2010年1月21日木曜日

武宮敏明:ちょいmemo

映画では小林旭が演じた

 読売ジャイアンツの合宿所寮長を29年間務め、常勝巨人を陰で支えた功労者、武宮敏明(たけみや・としあき)が2010年1月15日に亡くなった。88歳だった。

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 思い出したことがある。
・ニックネーム命名の名手
 183㌢86㌔体躯ながら気の優しさから「メリーちゃん」といわれた下手投げ投手、渡辺秀武をご存知だろうか? 巨人―日本ハムー大洋―ロッテ―広島と渡り歩き19年間も現役生活を送った。巨人在籍の1970年(昭和45年)には23勝を稼いでいる。渡辺の「メリーちゃん」は武宮敏明が命名者である。
 渡辺は気の弱さから巨人入団後芽が出なかった。当時、バヤリースオレンジのテレビCMに出演しているチンパンジーの「メリーちゃん」を見て、「渡辺に似ている」と言ったことがニックネームの由来だそうだ。

 現役時代は大毎ミサイル打線の4番で「打撃の職人」「シュート打ちの名人」といわれ、首位打者1回、本塁打王2回、打点王4回に輝いた山内一弘だが、監督コーチになってからは「かっぱえびせん」の異名をとった。巨人で打撃コーチを務めていたころ、指導が熱心でなかなか「やめられない、とまらない」状態となった。そばで見ていた武宮寮長が「まるで“かっぱえびせん”のようじゃなぁ」と言ったのを、担当記者が聞きつけ記事したところ、テレビCMで流行っていたフレーズでもあり、あっという間に広まった。

川上哲治の2年後輩
 武宮は熊本工業出身で捕手だった。奉天満鉄倶楽部、九州産業交通を経て戦後の1947年(昭和22年)に巨人に入団した。V9監督・川上哲治は熊本工の2年先輩で、投手だった。巨人に入団後も、貴重な左腕として4年間で11勝を記録している。熊本工―巨人でバッテリーを組んだのは、強肩強打のファイター吉原正喜だった。吉原は1944年戦死したが、殿堂入りを果たしている。
 1957年、当時の巨人不動の4番で「打撃の神様」といわれていた川上の半生を描いた映画「川上哲治物語 背番号16」が日活で製作された。川上役は川上本人が演じた。恐ろしく台詞の少ない主役だった。
 妻には新珠三千代、同僚の吉原には宍戸錠、そして武宮役にはあの小林旭が扮したのである。小林は1959年の「南国土佐を後にして」(ペギー葉山の同名ヒット曲の映画化)が興行的に大当たりしてスターダムにのし上がったが、まだマイトガイ旭の売れる前のことだった。

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