甲子園優勝(浪商)を手土産に17歳でプロ野球、東映(現日本ハム)入り即20勝を稼いだ尾崎行雄(おざき・ゆきお)さんが2013年6月13日亡くなった。68歳だった。
※以下敬称略
尾崎の投球を観たことがありますか?
右腕を後方に振り絞り、ハト胸を突き出すようのボディスイング、
腕が遅れて斜めから(スリークォーター)
出てくる独自のフォームだった。
スピードガン測定がない時代だが、今計れば、
その球速は150キロ後半から160キロ出ていたろうという球界関係者も多い。よく速球主体というが、正真正銘の「まっすぐ」ばかりの本格派投手だった。
あの剛球が忘れられない。
1962年(昭和37年)4月8日神宮球場。
東映―大毎ダブルヘッダーの第1試合。開幕第2戦に6万5000人の大観衆が詰めかけた。
3-3延長10回の緊迫した場面。
水原茂監督は17歳の新人尾崎をマウンドに送った。
猛打を売り物の大毎は2番からの好打順。
まず葛城隆雄を投ゴロ。
続く3番榎本喜八を三振。4番山内一弘も連続三振。
山内、榎本、葛城に加え田宮謙次郎。
「ミサイル」と異名をとった大毎打線。前年夏の甲子園大会で全国制覇した浪商の2年生で、
17歳の若者が名だたるプロの猛者を牛耳った。
その裏山本八郎がサヨナラ打を放ち、
尾崎は初登板初白星を飾ったのだった。
中学3年生の野球小僧はテレビ観戦で興奮し手に汗した。
うろ覚えだが、葛城にカーブを投げたが、榎本、山内には速球で押しまくったと思う。
東映は尾崎の快投で開幕ダッシュに成功、
リーグ初制覇を果たした。
尾崎の剛球伝説があの日から始まった。
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