2008年10月23日木曜日

篤姫の「玉の輿」里帰り

ペリーのミシン

 徳川13代将軍、家定の正室である天璋院篤姫(1836年―1883年)が婚礼時に乗ったとされる駕籠が日本に里帰りする。12月16日から江戸東京博物館の「珠玉(たま)の輿(こし)~江戸と乗物」展で公開される。
――という記事が、2008年10月22日付の朝日新聞に掲載されていた。

 黒漆地に金の蒔絵で、徳川家の家紋の三葉葵(あおい)紋と、篤姫の養家・近衛家牡丹(ぼたん)紋、篤姫の文様の二葉葵をあしらった唐草文が精巧に施してあるそうだ。まさに「玉の輿」だ。現在、米国ワシントンのスミソニアン協会アーサー・M・サックラー・ギャラリーが所蔵している。
 同展では家定の母・本寿院の女乗物と併せて公開するというので、展示の際には実物を拝したい。

 輿(こし)。
 玉の輿。
 デジタル大辞泉によれば、「輿(こし)」は「人を乗せる、屋形の下に2本の轅(ながえ)をつけた乗り物」とある。「玉の輿」は、「①貴人の乗る立派な輿、②女性が婚姻によって手にする富貴な身分」とある。

 篤姫は薩摩藩島津家の一門に生まれ、本家の養女となり、五摂家筆頭の近衛家の娘として徳川家に嫁ぎ、幕末の動乱期から明治期(没年は明治11年)まで生きた女性である。

 さて、家定(1824年―1858年)である。12代将軍、家慶(1873年―1853年)が嘉永6年にペリー来航の騒動の最中(離日の10日後)に没したため、その後継となったが、在位は嘉永6年から安政5年(1858年)と短い。幼少のころから病弱で、脳性麻痺だったといわれる。
 そのため将軍在位中から後継問題が浮上した。井伊直弼(1815年―1860年)の推す紀州藩主の徳川慶福(後の14代家茂=1846年―1866年)の南紀派と、島津斉彬(1809年-1858年)と徳川斉昭(1800年-1860年)が推す一橋慶喜(15代慶喜=1873年ー1913年)の一橋派である。
 家定の在位は足掛け6年と短く、幕政に関与していなかったが、日米和親条約(1854年)、日米修好通商条約(1858年)を締結した。その日本の節目・岐路に家定がいたことを記憶したい。
 安政4年(1857年)10月、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリス(1804年―1878年)と江戸城で引見している。

 家定と篤姫の間に子宝は恵まれなかった。

 マシュー・カルブレイス・ペリー(1794年―1858年)は来航時にミシンを将軍・家定に献上したといわれる。日本で初めてミシンを扱った女性は、天璋院篤姫だという。

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