2009年5月21日木曜日

築山桂「北前船始末」

緒方洪庵と種痘

 築山桂の「緒方洪庵 浪華の事件帳」の第2弾『北前船始末』(双葉文庫)を読む。
 前作の「禁書売り」同様に4つの話からなる連作。
・第一話「神道者の娘」
・第二話「名目金貸し」
・第三話「北前船始末」
・第四話「蘭方医」
 表題をとった「北前船始末」がシロイヌ。緒方章(後の洪庵)が北前船の抜け荷をめぐる事件に巻き込まれる。船頭・卯之助が松前から荒波を越え大坂に連れてきた少女・おゆきの身にある秘密が隠されていた。

×  ×  ×

 緒方洪庵の功績に、大村益次郎、福澤諭吉らの人材育成と並んで種痘の普及がある。
 江戸時代にはあばた顔の人が多かった。「あばた」とは、疱瘡(天然痘)に罹った人にできる斑点をさした言葉で、天然痘は当時最も恐れられていた病のひとつだった。天然痘を予防し、患っても軽い症状ですむ接種法を種痘といい、牛痘種痘法による種痘を開発したのは、英国のエドワード・ジェンナーEdward Jenner(1749年―1823年)だった。1796年のことだった。
 日本で種痘を一番初めに成功させたのは、遅れること50年、嘉永2年(1849年)、長崎でフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796年―1866年)に直接指導を受けた佐賀藩医の楢林宗建(ならばやし・そうけん1802年―1852年)だった。その種痘を日本に広めたのが洪庵である。

×  ×  ×

 第三話「北前船始末」では、種痘の問題を取り上げている。20歳の緒方章が、種痘に興味を持つ発端を描いている。修業時代の章から、後の洪庵の業績を結びつけた作者の着想が読ませる。
 章と、男装の麗人・左近の恋の行方はどうなるのだろうか。それにしても、左近のキャラクターは実に魅惑的である。
2009年5月19日読了

2009年5月16日土曜日

二束のわらじ川上澄生

版画家にして英語教師

 ぶらり散歩に出る。横浜駅東口のそごう美術館(そごう横浜店6階)で『文明開化を描いた版画家 川上澄生展』(5月9日~6月7日)を観る。
 横浜開港150周年ということで、横浜・紅葉坂生まれで黒船やペリーなど文明開化の風物を制作した版画家・川上澄生(かわかみ・すみお)の約500点の作品を展示している。

 川上(1895年―1972年)は6歳で東京に移住しているので、横浜での生活は短い。幼少時の文明開化の匂いが濃厚に漂うふるさと横浜に、強い郷愁を感じ作品のモチーフとしていた。
 展示を通して観ると、横浜・文明開化・南蛮というキーワードの作品もさることながら、木版画、木版の絵本、ガラス絵、革絵、木工品、書籍装丁など多岐多彩多作のクリエーターであることを知った。この多作のほとんどが、昼は教壇に立ちながら、夜にせっせと作りあげたとは恐れ入る。
 22歳でカナダ、アラスカへと渡り、帰国後の1921年に栃木県宇都宮中学(現・宇都宮高校)の英語教師となった。疎開先の北海道・苫小牧(苫小牧中学=現・苫小牧東高校)、さらに戦後に宇都宮女子高校でも教鞭をふるっている。版画に専念したのは63歳の退職後だったという。生涯に数千点の作品を生み出した。

 作品のなかでは、「へっぽこ先生」という木版画が気に入った。左手に風呂敷、右手にステッキ、山高帽子に三つ揃いの背広、眼鏡をかけた紳士が田舎道を歩いている。これは川上澄生自身の姿だろう。観ていると、ユーモラスであり、ほのぼのしてくるのだ。
2009年5月14日観覧

2009年5月14日木曜日

築山 桂「禁書売り」

緒方洪庵が事件に挑む

 築山桂の「禁書売り~緒方洪庵 浪華の事件帳」(双葉文庫)を読む。
 この本に惹かれたというか、トリガーになったのは「緒方洪庵」だった。緒方洪庵(1810年―1863年)は、大村益次郎、福澤諭吉、大鳥圭介、橋本左内を輩出した蘭学の私塾「適塾」(正式には『適々斎塾』)の主宰者であり、幕末から明治にかけての日本近代化の功労者のひとりだ。その歴史上の実在した人物が事件に関わるという、副題に興味を持って手にしたのだった。

