2011年10月29日土曜日

佐江衆一「動かぬが勝」

江戸の匂いが漂う、味のある短編7作品でした。
  佐江衆一の「動かぬが勝」(新潮文庫)を読む。時代小説7編を集めた短編集。
  表題作の「動かぬが勝」は、還暦を過ぎて剣の修行を始めた油屋問屋上州屋の隠居・幸米兵衛が、2度負けている剣術試合で、「不動智」の境地を開き3度目に勝を収める。息子を殺され男が老いた父親と幼い孫を抱え仇討する姿を描いた「峠の剣」。右手を斬り落とした薩摩示現流の遣い手と同じ流派の男に立ち向かう幕末維新を生きた剣客の物語の「最後の剣客」。最初の3篇は剣にまつわる話で、残り4編は世話物。
 
目次
・動かぬが勝
・峠の剣
・最後の剣客
・江戸四話
・木更津余話
・水の匂い
・永代橋春景色

×  ×  ×

 最後に収められた「永代橋春景色」に惹かれた。賭場の用心棒に身を落とした武士、親に捨てられた武家の幼子、そして橋に佇む寂しげな酌婦。三人に深い絆が芽生える話。
 1934年生まれの佐江さんは剣道5段とか。剣の立ち合いの描写はさすがに読ませます。江戸の時代や匂いを感じさせる、味わい深い短編集でした。
 20111026日読了
 
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ロートレック展:三菱一号館美術館


「退廃の画家」は19世紀末を駆け抜けた。
 19世紀末に画家・版画家としてパリで活躍したロートレックの作品を集めた「トゥールーズ=ロートレック展」(20111013日~1225日)が、東京・丸の内の三菱一号館美術館で開かれている。同館所蔵のロートレックのリトグラフなど約180点とフランスのアルビ市の姉妹館のトゥールーズ=ロートレック美術館の所蔵の油彩画などが展示されている。
構成
・第1章:トゥールーズ=ロートレック家の故郷・南西フランスと画家揺籃の地・アルビ
・第2章:世紀末パリとモンマルトルの前衛芸術
・第3章:芸術家の人生
 
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(1864年―1901年)は南西フランスの街アルビのボルグ城で名門貴族の家に生まれた。画才を幼少時から発揮し、8歳でパリに出て、絵の勉強をするが、13歳のとき左大腿骨、14歳で右大腿骨を骨折し、脚の発育が止まった。それでもパリでの修業を続けた。成人になっても身長は152センチに過ぎなかったといわれる。
1891年キャバレーのムーラン・ルージュのために描いたポスターが大評判となった。斬新な画法がロートレックを世に知らしめた。
パリやモンマルトルのキャバレー、ダンスホール、カフェ・コンセール(演芸喫茶)、劇場、芝居小屋に入り浸り、歌手や踊り子を華やかに描き出した。
  パリの退廃的な夜の世界に浸ったところから、「退廃の画家」といわれる。
 脚の怪我が作風に影響を与えたのだろうか。華やかな繁華街の裏側に生きる娼婦などの日常を共感と愛情をもち、優しい眼差しを注ぐように描いている。
1899年過度の飲酒が身体を蝕み、アルコール中毒で入院。
1901年、ボルドーに近いマルロメ城で母親に看取られ没した。36歳だった。「退廃の画家」は19世紀末を駆け抜けた。

モーリス・ジョワイヤンはロートレックの幼少時代からの親友であり画商。三菱一号館美術館所蔵のロートレックのポスターやリトグラフは、ロートレックがアトリエに残した作品をモーリス・ジョワイヤンに引き継がれたコレクション。
 
★ムーラン・ルージュ、ラ・グーリュ
 ロートレックがムーラン・ルージュの宣伝のために描いた、初のポスター。中央の脚を高く(フレンチカンカンですよね)上げているのがラ・グーリュ(食いしん坊)と呼ばれた踊り子。手前の影のように描かれている男は、ヴァランタン・デゾセ(骨なしヴァランタン)。身体が軟らく骨がないように踊るさまが異名となったとか。後景のシルエットが舞台の観客です。
――音声ガイドを借りましたら、そんな説明でしたぞ。

いや実に大胆な構図です。華やかパリの夜を活写していますね。
20111027日観覧

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2011年10月25日火曜日

方広寺鐘銘事件:「江」


大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」(第41回=姉妹激突!)

