2009年1月17日土曜日

樋笠一夫2年前の訃報

伝説弾の男

 それは2年前の訃報だった。

 草野球音は、野球少年だった。野球を始めたのは小学校2年生だった。空き地でキャッチボールをやったのが始まりだった。こんな面白い遊びがあったのか。以来、毎日のようにボールを追いかけた。野球がすべてであった。
 川崎の下町では、内風呂のある家は少なく、銭湯に行くのが普通だった。友達と連れ立って行くと、競って下足箱「16」を目指した。
 「16」は、巨人軍の不動の4番打者、川上哲治の背番号である。「弾丸ライナー」「赤バット」の主は、少年たちの憧れだった。長嶋茂雄や王貞治がまだアマチュア選手だった頃の話だ。
 「樋笠ってすげよな」
 「逆転サヨナラ満塁ホーマーだってよ」
 「代打で、だぜ」
なんて、大いに話題を集めたことがあった。

 その訃報は、2009年1月17日付の朝日新聞朝刊スポーツ頁の隅っこに載っていた。
――プロ野球の元巨人外野手で、史上初の代打逆転サヨナラ満塁本塁打を記録した樋笠一夫(ひがさ・かずお)氏が2007年6月17日に死去していたことが16日、分かった。87歳だった。

 2年前の訃報なのである。なぜだろうか? 2年半もの間、死去の事実が知られなかったことはともかく、樋笠一夫(1920年―2007年)の伝説弾を追う。

 1956年(昭和31年)3月25日。後楽園球場での巨人対中日戦。樋笠は彼の名を球史に刻んだ偉業を達成する。
 0―3で迎えた9回裏。中日先発の大矢根博臣を打ちあぐねた巨人だが、ようやく無死満塁と反撃機を得る。中日監督の野口明は、信頼厚いエース杉下茂をリリーフに送った。
 藤尾茂が杉下の前に三振に倒れ、一死満塁となった。巨人監督の水原茂は、投手の義原武敏に打席が回ったところで、代打に樋笠を起用した。樋笠は杉下の投じた3球目の内角球を強振した。打球はぐんぐん伸びて左中間スタンドに舞い込んだ。まさに劇的。代打逆転サヨナラ満塁本塁打である。日本プロ野球史上初めてとなる快挙が生まれたのだった。
 狂喜乱舞する巨人ダッグアウト。稀代のヒーローを迎え、三塁ベースコーチも務める水原はキスを浴びせ、さらに彼が本塁を踏むと、ナイン総出の胴上げが始まった。

 香川県高松中学、広島鉄道局を経て、30歳で広島入団。その年、21本塁打、72打点を叩き出すが、1年で退団する。翌年シーズン途中から巨人に入団する。巨人では、青田昇、与那嶺要、岩本尭と外野陣が揃っていて、先発の機会は少なかったが、貴重な代打として活躍した。伝説弾の翌1957年シーズン後に現役を引退。1960年、1961年に近鉄コーチを務め、その後は球界を離れた。
 現役生活8年間で、548試合、1376打数315安打、54本塁打、194打点、通算打率は2割2分9厘の生涯成績を残す。

 代打逆転サヨナラ満塁本塁打の樋笠一夫――なんとも懐かしい顔がまた消えた。

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