2007年10月17日水曜日

ラッパが聞こえる東京球場

 それは異様な光景だった。日本プロ野球史上初めての出来事といっていい。
 優勝が決まった。マウンドに歓喜の輪が広がった。監督、選手がダッグアウトから堰を切ったよう飛び出した。と、同時に観客、ファンもグラウンドになだれ込んだ。胴上げが始まった。
 夜空に舞ったのはなんと永田雅一だった。胴上げの順番はまず監督、それから主力選手というのが通り相場だが、いの一番が球団オーナーだった。選手をさしおいてファンが入り乱れて小柄な男を宙に放り上げている。東京音頭の大合唱が轟(とどろ)いた。
 1970年(昭和45)10月7日。ロッテ・オリオンズがパシフィック・リーグ優勝を飾ったのは、東京下町の南千住(荒川区)にある東京球場(正式名には東京スタジアム)である。

 振り返れば、野球人・永田雅一の絶頂の時ではなかったか。舞台は彼が私財を投じて作った「夢の球場」だった。

 プロ野球常設球場としてわずか11年しか使用しなかった東京球場の数奇な運命を、草野球音は追う。

 永田が社長を務める本業の映画会社、大映は経営難に喘いでいた。球団、球場経営も「危険水域」に達していた。1969年、「昭和の妖怪」といわれ総理大臣の座を引いてもなお政財界に影響力のあった盟友である岸信介の仲介で菓子メーカーのロッテを冠スポンサーに資金援助を受けることになった。東京・オリオンズがロッテ・オリオンズに改称されている。チーム名の「東京」には愛着がある。東映、読売、国鉄もフランチャイズは東京だが、球団名に「東京」を名乗るのはオリオンズだけ、それが永田には自慢だった。が、背に腹は代えられない。球団名はどうあれ、とにかく優勝の思いがあった。(つづく)

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