2008年3月4日火曜日

球侍の炎:林 義一

伝説の被弾

 その訃報は、2008年3月4日付の日刊スポーツ(7版★)6面の最下段に載っていた。半段の顔写真と「パ初のノーヒッター」の1段見出しが付いていた。 国鉄で監督を務めたことのある林義一(はやし・ぎいち)の死亡を知らせる記事である。亡くなったのは1月17日で87歳だった。

 1月17日に死去したのに、なぜ3月になって記事が掲載されたのだろうか。身内だけで葬儀・告別式を済ませたため、死去の公表が遅れたと推測する。

 林義一は伝説を作った男である。「作った」というのは正確ではない。「作ることに貢献した」男なのだ。
 徳島商業―明治大学―ノンプロ全徳島を経て、1949年(昭和24)に大映スターズに入団した。阪急ブレーブスでも投げた。

 1953年(昭和28)8月29日。福岡・平和台球場での西鉄対大映戦。大映の林義一は西鉄の中西太にとてつもないデッカイ本塁打を浴びた。その打球はライナーでグングン伸びてバックスクリーンを越え、場外の福岡城址まで飛んで行った。推定160M以上といわれる、日本プロ野球史上最長飛距離の本塁打である。
 そのとき、林は打球を捕ろうとジャンプした。それほど弾道は低かったが、差し出すグラブの上をものすごい勢いで通過、場外へ消えたという逸話が残っている。真偽はわからない。

 1953年といえば中西は、高松第一高校から西鉄に入団して2年目で、36本塁打、86打点で2冠王に輝き、打率.314を記録、その上、盗塁36と俊足ぶりをみせている。一方、林だが、その年17勝11敗の好成績を残している。主砲と主戦投手の対決で、伝説は生まれたのだった。

 林は前年の4月27日の阪急戦でパ・リーグ初のノーヒットノーランを達成している。

 ノンプロ全徳島では、徳島商の2年後輩で巨人の名遊撃手の平井三郎(1923年―1969年)、池田高校で全盛制覇した名将、蔦文也(1923年―2001年)らとプレーしている。また阪神のコーチ時代に江夏豊にプロとしての手ほどき・指導したことで知られる。
 
 右の横手投げ技巧派で、現役通算成績は実働10年で98勝98敗、防御率2.66の記録が残っている。近鉄代理監督、国鉄監督の経験がある。国鉄の監督時代は、天皇と異名をとったエース金田正一との確執が取り沙汰された、と草野球音は少年の頃、野球雑誌で読んだことがある。投手コーチとしての評価は高い。

 日本一飛距離のあるホームランを打たれた男が逝った。

※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。

0 件のコメント: