2007年11月10日土曜日

ジャイアンツ・馬場正平

 まずお断りをしておく。表題は「ジャイアント馬場」でなく「ジャイアンツ・馬場」である。

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 この項は、歌手の桑田佳祐が“世界の巨人”ジャイアント馬場とCM共演するということを、大衆かわら版で読んだのが発端となった。ご存知の方も多いだろう。過去にも黒澤明、植木等と合成映像で「出演」している缶コーヒーのテレビCMだ。

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 ジャイアント馬場(1938年―1999年=享年61)がプロレスラーになる前、プロ野球の読売巨人軍の投手であったことを記憶に留めたい。巨人に在籍したのは5年間。一軍の登板機会はわずか3試合で7イニングだけ。奪った三振は3、失点1で防御率は1.29、打撃は1打席のみで3球三振という記録が残っている。投手の実績を見るバロメーターである生涯防御率は、400勝投手の金田正一(国鉄―巨人、実働20年)の2.34、鉄腕・稲尾和久(西鉄、実働14年)の1.98を上回る。当然、冗談半分に単純比較をするつもりはないが、意外というべき防御率の良さではないか。
 プロ野球選手歴5年・3試合。そしてプロレスラー歴38年・5,759試合、NWA世界ヘビー級王者であり頂点を極めた男――希少価値のある「巨人投手・馬場正平」を草野球音が追う。

 馬場が投げているのを生で見たことありますか?
 実は「ナマ馬場」を見たことがあるのだ。これが自慢だ。1957年(昭和32)だったと記憶する。当時、巨人の合宿所は多摩川の川崎・丸子橋のたもとにあった。野球少年の球音は、近所の友達と巨人の練習を見に出掛けた。たまたま練習が休みだったのか、多摩川の河原で馬場はキャッチボールをしていた。相手は安原達佳投手(倉敷工高)と十時啓視外野手(岩国高)だった。
 安原は上手投げから下手投げに投法改造して成功した投手である。十時は代打で登場した左の外野手だった。安原は1954年、十時は馬場と同じ1955年入団である。

 同期入団組には、十時のほかにV9の頭脳捕手であり西武監督として日本一に6度輝いた森祇晶(まさあき、旧名・昌彦=岐阜高)、いきなり主軸を打ち2度の打点王を獲得した外野手のエンディ宮本(登録名・敏雄、ボールドウィン高―ハワイ朝日)、投手で入団したが俊足巧打の外野手としてV9に貢献した国松彰(同志社大中退)、1957年に新人の藤田元司とともに17勝を稼いだ木戸美摸(よしのり、加古川農短大附属高)がいる。
 
 1955年(昭和30)の選手名簿を見ると、馬場は巨人選手のなかで最年少の17歳となっている。これは新潟・三条実業を中退して入団したためである。身長は200cm体重90kと登録されている。プロスラーとして公表していた209㎝135k(全盛時は145k)と比較すると、ひと回り小さい。大きいことを喧伝されることを嫌い過少申告していたのではないかと想像する。
 
 王貞治は1959年、長嶋茂雄は1958年の巨人入団。ONがまだいない巨人はどのような陣容だったのか。
 1955年の開幕戦オーダー(所属経歴は同年時)は、
(左)与那嶺 要=フェリントン高―3Aサンフランシスコ
(ニ)千葉  茂=松山商
(中)岩本  尭=田辺高―早稲田大
(一)川上 哲治=熊本工
(右)南村 侑広=市岡中―早稲田大―横浜金港クラブ―西日本
(三)広岡 達朗=三津田高―早稲田大
(捕)広田  順=ハワイ大―ハワイアサヒ
(投)別所 毅彦=滝川中―日本大(中退)―南海―近鉄―南海
(遊)平井 三郎=徳島商―明治大―全徳島―阪急―西日本
となっている。
 投手陣は別所のほか、剛球左腕の中尾硯志(京都商)、安定感のある下投げ大友工(大阪逓信講習所―神戸通信局―但馬貨物)、スライダーの藤本英雄(この年引退=下関商―明治大―巨人―中日)と並び、投打ともにビッグネームのオンパレードである。川上と千葉は兼任助監督であり、率いるは勝負師・水原円裕(本名・茂、のぶしげ=登録名は1955年~59年まで使用)であった。(つづく)

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