木次に大橋に岩下
日向があれば、日陰がある。
「東の長嶋、西の難波」といわれ、戦後スポーツ界最大のヒーロー長嶋茂雄のライバル難波昭二郎(なんば・しょうじろう)が2009年8月14日亡くなった。74歳だった。
大阪出身。高槻高校から関西大学に進み、関西六大学では通算7本塁打を記録し強打の三塁手として鳴らした。1958年(昭和33年)長嶋とともに読売ジャイアンツに入団したが、同じポジッションに長嶋がいたところから、出場機会に恵まれず、1962年に西鉄ライオンズに移籍し、その年引退した。
実動5年。生涯通算成績は179試合に出場、255打数54安打、7本塁打、25打点、打率2割1分2厘と、寂しいものだった。
引退後、サラリーマンに転じ、ワーナーパイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)で取締役まで出世した。プロ野球でこそ日陰者だったが、彼は努力で日向に花を咲かせた。
長嶋といえば王となる。王貞治の日陰の存在は木次文夫(きつぎ・ふみお)である。長野・松商学園高校時代に甲子園に出場、早稲田大学では当時としては東京六大学リーグ歴代2位となる通算7本塁打を記録した。豪打の一塁手だった。王の入団2年目、1960年(昭和35年)に巨人入団したが、王との競り合いに敗れた。1962年に国鉄スワローズに移籍したが、その年引退した。
生涯通算成績は在籍3年、59試合出場、54打数5安打、2打点、打率は9分3厘と1割にも満たず、持ち前の長打力は不発でホームランの記録はない。
木次は脳溢血で40歳の若さで他界した。
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V9の頭脳・森昌彦との正捕手争いに敗れた大橋勲(土佐高校―慶応大学)、不動の4番一塁手・川上哲治の控えを務めた岩下守道(長野・小県農業高校)なんて、日陰の選手もいましたなぁ。常勝巨人軍を陰で支えた人たちです。
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