戻ったら伝えるがよい。

豊臣をおろそかにするようなことなど、

家康は毛ほども思わぬ。

案ずるにはおよびませぬと、な。

家康(北大路欣也)は、淀の使者である大蔵卿局(伊佐山ひろ子)に伝えた。



方広寺は豊臣秀吉により京・東山に建立された天台宗山門派の寺で、慶長元年(1596年)の地震により倒壊した。秀吉の死後、遺志を継ぎ秀頼(太賀)と淀(宮沢りえ)は寺の再建に乗り出していた。

慶長19年(1614年)。大仏殿が竣工、鐘の鋳造が終わり大仏開眼供養の日取りが決まった。ところが、7月家康から豊臣方に抗議が入る。鐘銘に徳川に対する呪詛(じゅそ)の文字が刻まれているというクレームである。

「国家安泰」「君臣豊楽」――。「家」と「康」を分断し、「豊」「臣」だけが世に君臨し栄えることを願った文字だと徳川は主張した。明らかな言いがかりである。



 豊臣方は弁明のため片桐且元(三田村邦彦)を駿府に差し向けた。淀は非公式に大野治長の母、大蔵卿局を送った。家康は大蔵卿局に直接会い、「他意はなく、心配いらぬ」を告げたのが、冒頭の台詞。

一方、片桐且元は家康との対面叶わず、本多正純(中山麻聖)から、

・大坂城明け渡し

・秀頼の江戸参勤

・淀の人質

3条件のうち1つを承諾するようにいわれる。

 食い違う2人の話に豊臣方は大混乱。徳川の回し者と、謀反の疑いをかけられた且元は大坂城を出る。淀は要求を突っぱねた。



「方広寺鐘銘事件」に端を発し、11月ここに家康と秀頼・淀との戦い「大坂冬の陣」が始まった。



×  ×  ×



 真田幸村(浜田学)が再登場しました。幽閉先の紀州・九度山を逃れ大坂入城でした。豊臣方に味方するため、淀、秀頼の前に参上しました。鋭い眼光に赤備え。颯爽とした戦国武者ですな。


 江戸では、江(上野樹里)と福(富田靖子)の世継ぎ争いをめぐるバトルが続いていました。それにしても竹千代(水原光太)がかなりひねくれた性格になっています。3代将軍になるはずですから、きっと改心するのでしょうが、国松(松島海斗)と比べて……。問題児に成長していますな。




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2011年10月18日火曜日

沼田まほかる「猫鳴り」

沼田まほかるの「猫鳴り」(双葉文庫)を読む。
 1匹の猫の一生を3部構成で描いている。
 ようやく授かった子供を流産した中年夫婦、信枝と藤治のもとに現れた生まれたばかりの捨て仔猫。信枝は何度か捨てようと試みるが、神秘的な生命力をみせる仔猫を、結局飼うハメになる。仔猫を捨てたのは変わった少女・有山アヤメで、「モン」と名付けていた。
 2部は荒んだ生活の少年・行雄の話。いつもサイバイバルナイフをポケットにしのばせ幼児を殺そうとする……。モンは近所のボス猫になっていた。
 3部は、妻の信枝に先立たれた老いた藤治が老猫モンの最期を看取る話。

×  ×  ×

 昨年2010年の2月に愛犬が亡くなった。151カ月。おつむは弱いが、愛くるしいポメラニアンだった。3部の老猫モンの最期を看取る老年の藤治の心境は、読むにつれ1年前の己と重なってきました。