 これは超シロイヌである。特に男装の麗人、左近が魅力的だった。
 大坂の蘭学塾「思々斎塾」で勉学に励む緒方章(後の洪庵)は、師匠の中天游(なか・てんゆう)のため禁制の蘭学書を購入しようと、禁書売りと接触する。ところが取引の場所で、禁書売りは殺されていた。
 困惑する章の前に現れたのは、大坂の町を護る「在天」の左近という男装の娘だった。
・第一話「禁書売り」
・第二話「証文破り」
・第三話「異国びと」
・第四話「木綿さばき」
 一話ごとに章と左近が事件を解決するが、物語は進行する連作となっている。
 副題に「浪華」とあるように、江戸時代の大坂が舞台となっている。作者の大坂に対する想いがあるのかもしれない。築山桂(つきやま・けい)は大阪大学院卒の既婚女性だそうだ。

×  ×  ×

 NHKで緒方章に窪田正孝、左近に栗山千明のキャストで「土曜時代劇・浪花の華~緒方洪庵事件帳」として今春まで放送されていた。
2009年5月13日読了

2009年5月12日火曜日

あの名台詞:瞼 の 母

*女優・森光子主演の舞台「放浪記」が、2009年5月9日の東京・帝国劇場で上演回数2000回を達成した。林芙美子役は初演の1961年以来の持ち役で、単独主演回数としては国内最高、世界にも例をみない大記録である。この記念すべき日に89歳の誕生日を迎えた。
 政府は5月11日、森光子に国民栄誉賞を授与することで検討に入った。

×  ×  ×
 森光子の「放浪記」初演は昭和36年、遅咲きの森41歳のことだった。
 当時の芸能界は、歌謡界では17歳下の美空ひばり、映画界では14歳下の石原裕次郎がすでにスーパースターであった。植木等の「スーダラ節」がヒットした年で、時代劇映画も全盛で、東映の中村錦之助(後の萬屋錦之介)、大映の市川雷蔵が銀幕に颯爽と輝いていた。錦之助は12歳、雷蔵は11歳年少で、ひばり、裕次郎とも鬼籍に入っている。
・美空ひばり(1937年―1989年)
・石原裕次郎(1934年―1987年)
・中村錦之助(1932年―1997年)
・市川雷蔵(1931年―1969年)

×  ×  ×
 さて、長谷川伸の「あの名台詞:瞼の母」である。「瞼の母」はもともと戯曲で、舞台、映画で番場の忠太郎は数多く演じられたが、草野球音にはなんといっても中村錦之助の映画瞼の母 [DVD](監督=加藤泰・東映)である。錦之助が忠太郎を演じたのは、森の「放浪記」初演の翌年の昭和37年、1962年だった。
 あの頃の錦之助は目が光っていたなぁ。演技の熱がスクリーンから伝わるようだった。

 幼い頃に母と別れ、父とも死別した番場の忠太郎は、やくざ渡世に身を置く一本独鈷。母を訪ねて江戸へと着いた。夜鷹の老女から柳橋の料理屋・水熊の女将が昔、江州番場宿で子どもを残してきたと聴く。まだ見ぬ母の生活資金と貯めた百両を懐に、忠太郎は水熊の女将おはまに会いに行く。

おっかさん、忠太郎でござんす。

 おはまにはお登世という娘があり、娘のために忠太郎を自分の子でないと突っぱねる。夢にまでみたおっかさん、逢わなければよかったのか。悲嘆にくれる忠太郎が泣かせる。

考えてみりゃあ俺も馬鹿よ、
幼い時に別れた生みの母は、
こう瞼の上下ぴッたり合せ、
思い出しゃあ絵で描くように見えてたものを
わざわざ骨を折って消してしまった。

おはま役は木暮実千代で、親子対面の場では忠太郎役の錦之助とやりとりは、緊迫感があった。お登世役は大川恵子、老夜鷹には沢村貞子が扮した。錦之助の弟分、金町の半次郎役で松方弘樹が出演している。

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 中村錦之助と森光子は1965年に「冷飯とおさんとちゃん」(監督=田坂具隆・東映)で共演している。山本周五郎の原作「ひやめし物語」「おさん」「ちゃん」3編の映画化だが、このオムニバス映画で錦之助は3役をこなしている。ふたりは第3話「ちゃん」で、火鉢職人と4人の子持ちの妻役を演じた。