神奈川宿あたり
4週間のご無沙汰です。「蜘蛛巣丸太」をあまりに更新しないので、臥(ふ)せっているのでは、とご心配をいただいたりした。勝手ながら夏休みをとり、ひねもす北京五輪をテレビ観戦するズボラ暮らしを送っていた。呑気な隠居でも、そろそろ惰眠から覚めねば、額に汗して働いているみなさんに申し訳が立たない。極楽トンボを返上する。
草野球音の話題は、4週間を経ても、相変わらず幕末~明治維新に留まっている。
× × ×
ぶらり散歩に出る。住まいの界隈をぶらつく。
まず足は京浜急行の神奈川駅に向かう。
神奈川駅は青木橋の袂(たもと)にある。急行も止まらぬ小さな駅だが、東海道五十三次の宿場、神奈川宿のあった場所である。
東海道は起点の江戸日本橋から7里(28k)、品川、川崎と数えて3番目の宿場で、人の往来は頻繁であった。
1872年(明治5年)新橋~横浜に鉄道の開通に伴って架けられた跨線橋である青木橋をわたると、本覚寺が見える。
この寺(横浜市神奈川区高島台1番地の2)は、幕末の横浜開港時、アメリカの領事館だった。
本覚寺は鎌倉時代に臨済宗の寺として開山されたが、戦国時代に荒廃し、後に1500年頃に曹洞宗の寺として再興された。江戸時代は万病に効く「黒薬」が宿場の名物として売れたという。
坂を上り、本覚寺に着くと、門前には「アメリカ領事館跡」の石碑は立っている。その近くには、岩瀬肥後守忠震の顕彰碑がある。岩瀬は神奈川(横浜)開港を首唱し、タウンゼント・ハリス(1804―1878)と交渉した役人である。
1858年日米修好通商条約が締結された。翌1959年、ハリスは本覚寺を見分けし、神奈川の船着場に近く高台にあり景色がよく、対岸の横浜村が見渡せることから、領事館として最適とした。
この付近には、幕末の頃、外国領事館だったお寺が多い。京浜急行神奈川駅から品川に向かい、歩き出せば、程なくイギリス領事館だった浄瀧寺、フランス領事館で浦島太郎伝説の慶運寺なども現れる。そのほかオランダ領事館の長延寺、宣教師宿舎でヘボン式ローマ字のヘボンがと居た成仏寺も「隣組」である。
生麦事件で負傷したイギリス人、マーシャルとクラークが生麦から逃げ込んだが本覚寺であり、その治療を施したのがジェームス・カーティス・ヘボン博士(1815―1911)だった。
2008年8月31日日曜日
2008年8月3日日曜日
新聞の父ジョセフ彦Ⅱ
吉村昭の記述
コレって、不思議だよね。
改造したばかりの福田内閣支持率が、朝日と読売で段違いである。
朝日新聞社は「横ばい24%」、片や読売新聞社は「好転41%」と、2008年8月3日の紙面ならびに電子版が伝えている。どちらも8月1日と2日の緊急世論調査(電話方式)によるという。
内閣支持率は朝日が低め、読売高めの傾向となっているが、今回の17%という差は珍しい。というより、こんなに世論調査の結果がなぜ違うのだろうか。あり得ない差異ではないか、と思う。
発行部数において日本のトップ2を誇る2紙だけに、大いに気になるところだ。
× × ×
さて、新聞といえば、新聞の父といわれるジョセフ彦のことを書いた歴史小説「アメリカ彦蔵」(吉村昭著=新潮文庫)を読む。
吉村昭の本は、恥かしながら、今まで読んだことがなかった。難(かた)そうで敬遠していた。
興味を抱く幕末を題材した小説を数多く書かれているので、向学のためにも「食わず嫌い」を捨てた(ご大層な言い方か)。読み出すと、その取材力の周到さに圧倒される。とても及びもつかぬ。頭が下がる。耽読した次第である。
「新聞の父:ジョセフ彦」(2008年7月17日記)では、リンカーンのゲティスバーグの演説記事を読んで、新聞発行の意を強くしたと書いたが、吉村昭著では記述がなかった。草野球音はどこぞで読んだ記憶で書いたものだが、吉村は自ら確認したことだけを信用して書いている。彼の書いたものに、「どこぞ」などという中途半端な記述は一切ないのだ。ゲティスバーグの件は、彼の取材では”裏”が取れなかったのではないか、と推測する。
