*訃報は追憶を運んでくる。
亡くなったウォーリー与那嶺を初めて観たのは1958年(昭和33年)、川崎球場だった。大洋―巨人戦。巨人のリーグ優勝が決まった後の消化試合だった、と記憶している。横浜ベイスターズの前身である大洋ホエールズの本拠地が川崎にあった。※敬称略
球団の愛称「ホエールズ」(鯨)の親会社は大洋漁業(現マルハ)である。オーナーは人情派として知られる中部謙吉社長だった。
鯨は当時の食材の中心だった。貴重なたんぱく源。朝に鯨のベーコンを食べ、給食に鯨の竜田揚げが出ることはしばしばだったなぁ。鯨のカツや、「ゲイテキ」と呼ばれた鯨のステーキなんてご馳走だった。給食では脱脂粉乳を飲んでいたし、戦後の食糧難をまだ引きずっていた時代だった。大洋漁業は捕鯨を生業とし、日本の食卓を支えていた。今ならシーシェパードあたりに、爆弾でも仕掛けられそうなナニをされるかわからない会社だったよね(笑)。
食べなれた鯨と、生まれも育ちも川崎のガキにとって、大洋は愛着のある会社で球団だった。が、野球は並はずれて弱かった。万年最下位(1954年~1959年まで6年連続)だった。
川崎球場のスタメンは覚えてないので、1958年の開幕戦オーダーを記してみる。
1左・与那嶺要
2遊・広岡達朗
3三・長嶋茂雄
4一・川上哲治
5右・宮本敏雄
6中・岩本 尭
7二・土屋正孝
8捕・藤尾 茂
9投・藤田元司
対国鉄戦。長嶋が金田正一の前に4打席4三振を食らった、あのデビューである。
だから、観戦した大洋―巨人も注目は新人の長嶋茂雄だった。『打撃の神様』川上哲治に代わるスパースターの出現に、野球少年は熱狂したものだった。長嶋に次いで人気はエース藤田元司だった。川上の現役最後の年、かつての投手の柱・別所毅彦が晩年を迎えていた。
さて与那嶺である。あの時のプレーは印象にないが、エンディ宮本と英語(だと思う)で話をしている光景が記憶に残っている。彼はナニを話していたのだろうか。
――などと、とりとめもなく思い出したのだった。
× × ×
*それはセーフティバントから始まった。
1951年(昭和26年)6月19日。巨人―中日戦。7回代打で起用されたのが、与那嶺の日本プロ野球デビュー。マウンドはフォークの魔人・エース杉下茂。三塁前に絶妙なセーフティバントを決めた。初打席初安打。日本での活躍の吉兆だった。
ライフタイム成績は、1219試合、4955打席、1337安打、82本塁打、482打点、163盗塁、平均打率3割1分1厘、首位打者のタイトル3回獲得と攻守走に優れたプレーヤーだった。
監督としては、1974年に中日監督として巨人の10連覇を阻んだ。
功績が認められ1994年に野球殿堂入りを果たした。
セーフティバント、スライディング、タックルなど走塁面で日本プロ野球に新風をもたらした与那嶺要(よなみね・かなめ)が2月28日(日本時間3月1日)に亡くなった。85歳だった。
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