2009年5月28日木曜日

飛騨路でバッタリ鉄舟

剣・書・禅の達人

 飛騨路で“鉄舟”に出くわした。ぶらり旅に出る。物見遊山である。名所である高山陣屋を観る。
 そこに剣・書・禅の達人であり「江戸無血開城」の交渉人、山岡鉄舟(やまおか・てっしゅう、1836年―1888年)がいたのだ。陣屋の展示品に彼の書などがあった。
 ところで、鉄舟と高山陣屋との繋がりを、知っていますか?
 鉄舟の父、小野朝右衛門高福(おの・あさえもんたかよし)は飛騨郡代として高山陣屋に赴任していて、彼は幼少時代を飛騨高山で過ごしている。実は草野も浅学で見学するまで知らず、飛騨路で鉄舟に出逢うとは思いもしなかった。
 鉄舟については、『山本一力:「背負い富士」(2009年2月21日記)』の稿で清水次郎長との交誼を書いたが、再び触れておく。
 ときは官軍と幕府軍が戦った戊辰戦争の時代。榎本武揚は箱館へ海路脱出する際、咸臨丸が暴風雨に遭い破船し清水港に停泊した。そこを官軍に襲われ船員全員が死亡した。賊軍としてその遺体は放置されていた。次郎長は遺体を引き上げ埋葬した。いきさつを知った鉄舟は次郎長と意気投合、「壮士之墓」を揮毫(きごう)して与えた。
 また、西郷隆盛と勝海舟の江戸無血開城の会談をお膳立て、江戸を戦火から救った幕臣として知られる。江戸城開戦の準備を整える官軍が駐留する駿府にたどり着き、西郷に直談判し、無血開城の下交渉を行っている。
 明治維新後は西郷のたっての依頼で明治天皇に10年間限定の約束で侍従として使えている。
 身長六尺二寸(188㌢)体重二十八貫(105㌔)の偉丈夫であった。
×  ×  ×
 陣屋とは、江戸時代に郡代や代官が治世を行った場所で、役所や役宅、御蔵などを総称して呼んだそうです。高山陣屋は金森氏が支配していましたが、元禄5年(1692年)から幕府の天領(直轄地)となっています。飛騨とは、旧国名で、現在の岐阜県の北部に相当します。
「ときは元禄15年12月14日」――忠臣蔵の討ち入りがあった元禄年間(1688年~1703年)。5代将軍、綱吉の時代です。
2009年5月24日観覧

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