助の生涯ダイジェストである。

 名せえゆかりの目玉の松ちゃんこと尾上松之助たぁおれがことだぁ!(ト、十八番の大きく目をむき見得を切る松之助。「終」のエンドマークがフェードアウトする)

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