ハワイへ行こう!
ハワイについて補足する。
「憧れのハワイ航路」が流行った戦後すぐにハワイへの観光旅行ができたわけではない。海外渡航の自由化は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)のことで、それ以前は留学・移民など目的を持った人にしか旅券(パスポート)発行されず、観光目的では簡単に出国できなかった。
当時の為替レートは1ドル360円で、渡航者1人500ドル(18万円)までと持ち出せる外貨の制限もあった。
1961年にサントリー・ウィスキーの「トリスを飲んでハワイへ行こう!」というテレビCMが大人気となった。1960年に政府が「貿易為替自由化大網」を発表し、海外旅行への道筋ができた。そのタイミングを捉えて海外旅行が自由化になり次第、ハワイへ行けるという賞品を掲げたのである。まさに「憧れのハワイ」に夢が膨らんだ。
ハワイ観光が脚光を浴び出したのは、1959年米国の50番目の州と昇格してからだ。それまでは軍事基地の島であった(現在も米国太平洋艦隊の基地がある)。同年、アラモアナ・ショッピングセンターが完成し、イケメン探偵が活躍するテレビ番組「ハワイ・アイ」(1959年~1963年)が放送され、全米でハワイ・ブームが巻き起こった。この年の、観光客数は20万人だった。
1967年に100万人、1972年200万人、1976年300万人、1982年400万人、1986年500万人と観光客数は増え続け、現在では年間700万人が訪れる世界的な観光の島となっている。そのうち日本人観光客は約2割。
1885年に初めて官約移民が日本からハワイに渡った。先立つこと13年、1868年(明治元年)にハワイに移民していたが、徳川幕府と移民ブローカーとの間で交わされた協定で募集された移民で、発足直後の明治政府からは認められなかった。この日本人移民を“元年もの”と呼ばれた。
1941年12月7日(日本時間は12月8日)日本海軍はホノルルの真珠湾を攻撃し、太平洋戦争に突入する。ハワイで生まれ育った日系アメリカ人の若者は忠誠心を誓い、志願兵となった。本土の日系人と合流し442連隊となり、欧州戦線で多くの戦死者を出しながらもアメリカのために勇躍した。
成田空港からハワイ・ホノルル空港まで路線距離にして3,831マイル。1マイル=1.609kmで計算すると、太平洋を挟み6,164キロ隔てている。ハワイは日本人にとって、移民の歴史も古く、発火点となった太平洋戦争の因縁も深く、最も親近感のある海外といえる。
ハワイで道草したが、本題の「石本美由起:memory」に戻ろう。(続く)
啼くな小鳩よ/東京の花売娘/憧れのハワイ航路
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