 沼田まほかる――不思議な名前にまず興味をもちました。経歴では、1948年大阪府生まれ。主婦、僧侶、会社経営などを経て、50代から執筆活動を始めたそうです。
 なじみの横浜そごう「紀伊国屋書店」では、「九月が永遠に続けば」「彼女がその名を知らない鳥たち」の文庫が、「猫鳴り」と並び平積みされていました。注目の女性作家サンですね。
「猫鳴り」は、人生スチャラカでヤクザなあっしには重いストーリーでしたな。
20111015日読了

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世継ぎは竹千代:「江」


大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」(第40回=親の心)

こたびは、まずもって皆に言うておくことがある。

わが徳川家を継ぐは、そこなる竹千代とする。

 家康(北大路欣也)は江戸城に出向き、秀忠(向井理)、江(上野樹里)、福(富田靖子)はじめ家臣を前に宣言した。



 病弱な兄・竹千代と聡明な弟・国松。乳児のときから乳母の福(春日局)に育てらた竹千代と、自分の乳を与えた国松とでは、江の愛情も国松に向いがちとなる。江戸城では世継ぎは弟の国松との噂が流れ出した。不安にかられた福は伊勢参りと偽り、駿府の家康を訪ね「竹千代さまを世継ぎに」と訴える。

 しばらくして家康は江戸に現れ、竹千代の世継ぎを宣(の)べた。



×  ×  ×



 さて、竹千代は三代将軍の家光となったが、国松は忠長と名乗りり駿河国を治め、55万石を有して家光に迫る権勢を持った。通称は「駿河大納言」。が、江の死後、家臣を手討ちにしたなどの不行跡で秀忠により甲府に蟄居となった。さらに、秀忠の死後は家光により改易となり、自害に追い込まれた。享年29歳。ちなみに、松平長七郎は忠長の子とされ、里見浩太朗のドラマなどがあるが、架空の存在だそうだ。

 家光となった竹千代は次男で、忠長の国松は三男。長男は、秀忠が側女に手をつけ産ませたが、夭折した。また、秀忠と側室の静との間にできた四男は保科正之となり会津松平家の祖となった。



×  ×  ×



 江と春日局の世継ぎバトルは、昔から映画や舞台、ドラマで描かれていますが、実際はどんなものだったのでしょうか。
 家康の世継ぎ宣言にも、江はまだ納得していないようでした。

 大坂城では秀頼(太賀)が側室との間に子を儲けましたな。千姫は芦田愛菜ちゃんから忽那汐里(くつなしおり)に代わりました。淀(宮沢りえ)の家康憎しの状態は回を追うごとにエスカレートしています。

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2011年10月13日木曜日

川上音二郎・貞奴展:茅ヶ崎市美術館

なんと無謀な二人…築地河岸から手漕ぎボートで国外脱出を試みちゃった。
「オッペケぺー節」で知られ、日本の近代演劇の祖・川上音二郎と彼の妻で女優の貞奴の業績を回顧する「川上音二郎・貞奴展」(2011910日~1127日)が、茅ヶ崎市東海岸北の茅ケ崎市美術館で開かれている。
 音二郎没後100年、貞奴は生誕140年にあたる。二人の居宅の跡地である高砂緑地内に美術館は建っており、本展ではゆかりの着物や鏡、ブロンズ像、手紙などが展示されている。
 