「私(吉村昭)は小説を書くとき、その裏付けとして取材するが、まず他人の書いたものを信用しない。自らの足で歩き自らの耳で聴くことに徹する」。
彼は信念の記述をする書き手である。
コレって、まさに、新聞報道の基本ともいえるものではないか。
とかくいい加減な記述のある草野球音、いたく勉強となった「アメリカ彦蔵」だった。でも、とても真似はできないのだ。
コレって、不思議だよね。
改造したばかりの福田内閣支持率が、朝日と読売で段違いである。
朝日新聞社は「横ばい24%」、片や読売新聞社は「好転41%」と、2008年8月3日の紙面ならびに電子版が伝えている。どちらも8月1日と2日の緊急世論調査(電話方式)によるという。
内閣支持率は朝日が低め、読売高めの傾向となっているが、今回の17%という差は珍しい。というより、こんなに世論調査の結果がなぜ違うのだろうか。あり得ない差異ではないか、と思う。
発行部数において日本のトップ2を誇る2紙だけに、大いに気になるところだ。
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さて、新聞といえば、新聞の父といわれるジョセフ彦のことを書いた歴史小説「アメリカ彦蔵」(吉村昭著=新潮文庫)を読む。
吉村昭の本は、恥かしながら、今まで読んだことがなかった。難(かた)そうで敬遠していた。
興味を抱く幕末を題材した小説を数多く書かれているので、向学のためにも「食わず嫌い」を捨てた(ご大層な言い方か)。読み出すと、その取材力の周到さに圧倒される。とても及びもつかぬ。頭が下がる。耽読した次第である。
「新聞の父:ジョセフ彦」(2008年7月17日記)では、リンカーンのゲティスバーグの演説記事を読んで、新聞発行の意を強くしたと書いたが、吉村昭著では記述がなかった。草野球音はどこぞで読んだ記憶で書いたものだが、吉村は自ら確認したことだけを信用して書いている。彼の書いたものに、「どこぞ」などという中途半端な記述は一切ないのだ。ゲティスバーグの件は、彼の取材では”裏”が取れなかったのではないか、と推測する。
「私(吉村昭)は小説を書くとき、その裏付けとして取材するが、まず他人の書いたものを信用しない。自らの足で歩き自らの耳で聴くことに徹する」。
彼は信念の記述をする書き手である。
コレって、まさに、新聞報道の基本ともいえるものではないか。
とかくいい加減な記述のある草野球音、いたく勉強となった「アメリカ彦蔵」だった。でも、とても真似はできないのだ。
2008年7月29日火曜日
「ヴ」考案は福澤諭吉
英語の先駆者
高校野球で慶応高校が、北神奈川県予選を勝ち抜き、夏の甲子園出場を46年ぶりに果たした――というわけで、半ば強引に、慶応義塾の創始者である福澤諭吉の小ネタである。
× × ×
英語の「V」の発音を、「ウ」に濁点をつけた「ヴ」と表記することを初めて考案したのは、福澤諭吉(1835年―1901年)だという。
万延元年(1860年)、彼は「華英通語」という本を出版した。英語と中国語との対訳の単語短文を日本語に訳したもので、英語の発音をカタカナで表記している。ここで、「ヴ」という表記が本邦初登場した。「ブ」との発音の差異を明確にしたわけで、さすが先駆者は賢いと感心したことがある。
諭吉は安政6年(1859年)、開港したばかりの横浜を訪れている。横浜は日米修好通商条約締結(1858年)後に開かれた5つの港(箱館、新潟、神戸、長崎、横浜)のひとつだった。横浜は、江戸に隣接し防衛上の問題から東海道の神奈川宿に外国船の発着を避けたい幕府の要望で、宿場とは離れた寒村に港を築いた。なにもないところに忽然として外国文字の店が建ち並ぶ、不思議な空間がそこにあった、と想像する。
大坂の緒方洪庵(1810年―1863年)の適塾で蘭学を学びオランダ語に通じていた彼は、腕試しとばかりに興味深く街を歩いたが、店の看板、行き交う人の言葉を、さっぱり理解できなかった。衝撃を受ける。英語を知らなければ、世界に通用しないことを悟ったのだった。
翌日から彼の英語学習は始まった。
