2007年10月29日月曜日

和宮の「空蝉の唐織ごろも」

 ぶらり散歩に出る。
 東京・上野公園にある国立博物館で「大徳川展」を観た。徳川将軍宗家はじめ、尾張・紀伊・水戸の御三家、久能山・日光・尾張・紀州・水戸の東照宮などに伝えられる名品・宝物の数々300余点が一同に会する、まさに「大」がつく催しといえるだろう。
 絢爛豪華。将軍の往時の威光に感心した。

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 14代将軍の徳川家茂が皇女和宮に贈った西陣織が展示されていた。これが、あの「空蝉(うつせみ)の唐織ごろも」と思いを馳せる。
 以下は、日本史好きの方ならご存知の話だが、なぞらしていただきたい。

 幕末。150年ほど前のことである。皇女和宮は1861年、14代将軍・徳川家茂に降嫁した。ともに16歳。政略結婚だった。
 ペリー来航(1853年)以降、徳川幕府は弱体化し体制は大きく揺らいでいた。なんとか天皇家の力を借りて政権地盤を固めようとする公武合体政策にそって姻戚関係を築こうとしたのである。
 いやいや江戸に下った和宮だが、13代将軍正室の天璋院との確執やら生活習慣の違いから泣きの涙で暮らすが、ただひとり味方になったのが家茂だった。いつしかふたりは仲むつまじい夫婦になっていく。
 1866年第2次長州征討(幕長戦争)が起こり、家茂は出征するが、大阪城で病に臥し、死去する。享年20歳という若さだった。
 この長州征討の折、まさか死ぬとは思っていない和宮は家茂に土産を所望する。それが西陣の織物である。家茂の死後、側近から織物を手渡された和宮は、病中にも土産を忘れていない家茂を思い号泣するのだった。

 そのとき詠んだのが、
「空蝉の唐織ごろも なにかせむ 綾も錦も君ありてこそ」
という歌である。

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 家茂は和宮を一途に愛し側室を設けなかったというが、本当だろうか。

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