×  ×  ×

*貞奴(さだやっこ=1871年―1946年)
 東京日本橋の生まれ。7歳で花街の芳町の芸妓置屋「浜田屋」の養女となり、のちに「貞奴」として座敷に出る。日舞の技芸に加え持ち前の美貌で売れっ子となり、時の総理の伊藤博文や西園寺公望ら名士から贔屓にされた。
 川上音二郎(1864年―1911年)と結婚したのは1894年だった。世情風刺の「オッペケぺー節」を歌い評判となっていた音二郎だが、2度の選挙落選で資金繰りに困り、1898年に築地河岸から手漕ぎボートで国外への脱出を試みたが、淡路島に漂着し一命をとりとめた。
 翌1899年、川上音二郎一座のアメリカ興行に同行し、座員が死亡したため舞台に立つことになった。これが日本の女優第1号といわれる。1900年にはロンドン公演、さらにパリ万国博覧会で舞台に立ち、大評判となった。
 1911年音二郎が病死した後、引退。
  福澤諭吉の娘婿で「電力王」と異名をとった実業家・福澤桃介との関係も話題となった。桃介は貞奴の初恋の人だった。桃介が諭吉に二女と結婚したため、恋は実らなかったが、音二郎の死後に長い空白期間を経て結ばれた。1920年頃二人は名古屋で同居を始めた。 
 1946年、貞奴の波乱に満ちた人生の幕を下ろした。75歳だった。

×  ×  ×

 貞奴ってモテモテだったのですね。写真をみてもすこぶる美人。周りの男がほっておかなかったのでしょう。
総理大臣の伊藤博文に公家の西園寺公望。結婚したのが近代演劇のパイオニアの川上音二郎。そして晩年は初恋の人であり「電力王」の福澤桃介と暮らすというキャリア。セレブ男性の行列ができる女性ですな。
「艶福家」というのは多くの女性に好かれる男に使われる言葉だけど、女の場合はなんていうのだろうか。
20111013日観覧

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2011年10月11日火曜日

池上永一「テンペスト」4冬虹

歴史の渦に翻弄され続ける地・琉球
 
池上永一の「テンペスト」第四巻冬虹(角川文庫)を読む。文庫の最終巻。
  
  昼は王府に勤める官吏で宦官の孫寧温、夜は側室の真鶴だが、尚泰王の子を身籠る。悩んだ末に母になることを決意する。列強の脅威に晒され、琉球王朝は崩れようとしていた。

×  ×  ×

 琉球王朝は、明治(1879年)になって沖縄県となり終焉しましたが、独自の文化伝統を持った独立した国家だったのですね。あらためて知りました。江戸時代は清国と薩摩藩に両属していた特種な歴史を少しばかり勉強した思いです。
 太平洋戦争での沖縄戦で2024万人もの戦没者を出し、占領され、日本に返還されたのは1972年(昭和47年)のことです。今もって普天間の基地問題などに直面し、歴史の渦の中で翻弄される地といっても過言ではありません。

 波乱万丈という陳腐な表現しかできませんが、美貌と才覚を持った真鶴が宦官の孫寧温として生きる決意をすることで、ジェットコースターのようなストーリー展開が幕を開けます。清と薩摩のパワーバランスの上に立つ琉球王府。19世紀。江戸幕府の鎖国政策は風前の灯となっていました。欧米の列強は清はじめアジアに触手を伸ばすそうとしている、そんな時代背景でした。
 なにより登場人物のキャラが面白く、読ませました。男と女との間で葛藤する主人公の二役?孫寧温と真鶴がこの物語のキモでしょうか。科試の受験塾時代からライバルの喜舎場朝薫、真鶴を愛する薩摩藩士の浅倉雅博、宦官ながら漁色家の徐丁垓、真鶴と親友になる真美那、そして市井のユタ(祈祷師)ジュリ(遊女)まで身を落とす聞得大君の真牛(もうし)……。起伏のドラマを盛り上げてくれましたな。
 池上さんのこの物語は劇画のようでした。軽い歴史エンターテイメントです。

目次:第四巻冬虹
・第十四章:太陽と月の架け橋(承前)
・第十五章:巡りゆく季節
・第十六章:波の上の聖母
・第十七章:黄昏の明星
・第十八章:王国を抱いて翔べ

第一巻春雷
・第一章:花髪(はなからじ)別れ
・第二章:紅色の王宮へ
・第三章:見栄と意地の万華鏡
・第四章:琉球の騎士道
・第五章:空と大地の謠
第二巻夏雲
・第五章:空と大地の謠(承前)
・第六章:王宮の去り際
・第七章:紫禁城の宦官
・第八章:鳳凰木の恋人たち
・第九章:袖引きの別れ
第三巻秋雨
・第十章:流刑地に咲いた花
・第十一章:名門一族の栄光
・第十二章:運命の別れ道
・第十三章:大統領の密使
・第十四章:太陽と月の架け橋
2011108日読了


