2008年5月25日日曜日

泰平の眠りを覚ますⅡ

黒船通詞・堀達之助

 “I can speak Dutch”(拙者はオランダ語を話せる)
小船から羽織袴姿の武士が、上を見上げ渾身から大声を振り絞って、英語で叫んだ。その先には、日本人が初めてみる黒塗りの巨大な外輪船がそびえていた。

 嘉永6年(1853年)6月3日、司令官マシュー・カルブレース・ペリー(1794年―1858年)率いるアメリカ合衆国の東インド艦隊4隻が江戸湾の浦賀沖に現れた。旗艦のサスケハナとミッシッピーは外輪を持つ蒸気船、サラトガとプリマスは帆船で、世に言う黒船来航である。
 小船には武士がふたり乗っていた。浦賀奉行所与力の中島三郎助(1821年―1869年)と、蘭(オランダ)語の通詞(つうじ=通訳)の堀達之助(ほり・たつのすけ1823年―1894年)である。堀はアメリカ国旗を掲げたサスケハナ号に向かい、日本人で公式に初めて英語を発した。

 日米外交史はここから始まった。

 何故、“I can speak English”とは言わなかったのだろうか? 当時の堀は英語より蘭語、蘭学一般に通暁していたと推測される。
 ペリー艦隊には、幸いポートマンというオランダ語通訳がいた。以後、主にオランダ語を介して会話は行われたという話を、どこぞで読んだことがある。

 とにもかくにも、彼の発した英語が、鎖国をこじ開ける第一声となったのである。日本の外国学習をオランダ語から、世界語の英語主体に転換させる切っ掛けとなった。また日本における英語研究の基礎をなした人物として、黒船通詞・堀達之助の名を、記憶に留めたい。

×  ×  ×

 堀達之助は1823年長崎でオランダ語通詞、中山作三郎武徳の五男として生まれた。同役の堀儀左衛門の養子となり、後を継いだ。
 黒船来航時に、捕鯨船の薪水、食料などの補給基地として開港を求める米国フィルモア大統領国書を徳川幕府に取り次ぐ役目を主席通詞の堀は担った。将軍・家慶が病床のため交渉は1年先送りとなったが、翌嘉永7年(1854年)には、日米和親条約の締結時に、その和解(和訳)にあたっている。その後、下田詰めとなるが、ドイツ通商要求書簡独断没収(リュードルフ事件)の罪に問われ入牢する。4年余の獄中生活を経て赦免され、公職復帰し、初の英和辞典『英和対訳袖珍(しゅうちん)辞書』を編んでいる。
 その後、箱館裁判所通詞に招かれるが、英語を読む・書く能力は秀でているが、聞く・話すに難があり、裁判で満足な活躍が出来なかったことがあったという話を、読んだことがある。
 だが、しかし‥‥。
 彼の評価をいささかも下げるものではないのではないか。英会話を実践する機会が極端に少ない時代である。鎖国という環境で英語を学ぶことがどんなに難しかったか。英語を学び、熟達の域にほど遠い草野球音は、自らの自戒と反省を込めて痛感するのである。

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※堀達之助の生涯・足跡は吉村昭著の「黒船」(中央文庫)、堀孝彦著「英学と堀達之助」(雄松堂出版)に詳しいそうだ(球音は両著とも残念ながら、読んでいない)。
 

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