万延元年(1860年)、日米修好通商条約批准のため、日本初の遣米使節団として、咸臨丸で勝海舟やジョン万次郎らと渡米する。
高校野球で慶応高校が、北神奈川県予選を勝ち抜き、夏の甲子園出場を46年ぶりに果たした――というわけで、半ば強引に、慶応義塾の創始者である福澤諭吉の小ネタである。
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英語の「V」の発音を、「ウ」に濁点をつけた「ヴ」と表記することを初めて考案したのは、福澤諭吉(1835年―1901年)だという。
万延元年(1860年)、彼は「華英通語」という本を出版した。英語と中国語との対訳の単語短文を日本語に訳したもので、英語の発音をカタカナで表記している。ここで、「ヴ」という表記が本邦初登場した。「ブ」との発音の差異を明確にしたわけで、さすが先駆者は賢いと感心したことがある。
諭吉は安政6年(1859年)、開港したばかりの横浜を訪れている。横浜は日米修好通商条約締結(1858年)後に開かれた5つの港(箱館、新潟、神戸、長崎、横浜)のひとつだった。横浜は、江戸に隣接し防衛上の問題から東海道の神奈川宿に外国船の発着を避けたい幕府の要望で、宿場とは離れた寒村に港を築いた。なにもないところに忽然として外国文字の店が建ち並ぶ、不思議な空間がそこにあった、と想像する。
大坂の緒方洪庵(1810年―1863年)の適塾で蘭学を学びオランダ語に通じていた彼は、腕試しとばかりに興味深く街を歩いたが、店の看板、行き交う人の言葉を、さっぱり理解できなかった。衝撃を受ける。英語を知らなければ、世界に通用しないことを悟ったのだった。
翌日から彼の英語学習は始まった。
万延元年(1860年)、日米修好通商条約批准のため、日本初の遣米使節団として、咸臨丸で勝海舟やジョン万次郎らと渡米する。
2008年7月27日日曜日
川本幸民ビールの味
黒船期に試醸
冷えたビールが旨い今日この頃です。(「季節に関係なく、年がら年中、旨いと言って飲んでいる」、との陰の声あり)。さて、揃って食事となれば、「とりあえずビール」となりますなぁ。これを英語で言えば、
We’ll start with beer.
となると、NHK語学講座「英語が伝わる!100のツボ」で“楽習”しました――「シュダヴは後悔の表現」(2008年6月29日)。
× × ×
ぶらり散歩に出る。
横浜は、あの生麦事件のあった鶴見区生麦のキリン横浜ビアビレッジ(京浜急行の生麦駅から徒歩10分)である。
1時間のブルワリーツアー(工場見学)に参加した。ビールの製造工程(原料、仕込み、発酵・貯蔵、ろ過、パッケージング)を女性ガイドが案内してくれる。最後の20分は出来たてのビールの試飲(大きなビアグラスで2杯までOK)ができる。無料なので、これは夏の時間つぶしの穴場といえる。
さて、このビールを初めて醸造した日本人は、川本幸民(1810年―1871年)という蘭学者だった。化学の実験で試醸したのだが、幸民は自分で醸して飲みたい気持ちがあったのではないか。彼は飲兵衛だったという。
このビールの試醸は、黒船来航の嘉永6年(1853年)頃だった。当時、西欧でよく読まれていた、ドイツの農芸化学書のオランダ語版を自ら翻訳した「化学新書」を手に、江戸・芝露月町の私宅で作ったビールはどんな味だったろうか。
1810年(文化7年)摂津国有馬郡三田藩(兵庫県三田市)の藩医の子として生まれる。幼少の頃から勉学に励む。江戸に出てオランダ医学を学び、後に物理・化学を分野まで精通する、著名な蘭学者となる。学識を買われ、薩摩藩に迎えられている。
化学という言葉を初めて使った人としても知られ、マッチ、銀板写真の製作なども手掛けていて、西欧の文化を幕末、明治維新期の日本に紹介することで大いに貢献した。偉大な学者だった。
× × ×
日本での本格的なビール醸造は、文明開化の横浜から始まった。
