改名でヒットが出た
田宮謙次郎(たみや・けんじろう)の訃報に接し田宮二郎を連想した。
『ふたり田宮』から「あの因縁話を書くのだろう」と勘を働かせた方は、野球通で且つ映画通である。
察しの通り。草球kusatamaの思考は読みやすい(笑)。
俳優の田宮二郎の芸名は、阪神、大毎で好打者として活躍した田宮謙次郎の名から採ったもので、映画会社大映の社長にしてプロ野球の大毎、ロッテのオーナーであった永田雅一が命名者だそうだ。
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2010年5月5日、82歳で田宮謙次郎が亡くなった。
かいつまんで略歴を書く。彼は茨城県立下館商業を経て日本大学へ進み、1949年(昭和24年)中退して阪神タイガースに入団した。左腕を痛め1952年から打者転向。1958年にはセ・リーグ首位打者に輝く。この年ルーキー之長嶋茂雄の活躍はめざましく、本塁打と打点王となったが、長嶋の三冠王を阻む結果となった。1959年からA級10年選手の権利を行使して大毎に移籍。山内一弘、榎本喜八、葛城隆雄らとミサイル打線を結成、1960年にはパ・リーグ優勝している。東映フライヤ―ズの監督も務めた。2002年野球殿堂入り。
田宮二郎の本名は柴田吾郎である。妻は藤由紀子で、俳優の柴田光太郎は長男。
本名で映画デビューした彼だが、売れなかった。田宮謙次郎の大毎移籍した1959年、永田雅一の強い勧めで『田宮二郎』と改名した。1961年「悪名」(今東光原作=田中徳三監督)で『八尾の朝吉』の勝新太郎の弟分『モートルの貞』に抜擢され、映画は大いにヒットして人気スターの仲間入りを果たしている。
改名が運をもたらした。
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田宮謙次郎は左右に打ち分ける技術でヒットを量産した好打者だった。永田雅一は非凡なヒットメーカーにあやかろうとして売れない役者に改名を勧めたのだろうか。
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