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秀頼に将器を観た家康:「江」


大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」(第39回=運命の対面)

かつては亡き父・太閤殿下に服従を強いられ、

さらに国替えされ、江戸に追いやられ、

積り積もった恨みもございましょう。

それでもなお、豊臣のため働いてくださること、ありがたく存じまする。

これからも徳川殿ともに、泰平の世を築くこと、

ともに考えて参りたいと思います。

秀頼(太賀)は家康(北大路欣也)を前に堂々と語った。



慶長16年(1611年)328日、秀頼は家康の命を受け、京の二条城で対面した。秀吉恩顧の臣、加藤清正らを引き連れての上洛。京の民衆は、熱狂的に太閤の嫡男を迎えた。さらに、家康との対面でも、その凛々しさや聡明さは発揮された。

慶長10年に、秀忠(向井理)を二代将軍に就かせると、家康は高台院(大竹しのぶ)を通じて秀頼に上洛し将軍宣下の挨拶を促すが、淀(宮沢りえ)はそれを拒否した。

以来6年が過ぎていた。家康70歳。秀頼は19歳だった。

家康はあらためて秀頼のカリスマ性・将器を脅威に感じたのだった。



×  ×  ×



 ドラマでは、秀忠は秀頼が関白になり補佐役として、天下泰平の世を作りつもりと江(上野樹里)に言いました。

淀は家康が将軍に就く際に暫定政権で秀頼に繋ぐという約束を信じていましたが、秀忠の二代将軍就任でキレました。家康は将軍職を徳川家の世襲と思い描いているので、徳川と豊臣の亀裂はさらに深まりました。争いは、方広寺鐘銘事件、大坂冬の陣、大坂夏の陣と続くのです。



 さて三姉妹の妹2人ですが、初(水川あさみ)は夫の京極高次(斎藤工)が亡くなり、常高院となりました。徳川と豊臣の関係修復に努めていました。江といえば、竹千代のあと国松、和と産み、これで25女、夫婦円満なんでしょうな(笑)。




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2011年10月6日木曜日

荻須高徳展:美術館えきKYOTO


パリとベネチア―対照的な2つの街に惹かれ描いた。
 文化勲章受章の洋画家、荻須高徳(おぎす・たかのり=1901年―1986年)の生誕110年を記念する「荻須高徳~憧れのパリ、煌めきのベネチア~」展(201198日~1010日)が、京都駅に隣接した美術館えきKYOTO(京都伊勢丹7階)で開かれている。
荻須は愛知県稲沢市生まれで、東京美術学校を経て25歳で渡仏し、第2次大戦で帰国を余儀なくされた一時期を除き、84歳で亡くなるまで画業60年の大半をパリで過ごした。生涯の居と定めたパリとしばしば訪れたベネチア――2つ古都の人々の生活や歴史を刻んだ街並みなどを描いた約80点が展示されている。



×  ×  ×



 パリは薄曇りの光の中の肌寒い街、そしてベネチアは日差しが強い温暖な街。当方に表現力がなく、短絡的なイメージで捉えますが、対照的な2つの街だからこそ惹かれ、荻須高徳さんの描くモチーフがあったのだと、推測します。



京都の美博の館めぐり。フェルメールの京都市美術館を振り出しに、京都国立近代美術館「北村武資展」、白沙村荘橋本関雪記念館、美術館えきKYOTO「荻須高徳展」とハシゴしました。さらに平安神宮、清水寺、銀閣寺と観て回りましたぞ。持病の関係で長期はNG、1泊の小旅行しかできない身であることが残念ですが、充実した2日間でした。

今回で京都の旅は通算15回、2011年美博の館めぐりは30回となりました。

2011930日観覧




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