2008年3月1日土曜日

球侍の炎:江藤愼一

波瀾流転の男

 プロ野球の中日、ロッテなどで強打者として鳴らし、セ・パ両リーグで首位打者に輝いた江藤愼一(えとう・しんいち=旧名は慎一)の訃報が流れたのは、2008年2月28日だった。70歳だった。
 
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 訃報に接すると、考えることがある。故人の人生はどんなものだったろうか、と。この人の場合は「波瀾」「流転」という言葉がまず浮かんだ。人の生き様を勝手に形容するのは、甚だご本人に失礼な話かもしれないが、ご勘弁願いたい。

 熊本商業を卒業後、ノンプロの日鉄二瀬を経てプロ野球の中日入団―ロッテ―大洋―太平洋―ロッテと渡り歩いた。
 
 1959年(昭和34)中日新人の年に130試合フル出場を果たした。同期入団には王貞治(巨人)、張本勲(東映)がいる。特筆すべきは、1964年と翌1965年の2年連続首位打者である。全盛時代の王の三冠王を阻んだ。闘争心を表面に出すプレースタイルで「闘将」と異名をとった。

 だが、しかし‥‥。
 波瀾万丈・流転の野球人生の発端は1969年だった。

 本業の傍ら自動車部品関連の会社を経営していた江藤だが、破綻をきたした。すでに中日のチームリーダーであり、影響力のある存在にのし上がっていたが、債権者が球場に現れる至り、野球に全身全霊を注ぐ環境ではなくなった。その年から、采配を執った監督の水原茂(1909年―1982年)は、公私の区別をつけられぬ主砲を構想外・戦力外とした。
 江藤は水原に土下座して非を詫びたが、受け入れられず、その年のオフに任意引退となった。
 勝負師・水原との確執から、11年在籍した名古屋の街を追われた。
 
 結局、移籍がまとまったのは1970年(昭和45)6月だった。開幕から2ヶ月が過ぎていた。救いの手は、ロッテの監督である濃人渉(1915年―1990年)が差し伸べた。ノンプロ日鉄二瀬、中日での恩師である。1970年は72試合の出場ながら、ロッテのパ・リーグ制覇に貢献している。
 そして、1971年には打率.337で、両リーグ初の首位打者のタイトルを獲得した。3度目の首位打者を決めた日は10月6日、誕生日であった。
 サプライズは突然にやって来る。歓喜の直後にそれは来た。翌日の10月7日に、大洋との間で野村収投手との1対1の交換トレードが成立し、通達を受けたのだった。その年のシーズン途中で、ロッテの監督は濃人渉から大沢啓二に代わっていた。「守り」を固めるチーム構築を目指す大沢監督は、江藤を戦力外とし、投手力強化を狙っていた。

 ロッテ在籍は2年間だった。大洋3年、太平洋では兼任監督として1年(リーグ3位)、最後は金田正一監督に拾われて再びロッテ1年のプロ野球生活を送った。
 
 引退後は「日本野球体育学校」を設立したりしたが、プロ野球の表舞台からは一歩退いていた。

 セ・パ両リーグで首位打者3回、ベストナイン6回、全12球団から本塁打、2084試合出場、2057安打、367本塁打、通算打率・287を延べ5球団実働18年の生涯記録とする。

 斗酒(としゅ)猶(なお)辞せずの酒豪だった。日刊スポーツの「悼む」には、敬愛する先輩の署名記事で、奥さんの実家のある広島の酒「賀茂鶴」を愛飲したと書いてあった。

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※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。

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