1870年(明治3年)、アメリカ人のウィリアム・コープランド(1834年―1902年)が横浜居留地・山手123番(現在の中区、北方小学校付近)に「スプリング・バレー・ブルワリー」を創設し、日本で初めて商業的にビールを醸造した。客は主に居留地の外国人だった。その後、麒麟麦酒の前身「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」に引き継がれ、1888年(明治21年)「麒麟ビール」が全国に販売された。
1923年(大正12年)の関東大震災で、山手工場が破損したため、生麦に工場を移転し、今日に至っている。
キリン横浜ビアビレッジの見学コース入り口から徒歩3分ほどのところに、あの「生麦事件」のあった場所を示す石碑が、よく見ないと通り過ぎるほど地味に建っている。薩摩藩士がイギリス人を殺傷した事件である。文久2年(1862年)のことだった。
冷えたビールが旨い今日この頃です。(「季節に関係なく、年がら年中、旨いと言って飲んでいる」、との陰の声あり)。さて、揃って食事となれば、「とりあえずビール」となりますなぁ。これを英語で言えば、
We’ll start with beer.
となると、NHK語学講座「英語が伝わる!100のツボ」で“楽習”しました――「シュダヴは後悔の表現」(2008年6月29日)。
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ぶらり散歩に出る。
横浜は、あの生麦事件のあった鶴見区生麦のキリン横浜ビアビレッジ(京浜急行の生麦駅から徒歩10分)である。
1時間のブルワリーツアー(工場見学)に参加した。ビールの製造工程(原料、仕込み、発酵・貯蔵、ろ過、パッケージング)を女性ガイドが案内してくれる。最後の20分は出来たてのビールの試飲(大きなビアグラスで2杯までOK)ができる。無料なので、これは夏の時間つぶしの穴場といえる。
さて、このビールを初めて醸造した日本人は、川本幸民(1810年―1871年)という蘭学者だった。化学の実験で試醸したのだが、幸民は自分で醸して飲みたい気持ちがあったのではないか。彼は飲兵衛だったという。
このビールの試醸は、黒船来航の嘉永6年(1853年)頃だった。当時、西欧でよく読まれていた、ドイツの農芸化学書のオランダ語版を自ら翻訳した「化学新書」を手に、江戸・芝露月町の私宅で作ったビールはどんな味だったろうか。
1810年(文化7年)摂津国有馬郡三田藩(兵庫県三田市)の藩医の子として生まれる。幼少の頃から勉学に励む。江戸に出てオランダ医学を学び、後に物理・化学を分野まで精通する、著名な蘭学者となる。学識を買われ、薩摩藩に迎えられている。
化学という言葉を初めて使った人としても知られ、マッチ、銀板写真の製作なども手掛けていて、西欧の文化を幕末、明治維新期の日本に紹介することで大いに貢献した。偉大な学者だった。
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日本での本格的なビール醸造は、文明開化の横浜から始まった。
1870年(明治3年)、アメリカ人のウィリアム・コープランド(1834年―1902年)が横浜居留地・山手123番(現在の中区、北方小学校付近)に「スプリング・バレー・ブルワリー」を創設し、日本で初めて商業的にビールを醸造した。客は主に居留地の外国人だった。その後、麒麟麦酒の前身「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」に引き継がれ、1888年(明治21年)「麒麟ビール」が全国に販売された。
1923年(大正12年)の関東大震災で、山手工場が破損したため、生麦に工場を移転し、今日に至っている。
キリン横浜ビアビレッジの見学コース入り口から徒歩3分ほどのところに、あの「生麦事件」のあった場所を示す石碑が、よく見ないと通り過ぎるほど地味に建っている。薩摩藩士がイギリス人を殺傷した事件である。文久2年(1862年)のことだった。
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